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ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

舟形埴輪で有名な宝塚古墳

2013年09月20日 07時24分47秒 | 日記

・・・この古墳は五世紀の初めの築造で旧伊勢国最大の大きさです。

 

 

 全長111mの前方後円墳で、全国的な大きさから云うと大したことはないのですが、造りだしから発掘された埴輪が多彩で、全国的に有名になりました。

 
 「展示されていた本物の装飾舟形埴輪」

 

 有名なのは全長が140㎝、高さ92㎝の舟形埴輪で、とくに、装飾を極めた舟形埴輪としては全国で唯一のものです。

 

 その他にも、発掘された、多彩な埴輪が松阪市埋蔵文化センターはにわ館で見学できます。 1700年前の埴輪の実物は素晴らしいもので一見に値します。 展示されている埴輪は今まで私が、見た埴輪の中で、一番素晴らしいものでした。

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息長広媛陵

2013年09月02日 05時54分28秒 | 日記

・・・米原市村居田にある、宮内庁管理の息長陵は第30代敏達天皇の皇后「息長広姫(おきながひろひめ)」の御陵で、息長広姫は近江国坂田郡の豪族息長真手王(おきながまておう)の娘であったとされています 

  

  古墳辞典には 息長陵古墳群は、全長60mほどの前方後円墳(村居田古墳)と陪塚1基からなり、陪塚が現在治定の陵とみることができる。 元禄9年(1698)、光運寺本堂改築工事中に長さ2.2m・幅1.1mの縄掛突起を持った家形石棺が出現し、 近年の石垣改修工事で多数の円筒埴輪片が出土した。』  出土した埴輪から、5世紀末頃の築造と推定されているので、 光運寺本堂付近にあった古墳は、広姫の時代(6世紀後半)とは年代的に相違することが指摘されている。 

  

  写真の右端上が御陵で、中央の建物は舊陵山光運寺。 その横の大木の下にある盛り土(前方後円墳の一部)が下の写真です。

  

  光雲寺本堂横の古墳の一部は囲ってあり、右から「息長陵付属地」、「息長広姫陵古墳群」と刻まれた二本の石碑が立っている。  継体天皇の即位には近江の豪族の力が基盤になっていると云われているが、その孫の敏達天皇の頃も近江の豪族の影響を感じる。
   

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宮簾媛の邸宅跡を訪れて

2013年08月31日 07時55分37秒 | 日記

・・・以前に、日本武尊の妃の宮簾媛が御祭神である氷上姉子神社のことを紹介しました。

  
「愛知県東海市名和にある氷上姉子神社」

  この神社へ行く道の反対側に、さらに高い丘があります。その丘の上に、御祭神の宮簾姫邸宅跡の石碑と元宮社がある。

  

  奥にあるのが、元宮社の小さな社です。  そして、その横に石碑が建っていて、そこに日本武尊の皇妃宮簾姫邸宅跡と書いてあります。

  


  日本書紀の記載に、「日本武尊はさらに尾張に帰られ、尾張氏の女、宮簾姫をめとって、長く留まれた。そこで、近江の伊吹山に荒ぶる神のあることを聞いて、剣を外して宮簾姫の家におき、徒歩で行かれた。・・・」 結局、日本武尊は剣を宮簾媛に預けたままにして、三重県、鈴鹿の能褒野で亡くなられた。  そこに書かれてある、宮簾姫の家がここらしい。  この町の人はこのような、記載をあまり知らない。

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東海市の岩屋口古墳

2013年08月30日 06時54分08秒 | 日記

・・・私が住む東海市の南部の海を見下ろす小高い丘に岩屋口古墳の石室が保存されている。

  

  平地から、30メートルくらいの高さにある小山の頂上付近に南向きに海の方向に口が開いている横穴式石室が保存されている。

  

  石室はとても立派で説明板によると七世紀ごろに建造されたもので、8.4m長さ、幅1.7m、室の高さ2.1mで、天井石も大きなものが二枚残されている。

  この石室の入り口に立って、南の海の方向見ると、壮大な眺めが眼下に広がり、この墓を作った古代人の気持ちがよく分かります。

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古墳の埴輪

2013年08月23日 07時03分57秒 | 日記

・・・古墳に行くと、目につくのが埴輪です。

  

  上の写真は琵琶湖湖畔の五世紀前半に築かれた久保田古墳に行った時に撮った写真である。 写真の円筒埴輪は祭祀の場所との境を示すもので、その形は、時代の経過によって特徴が変化します。  古墳の円筒埴輪の祖形は備中に発した特殊壺、特殊器台です。 この特殊壺、特殊器台は時間と共に変化するが、最終形式は備中の宮山古墳の形で、備中で突然消え、代わって、奈良盆地東南部の箸墓古墳などに突然表われました。 今この謎が、近畿の前方後円墳が備中の弥生墓丘と、つながっていることが想像させられる。 

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古墳学の森浩一さんが亡くなった。

2013年08月10日 09時36分43秒 | 日記

・・・私は日本の古代史の本を読み、遺跡や資料館を訪れるのが退職してからの趣味の一つです。

   

  上は、私の持っている、森浩一さんの「古代学」の本の一部です。

  今日の朝日新聞の三面のトップに、森浩一さんが亡くなった記事が出ていた。

  

  私も、今までに、知っている大学の先生は何人かいるが、森浩一さんは本で知った学者ですが、その道で実績を残されたことが著書の中でわかるひとりです。 私は基本、その道の研究者以外の古代史の本は読まないのですが、大方の学者の本は読み続けるのが、難しい人が多い。
  面白い本の著者には、学識が無く、不正確な知識や、人の受け売りの知識しかない。
  そういうなかで、森浩一さんは数少ない考古学の立派な学者だと思います。  彼については、一度、私の考えをまとめてこの欄で書きたいと思っている。

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草薙ぎの剣を盗んだ僧の寺

2013年08月07日 12時18分18秒 | 日記

・・・先日読んでいた「日本神話の考古学」森浩一著の中に、表題に書いた面白い記述を見つけた。 その内容とは、「日本書紀」天智天皇七年の時に「沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。 而して中路にて、雨風荒れ、迷いて帰る」 と書いてあり、その僧動行が開基として、我が町の隣町に法海寺を開いたらしい。
  今日、その法海寺に行ってきました。

  
  「法海寺の仁王門と本堂」

  
  「三重塔の心礎と書いた碑があった」

  この話は日本書紀に書いてありますが、本当の話かどうか、よく分かりません。 しかし、この寺から出土した考古学的遺物の中には、弥生土器が出ており、古くから、開かれた場所で、且つ、奈良時代の瓦なども出土しているので、日本書紀の書かれた時代以前には法海寺の大伽藍が存在したことは本当らしい。

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大八洲国について

2013年07月19日 07時13分20秒 | 日記

・・・今、読んでいる日本古代史の本のなかで、面白いと思えた本の一つは「日本神話の考古学」、森浩一著、朝日文庫である。

  

 読んで面白かった内容は、幾つか在るが、その一つに記紀記載の「大八洲国」についての記述がある。  我々、世代は馴染みがないが、戦前はよく使われた言葉である。 記紀に書かれた神話によればイザナキとイザナミのニ神の子供として、日本の国は出来たのであるが、記紀が書かれた700年代初期当時の認識の大八洲国とは、①淡路島、②奈良、③伊予(四国)、④筑紫(九州北部)、⑤隠岐の島と佐渡が島、⑥越の国(北陸)、⑦周防大島、⑧吉備児島の8つの島が日本書紀に書かれている大八洲国の内訳である。  その後に、追加で対馬島と壱岐島が作られたとある。

 
 「今の地図に、大八洲国を当てはめた地図」

  古代に栄えた出雲や吉備は触れられてなく、主として瀬戸内海の島々が大八洲国に数えられている。  越の国が入っているのは当時知られていたの天皇家の近い祖先と考えていた継体天皇の出身地だからではないかと云われている。

  記紀の国生み神話では、生まれてきた大八洲とは、農耕地の広がる平野でなく、奈良の事である豊秋津洲は別として、海上の拠点となる島を、主要な国に挙げているのは当時の海上交通がいかに大事だったことを示している思う。 

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日本100名城 長篠城

2013年06月26日 05時53分17秒 | 日記

・・・愛知県の豊橋市から、北の方向に、山間を入ったところにある長篠城に行ってきました。
  この城は1575年、徳川家の領地であった長篠城を武田勝頼の最強の騎馬軍団が攻めた時に、徳川家康と織田信長の連合軍が鉄砲で迎い撃ち、戦いに完勝し、日本の戦争で鉄砲が主役になった有名な戦いの場所です。

  

 写真のような狭い場所で戦いがあった。 写真正面に旗と馬防柵が設けられている。

  

  上の写真では、柵の後ろに、この場所を通る第2東名の工事状況が写っている。 

  

  長篠城跡には史跡保存館が建てられていて、中には使われた鉄砲などが展示されている。

  

  城の位置は急峻な川に挟まれた三角地に立てられた守るに優れた城です。

  

  地図に右端の両側から山が迫っていて、日本の川が合流した三角地に長篠城は立っている。  右側から武田軍、左側から、徳川・織田の連合軍が進軍してきた。

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大垣城

2013年06月17日 07時31分48秒 | 日記

・・・中部地区には大きな城がたくさんあるが、岐阜大垣城は関ヶ原の戦いがスタートした場所で有名である。

  
  「門から天守閣が見える大垣城」

  大垣城は石田三成が関ヶ原の合戦前に、西軍をこの城に集めて、家康の東軍を迎え撃ちうとした場所である。 結果的には家康に、関が原に誘い出されて敗北することになる。

  

  大垣城は戦前まで、国宝として天守閣が保存されていたが戦災で焼失し、今はコンクリート製の天守閣になっている。

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味美二子山古墳

2013年06月15日 07時53分28秒 | 日記

・・・二子山と云う名が付いている古墳は日本全国にあるので、判別の為に、上に古墳がある地名をかぶせる。 今回訪れたのは愛知県春日井市味美にある古墳なので、味美二子山古墳と云う名前が付いている。

  

  築造された時期は六世紀前葉で形は前方後円墳です。  この古墳の特徴はちょうど同じ時期に作られた思われる、大阪府高槻市の継体天皇古墳と同じと形と考えられている。  今定塚古墳(全長190m)の形は相似形で寸法は正確に二分の一の大きさです。 また、同じ時期に作られた、名古屋市熱田の尾張の連の断夫山古墳(全長150m)とも相似形で、大きさは断夫山古墳の約60%の寸法です。
  このころの古墳は形や規模の違いは古墳の主の生前の身分や実力を示すと云われているので、この墓の主は継体天皇や尾張氏と同じ時代に活躍した有力な人物と考えられています。 

  

  一説には継体天皇妃で、安閑・宣化天皇の母である尾張の連草香の娘、目子媛の墓ではとの説もあります。

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昼飯大塚古墳の話

2013年06月14日 07時01分28秒 | 日記

・・・先日、墨俣城に行った時に大垣市にある、濃尾平野最大の昼飯大塚古墳に行った。

  

  この古墳は大垣市郊外にある四世紀末に築造された全長150メートルの前方後円墳で美濃国安八磨郡の豪族の墓と考えられる。

  さてこの辺りは、壬申の乱の時に大海人皇子の呼びかけで参戦し、天武天皇の勝利に大きな役割をした兵力の存在地として有名ですが、それは昼飯大塚古墳の埋葬者の子孫だったと思う。

  

  中世の関ヶ原の戦いで有名なこの土地も、上の地図でわかるように、古代においても、主要幹線道路の「東山道」がそばを通り、すぐ北の金生山鉄鉱石鉱山がある裕福な土地で、昼飯大塚古墳の豪族や大海人皇子はこの地を所有していた。

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青塚古墳

2013年06月09日 09時25分08秒 | 日記

・・・今まで、国内の幾つかの古代遺跡を巡る旅をしてきた。  最近では近くの遺跡を幾つか周って、意外と近隣の遺跡がよく整備されていることを知り、時間がある限り、それらの場所をめぐってみようと思った。

  

  今回は愛知県犬山市にある古墳時代初期の四世紀に作られた全長123mの前方後円墳です。 

  

  今は、公共の公園として、とてもきれいに整備されています。  しかし、残念ながら古墳の上には、立ち入り禁止で登れませんでした。  誰が葬られているかは不明ですが、この地方の初期の有力者の墓です。 

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陶板「トランペツトを吹く少年」に台をつけました

2012年11月17日 09時48分35秒 | 日記

・・・先日、このブログで紹介したが、私にとって、初めての陶芸で「トランペットを吹く少年」を作った。

  

  出来上がったものを、壁に架けれるように自然木を利用して、台を取り付けた。

  

  仕上がった陶板を壁に架けて、写真を撮った。
  台は輪切りにした幹部分、留めの木は剪定した樹の枝を活用した。
  

  

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本格的な陶芸にトライ ⅳ 本焼き

2012年10月19日 07時19分38秒 | 日記

・・・色付けした素焼きの作品を先輩の家に預けて、三日目に焼きあがったという電話があり、受け取りに行ってきました。

   

  仕上がりは予想以上に良い色に仕上がっていて、陶器らしい光沢で、大変満足しました。 人形の服の袖口に白色を塗ったのですが、下板の何も塗らない方がとても良い感じの乳白色の仕上がりでした。

  

  上の写真が焼き上げた窯です。
  初めての本格陶芸はとても満足する出来上がりでした。

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