・・・先日の元号の発表で「大伴旅人」の万葉集での序文が有名になった。
偶然であるが、私はその二週間前に市の図書館から、大伴旅人の息子の「大伴家持の百人一首」の本を借りて読んでいた。
大伴家持の方は少し時代があとなので、万葉集だけでなく、三十六歌仙のひとりとして有名で、小倉百人一首に歌が収められている。
万葉集については、大伴家持の歌が合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、家持の私家集の観もある。(この部分はインタネットから)
大伴氏は古代日本では物部氏と並ぶ武門の家で、大伴旅人は蝦夷派遣大将軍として、息子の大伴家持も九州隼人の反乱鎮圧の将軍として、名を残している。
しかし、部門の家だから、平安時代に度々あった、天皇家の相続に関する謀反へのかかわりを疑われて、何回か左遷されている。
そして、名門の家、大伴氏も家持が最後の代として、落ちぶれていきます。
旅人は大宰府長官としての時代の歌が有名ですが、家持の方は越中国司としての時代の歌が有名で、富山の高岡に彼の像が有ります。
私は、高岡に、昔住んで居た関係で、越の国の国司時代の歌人として、大伴家持に親近感を持っていました。
最近になって大伴氏が復活したことにとても親近感を感じました。