今日の因縁あるならば、忝(かたじ)くも観世音、無間(むげん)三途(さんず)の中にても、代わりて苦患(くげん)を受けたまふ
「観世音御和讃」より
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「無間」:「むけん」と読む。後生になれば濁って読んだ。間断がないこと。絶え間がないこと。ひっきりなし。連続して終わりがないこと。「無間地獄」の略。
「三途」:「さんず」。悪行を犯した罪を修復修正するところ。餓鬼界、畜生界、地獄界の三つの場所を指す。
火に焼かれて己の罪を自覚する方法(途=道=世界)。刀杖の打たれ叩かれて己の罪を自覚する方法。切りさいなまれて血を流しながら己の罪を自覚する方法。
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鬼になった己の数限りない間違いを、順次、正して行くところ。己が貯め込んだ毒を吐き終わるところ。己が他者に与えた苦痛と同量の苦痛を体験して、精算が終わる。
自覚し終われば修正修復が成って、懲罰は終了し、次の高みに上がる。(・・・と、僕は考えている。悪行の毒を貯めたままでは、次へ進めないので、己が一番に苦しいだろうから、ここでおもいっきり苦しみを吐いて行くことになる)
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ところが、ところが、観世音菩薩は菩薩様である。お慈悲の菩薩様である。鬼のわたしの悪行の毒を、己に引き受けるという「代受苦(だいじゅく)」の菩薩行に出て下さる。苦しむ者の苦しみを黙視しておれないからである。鬼は落涙の鬼になる。落涙によって清められて行くことになる。(・・・と僕は考えている。無間三途の、三悪道のただ中も仏の世界なのである。いやいや、此処こそが最も多くわれわれは学習をすることが出来る場所、仏の世界になっているはずである。仏はわたしたちを捨てられることはない。観世音菩薩は、仏のこころの実行部隊である。
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代受苦(=受けて当然な人の苦しみを自分が代わってすすすっと引き受けること)の菩薩道。代受苦の真反対の、「代受楽=受けるべき人に代わって、(楽しみを盗んできて)、受け取ること」を通して来たわれわれ人間道。その対比を、無間三途の世界で、学んでいくことになる。
(・・・と、僕は考えている。肯定的に肯定的に、無間三途界のことを考えている。死んでみないと、しかし、本当のところは分からないのだが)
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(われわれは、生まれて死んで、死んで生まれて、次へ次へと歩を進めて、どこまでもどこまでも高くなって、光になって、光り輝いて行く、はずだから)
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「今日の因縁あるならば」の条件がついていたことを思いだした。「今日、仏の世界、菩薩道の因縁世界に目を向けたということ」という「転=転回」が条件になっているようだ。