暑い暑い。暑くて暑くて、やる気が溶けて流れ出してしまって、畑に出て行く気持ちが失せてしまったようだ。日が傾いて、日射しが射さなくなっても。
するべきことは、たくさんあるのになあ。作業着に着替えて出ようとする気持ちにならない。
すっかり怠け者になってしまった。お爺さんはいよいよお爺さん度を加えることになった。冷房の部屋にいてごろんごろんしている。
暑い暑い。暑くて暑くて、やる気が溶けて流れ出してしまって、畑に出て行く気持ちが失せてしまったようだ。日が傾いて、日射しが射さなくなっても。
するべきことは、たくさんあるのになあ。作業着に着替えて出ようとする気持ちにならない。
すっかり怠け者になってしまった。お爺さんはいよいよお爺さん度を加えることになった。冷房の部屋にいてごろんごろんしている。
「唯心浄土 己身弥陀」
観無量寿経より。
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この文章を、宇宙の話にして仕立ててみる、とどうなるのだろう。
心を人間のわたしの心としないで、宇宙全体の心にして、考えてみると、どうなるのだろう。
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銀河系宇宙にはこころがあって、そのこころはただただ、ここ宇宙全体を、浄土にしようとする心である。するとそこに阿弥陀仏が立ち上がる。銀河系宇宙と同じ大きさの阿弥陀仏が立ち上がる。無量寿如来、無量光如来が立ち上がる。
「唯心浄土 己身弥陀」
浄土教経典 観無量寿経より
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ゆいしんじょうど こしんみだ
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どう読めばいいのか。
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こう読んでみた。一つの読み方に過ぎまいが。
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唯心を浄土とすれば、己身こそは弥陀なり。
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唯心の浄土なれば、浄土となった己の身がそのまま阿弥陀仏となっている。
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こころを穢土にしてもいいし、浄土にしてもいい。心のなすままだ。もしも、こころを浄土にすれば、そこで我が身が阿弥陀仏として活動をする。光輝いて活動をする。
こころを浄土にする方法は、我が身に阿弥陀仏をお呼びすることである。
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浄土を西方十万億の先に置かないで、我がこころの中に建設すると、そこが極楽浄土。我が身が、奇しくも、阿弥陀仏となっている。それこそが阿弥陀仏の願うところであるに違いない。
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でもこの読み方は異端かもしれない。傲慢が過ぎているのかもしれない。間違った解釈かもしれない。
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キリスト教のキリストはキリスト一人がキリストであるが、仏教の仏陀は、ガンジス川の砂の数ほどの仏陀である。しかもみなが仏陀に等しい仏陀である。差別をされない。縦の上下ではなくて、同等の横並びである。
仏陀の願いは、すべての人を仏陀にしたいという願いである。
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念仏すれば、己身、すなわち阿弥陀仏。即身成仏す。
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横着過ぎるだろうか。
阿弥陀仏はこの同一同等了解を、不届き千万として立腹に及ばれるのだろうか。
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南無阿弥陀仏。阿弥陀仏に南無したてまつる。南無帰依が成就したら、阿弥陀仏と同体同一同等となる。
やはり傲慢不遜な理解かも知れない。
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どうかお助け下さい、どうかどうかお救い下さいが宗教らしくもある。ひたすらにおすがりする姿勢が謙虚で宗教心に溢れているようにも思われる。
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浄土門の念仏も、「どうかこのわたしをお助け下さい」で全部だろうか。
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難しい。難しくて分からない。
わたしを、最高のわたしにするために、蓮が咲きました。最高の姿の、この世を見せる蓮の花が咲きました。
暑い日の、堀端に、蓮の花が咲きました。美しく美しく咲きました。
わたしを、わたしの最高にして、眺めました。
「うん、もういいよ。ジタバタしないでもいいよ」って声が聞きたいもの。釣り上げられた小魚のように、跳ねて騒いでいるわたしに、そんな声を掛けてくださるといいなあ。小魚のわたしのジタバタが、少しは軽くなれるかもしれない。諦めを得て、そこでくったり安らいでいられるかもしれない。
ブッダンサラナンガッチャーミー、ダンマンサラナンガッチャーミー、サンガンサラナンガッチャーミー。三帰依文を唱えてみる。俎の上を跳ね回らず、暴れ回らず、くったりなってみる。
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我は、仏に帰依したてまつり、仏の説く法に帰依したてまつり、仏の説く法を聞いて、実践の行をする人たちに、帰依したてまつる。帰依をするとバタバタバタのバタつきが止む。
♪ 今度来るときゃ、持て来ておくれや、奥の深山の、凪の葉を ♪
南部牛追い歌より
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民謡を歌うのが好きで、誰も居ないのを確かめて、歌って、ひとりの時間を慰めています。歌ってて、「凪の葉」ってなんだろう? と疑問を抱いていました。調べてみました。
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☆ ナギは関東以南に生息するマキ科の常緑樹らしい。
☆ 熊野神社のご神木らしい。熊野巡礼で袖や傘にナギの葉をつけてお守りとしたらしい。
☆ ナギは「凪」に通じる。風が止まっている海は、穏やかである。海上航路の安全祈願をしたようだ。漁に出るときにも、祈願が込められたようだ。
☆ このナギの葉に、夫婦円満、波風が立たない、おだやかで円満な、良い夫婦縁が続きますように、という祈りが込められたらしい。
☆ わが性格も、できれば、穏やかな、尖らない、とげとげしくしない性格でいたいものだ。
☆ 南部藩の領民は春から秋にかけて伊豆方面に出稼ぎに赴いたらしい。温かい伊豆地方には、この目出度い、貴重な凪の木が珍重されていたようだ。
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ここまで調べてみて合点した。癇癪持ちのわたしにも、ナギの葉が欲しい。不安で不安で不安定症状に堕ちるわたしに、煎じて飲ませてあげたいものよ。
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これからは、歌に祈りを込めてみよう。
庭に、黄鹿の子百合が咲き出した。数輪。茎が細くて高い。鹿の子百合は花びらをいっせいに後ろにそらして、全体が丸みを帯びて咲く。花びらにテンテンテンの小さな斑模様が特徴だ。
黄色鹿の子百合は大輪ではない。むしろ小輪である。茶室に飾るにふさわしい花の風情を持つ。控え目である。赤いまだらの鹿の子百合はまだ咲き出さない。だが、もうまもなくのはず。
キレイだ。前に立って、キレイだキレイだの声を掛ける。
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わたしも、仏陀に声を掛けられたい。<キレイだキレイだ>は、そりゃ、いくらなんでも、無理だろうけど。
残された人生の、わたしの時間を、できることなら、仏陀に出遭っている時間に、しておきたい。しかも、それが分かるようでありたい。それが分かっていたら、わたしはじんじんじんじんしているはずだ。わたしの全身に1万ボルトの電流が流れているはずだ。
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その時間は、仏陀幼稚園に来て、外の遊び場で遊んでいる時間、にしておきたい。もちろん、先生役は仏陀だ。
わたしは砂場で遊んでいる。遊びに耽っている。仏陀が近くに来て、立って、幼いわたしを、見ている。わたしは砂遊びに夢中で、鳴いている蝉の声も聞こえていない。
小鳥が近くに来てしきりに鳴いている。庭先に来ているらしいが、姿は見えない。あまり聞き慣れない鳴き声である。ちちりちりちちちり、とも、ぴぴりぴぴりぴ、とも、ほひひふ、とも聞こえる。澄んだ声を立てる。高いソプラノだ。
わたしに歌声を聞かせて聞かせて、「どうだい、爽やかな気分になれたかい? じゃ、行くよ、山に戻って行くよ」というふうに去って行ってしまった。ありがとう、お陰で、明るい爽やかな気分になれた。7月8日、今日は月曜日。快晴。