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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

死はその時己に何を求めるだろう その8

2017年08月24日 22時34分39秒 | Weblog

いや、誰もがそこで何かを己に向かって語るだろう。たった一つの結論を導き出すだろう。長い長いマラソンを走り終えて、このマラソンの感想を述べることになるだろう。一言に集約して述べることになるだろう。

十郎の場合は、それは否定的な結論になるのだろうか。それとも肯定的な集約表現になるのだろうか。今現在でどちらに転ぶのか予想がつかない。

死はその時己に何を求めてくるのだろう? 何も求めてくることはないのかも知れない。安らぎを与えて与えて来るだけかもしれない。死は全面的に仏陀の利他行、慈悲の行の内側にあることなのだから。

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死は己に何を求めるか その7

2017年08月24日 22時28分17秒 | Weblog

わたしは美しい夕日を見た。海に落ちていく夕日だった。これを美しいと思えた。これでよかった。この一点で迷いの底から波の上に浮かぶことができた。この感動を抱いて死ねるのだから、わたしの充足は揺るがない。そういういわば自画自賛のような結論で幕引きが出来る人、極上の幸せで決着できる人もいるかも知れない。

 

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死は己に何を求めるか その6

2017年08月24日 22時21分47秒 | Weblog

生まれて来る前に、「この世に生まれてきたらこれをしよう、あれをしよう」などと計画をしてきたはずだ。そしてそれは何%くらいが実現したのだろう。中にはしなくていいことばかりをしてしまうことになってしまった、なんていう人もいるかも知れない、0,00001%位は。その対極にいる人もいるかもしれない。すべてやりたいことばかりをやれた。奇跡的だった、とう述懐を残せる人も。

死は己に何を求めるだろうか? 何も求めないだろうか。そうかもしれない。そうだとしたら、十郎は安らかに死ねそうではないか。

生きている間に、こころに釘が刺さって苦しんだなんてことは一度や二度ではないのだから。

 

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死は己に何を求めるか その5

2017年08月24日 22時17分25秒 | Weblog

いやいや、この世に生まれてきた人の全員に満足をして死んで行って欲しいものだ。ひそかにそう思う。誰もが満足をする死に方があるはずである。

「ああ、オレは生まれてきてよかった」「ああ、オレの一生涯は何と素晴らしかっただろう」「ああ、おれはここで死ねてよかった」「結果的にだが、オレがこの世でこれまでにしたことはすべて正しい道筋を踏んでいた。自然の理に適っていた」という具合に。全肯定をして。

死は己に何を求めるのだろうか? 

案外、何も求めることはないのかもしれない。そうだと安らかに死ねそうだ。

 

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死は己に生涯の集約を求めるか その4

2017年08月24日 22時14分28秒 | Weblog

「悔いはない」と言って死ねる人もいるかもしれない。「悔いばかりだ」と言って死ぬ人もいるかも知れない。

前者には恐怖感などというものはなかろう。後者の反省は慎み深さを、同行者たちに讃えられることになるかもしれない。

 

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死は己に生涯の集約を求めるか その3

2017年08月24日 22時07分04秒 | Weblog

オレは何もかも上手く行った。で、遇う人遇う人に、自慢を重ねて来た。でもそれで失うこともあった。上手く行かない人を蔑んでしまうことになった。これはいいことではなかった。支配者にはなれたが、心の友を得ることがなかった。

オレは何もかも上手く行かなかった。人を羨んでばかりだった。人を比べて生きることがつまらない生き方だと言うことくらいは分かっていたのに、結局一生涯比べて比べて生きることになった。侘しい寂しいやるせない暮らしに終始した。

などなどなど。

 

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死は己に生涯の集約を求めるか その2

2017年08月24日 22時00分41秒 | Weblog

生きている間にあれこれあれこれがあって、泣いて笑って悲しんで喜んで、でも最後に終わりになって、死ぬ時が来て、ふっと、「オレは死んで行くことになったけれど、では、結局のところ此処で一体何をしたのだろう?」って一瞬、頭を捻ってしまわないだろうか。一生涯の収支決算みたいなものを迫られてしまうことはないだろうか。

「で、オレは此処へ何をしに来たんだったっけ?」「何が残ったんだっけ?」「いやはや、あれだけ期待して生まれて来たのだけど、人間が生きるというのは結局のところ、こんなことだったのか」(女性の場合は「わたしは・・・・?」と柔らかくなる)

(偉くなれた人、偉い人はそういう切迫感(?)を抱かなくても済むかも知れない。「ふっふっふ、努力はすべて実った」と)

 

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死は己の生涯の集約を求めるか その1

2017年08月24日 20時44分28秒 | Weblog

人は死ぬ。人は死ぬ時に何を思うのだろう? もう何にも思わないのだろうか? 最終の最終ではそうなるだろう。でもそこに到るまでの時間が用意されている。僅かな時間かも知れないが・・・

 

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弱い者は一人の中でなんとか生きようとする

2017年08月24日 04時08分12秒 | Weblog

弱い者は一人の中でなんとか小さく生きようとする。強い者は力が有り余っているからそうはいかない。大きく生きようとする。威張ろうとする。影響力を行使しようとする。暴力の手段に訴えてくる。黙っていられない。ひっそりなんて生き方を好まない。自制ができない。何処まで強いか試してみたくなる。反対する者はみんな黙らせたくなる。他を挫こうとする。他者を廃絶させようとする。戦争を思い付く。皆殺しを計画してかかる。強い人の短所だ。

弱くしてしか生きられない者はこうはできない。他者を痛めつけようなんてことにはならない。そんな力はないんだから。迷惑をできるだけかけまいとしてかかる。これは弱い人の長所だ。

小さく生きるか。大きく生きるか。影響力も持たずに小さく生きるか。影響力を最大限発揮して、大きく生きるか。

いつも必ず「正義のためだ」なんて言いながら、行き着いたところは戦争だったじゃないか、殺戮だったじゃないか。歴史が物語っているじゃないか。

強欲なイキモノにはブレーキがついていない。強欲のアクセルだけがフル活動している。

人類みな文明を持たず文化を持たず科学を持たず経済を持たず兵器を持たず政府を持たず、小さく乏しく弱い人間で生きていた頃が懐かしい。

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何の物音もしない山里の午前4時

2017年08月24日 03時33分43秒 | Weblog

只今真夜中の3時35分。静かだ。何の物音もしない。

物音がしない。息をする十郎の鼻の先っちょに音がしている以外は。あとの音は? みな死んでいる。生きているとしても、十郎の耳には捉えられない。生きているものは音を立てているはず。オレは生きているんだぞって主張してるはず。それがない。ないということは? やっぱり死に絶えてしまったんだ。そういう錯覚が起こる。耳を持つ人間は、何かをいつも聞いている。聞いていないと孤独になる。恐怖のツンボ桟敷に置かれてしまう。ははーん。人間は耳で、世界が生きているということを確認してたんだな。死んだ世界にはたぶん音はないと思うよ。たぶんね。

目は、目を閉じることができる。けど、耳はできない。耳をいったん閉じるということはできない。手の助けを借りなければ。

山里の集落の午前4時。ほんとうに何の物音もしない。生きているのはわたしだけになったのではないかしらん? そんな不安がよぎる。

xxxx年x月x日、とうとう北朝鮮が核弾頭を撃ち込んで、黙っていられないアメリカがその何倍も何倍も撃ち込んで、地球上のイキモノは鳥や魚や虫に至るまでモウナアーンニモ遺ってはいない。なんてことになりませんように。全世界で祈りが続けられている。

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