「内行花文鏡」
今日この鏡を話題にしたのは、日本の古代史において「内行花文鏡」が、不明な倭国成立時の謎に、かなり重要な意味を持つと云う事を本で読んだからです。
・・・弥生時代の終末期、日本の先進地域の北九州の倭国において、中国から持ち込んだ鏡や鉄材などが、倭国内で、その地方の優位性を保つ大事なものであったらしい。
したがって、今に残る弥生時代の墓から出土する中国製の鏡の数が、墓の主の身分を判断する判断材料の一つになっている。
・・・弥生時代終末期の北九州の最後の王墓と言われる伊都国の国邑にあったと言われている平原一号墳から超大型内行花文鏡が出土した。
弥生時代晩期において、鏡は貴重品で、墓に鏡が全国的にも珍しい。
多数(四十面)おさめてあることは墓の主がその時代の重要な人物であったことを示している。
しかも、この墓から出土したのは、内行花文鏡と言われている中でも、とびぬけて大きい直径46㎝の超大型鏡が5面出土した。
この墓は、西暦二世紀の末の築造と考えられており、長方形の周溝墓で盛り土はないが甕棺ではなく木棺が使われている。
この時期は弥生時代終末期で、邪馬台国の卑弥呼が現れる時代である。
・・・つい、先日、新聞各紙に桜井茶臼山古墳の石室に副室が発見されたというニュースが、掲載された。
桜井茶臼山古墳は全長200メートルあり、奈良盆地南東部のヤマト政権発祥の地と言われている、狭義のやまと地方の中の磐余(いわれ)にある。
考古学的には、被葬者は4世紀のはじめ、この地、ヤマトの磐余に君臨した大王の墓と言われている。
また、我が国の伝説上の大王である神武天皇は磐余彦と言われている。
そして、伝説では神武天皇は九州から東遷してこの地に来て、即位したと伝えられている。
・・・さて、超大型内行花文鏡が出土したのは初期の大ヤマト政権の古墳の桜井茶臼山古墳、下池山古墳(我が国の代表的な前方後方墳で全長120m、築造年代は4世紀初~中頃と推定されている)、柳本大塚古墳(前方後円墳で復元全長94m、築造年代は4世紀前半と推定されている)の三基で、しかも今まで、超大型内行花文鏡の出土状況は、下池山古墳と柳本大塚古墳からは主埋葬石室ではなく、別に小石室を設けて超大型内行花文鏡だけを埋葬してあった。
この、別に小石室を設けて超大型内行花文鏡だけを埋葬してあったは、「葬送儀礼の為、大鏡を作り、儀礼終了後に小石室に埋葬された可能性がある」と学者は考えている。
さて上の写真の新聞記事の「桜井茶臼山古墳で小石室が発見された」と云う事は超大型内行花文鏡を主埋葬石室とは別に石室を作って埋葬するという、三つの初期ヤマト政権時代の古墳の埋葬儀式の共通性があるように思える。
そして、このことは二世紀末の北九州の平原一号墳から磐余の初期大和政権の古墳の埋葬儀式の連続性が感じられる。
この記事の内容は、かなりの部分、森浩一著「倭人伝を読みなおす」からの引用があります。
参考としてネットの記事に下記のことが書かれているのも面白いと思いました。
「超大型内行花文鏡については、1965年の発掘調査を指揮した原田大六氏が、伊勢神宮の御神体で天照大神の分身である八咫鏡(やたのかがみ)との共通性を指摘している。」
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