ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

日本古代史の本を読む

2012年07月31日 09時02分07秒 | 読書

・・・ここ数年間の私の愛読書は日本古代史の本です。
  ごく最近は、ここ2~3年の間に刊行された、最新の学問的成果の情報を載せている本を読んでいます。
  
  最近は、考古学の分野で木材年輪の研究、炭素同位元素による年代測定法などの年代を測定する技術の進歩や、三次元形状測定器による発掘古代鏡の形状測定技術、発掘した青銅品や鉄の金属元素の精密分析技術などの進歩で、発掘物による遺跡の年代の特定が進み、古代における遺跡や遺物の時系列整理が進んで文献との突合せで、おぼろげながら、邪馬台国のころの日本列島の様子が浮かび上がってきているようです。

  それによると、弥生時代の紀元前後から、200年ごろまでの大陸の国、後漢との交流では北九州の国々が、日本列島の中心であったらしい。
  その期間の後半に置いて列島の中では九州意外に、山陰、岡山、香川、畿内、東海、北陸などの地方に、各々の文化と政治と経済の力を持った首長が現れ、列島は北九州とそれらのクニとの間が、緊張状態にあったらしい。

  後漢が滅びる西暦200年代中頃から、奈良盆地の南東の三輪山の麓に、各地方の首長の連合による、新しい政治勢力が生まれ、その利益共同体の統治シンボルとして、各地方の祭祀を合わせたような前方後円墳が出現した。

  この奈良盆地東南の土地に起こったクニが発展して古代大和政権が現れるわけである。

  さて、魏志倭人伝の記述によれば、邪馬台国はご存じのように西暦239年に後漢の後に起こった、魏に使節を送り、その女王「卑弥呼」は248年ころ死に、直径約150mの塚を作ったとある。

  考古学の最近の研究によれば、弥生時代もこのころには、日本列島内では北九州から関東にかけて、地域間で、人や物資がかなり煩雑に、移動していたらしい。

  また、この200年代中頃から、古墳時代の象徴である、前方後円墳が奈良盆地の東南の地域を中心に突然、各地で作られ始める。
  そして、その中心である古墳が、三輪山のふもとに、直径278mの日本最古の大型古墳「箸墓古墳」が、このころ造られるわけである。
  200年代に、北九州では弥生時代を通じて今まで盛んだった中心国、伊都国は衰退し、新たに200年代末にヤマト政権に属したと思われる北九州東北部に直径130mの前方後円墳「豊前石塚古墳」が現れる。
  この前方後円墳は畿内の箸墓古墳と全く同じ設計で、同じような遺物が発掘されている。

  これらの事からも、魏志倭人伝の記述による、邪馬台国は西暦239年に、魏に使節を送り、その女王「卑弥呼」は248年ころ死に塚を作ったとあるのは畿内の奈良盆地東南のクニ、ヤマトであると考えざるを得なくなる。

  しかし、古代史の面白いところは、次、次と、新しい考古学的知見が出てきて、今までの古代史の見方を変えて云ったり、より確かにしていってくれたりするのか楽しみなのである。

コメント
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