<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

内と外が釣り合いがとれるまでは。

2022年08月08日 15時18分53秒 | Weblog

お爺さんだからよほど人生経験を積んでふくよかな成長をその内側に蓄えているに違いないと想像される向きもあるが、このわたしに限っては、それがそうではない。お爺さんといえる部分は形骸だけである。皺が寄ってよぼよぼで呆けているという点は、なるほど歴としたお爺さんである。

しかし、その内容たるや、惨憺たるもので、いまだ幼児期を脱してもいない。なんだこりゃと思う。

爺さんになったら、それで必然的にその豊かな智慧にうなづかされた生活を送っている、というわけではない。このお爺さんは。まったく「その年齢にふさわしい進歩」という特典がない。

この分じゃ、まだ相当の年数生きなければならないだろうと思う。内と外が釣り合いが取れるまでは。

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わたしはずっと昔、地球に100年生きていたことがありました

2022年08月08日 12時40分50秒 | Weblog

「わたしはずっと昔、地球に100年生きていました」とわたし。死んで10100年経っている。

もうわたしは地球をずっと遠く離れている。銀河系宇宙の、あちこちを経巡ったが、それでも銀河は尽くせない。100年ずつ100回生きた。生きた生きた、いろいろさまざまに生きた。

その間、10年ずつの休憩期間が取れた。

いま? いまは次の旅へ向かうところ。

どの星での暮らしもそれぞれに魅力が溢れていた。まったく別種の魅力だったので戸惑った。

 

 

などと、推測してみる。あんがい、推測通りに行くんじゃないか。などとも思う。ふふっと笑ってみる。推測は自由にできるから。

我が家の畑にはいま糸瓜が黄色い花をたくさんに咲かせている。みな雄花だ。雌花はもう少し後になる。秋が深くなると実が実る。ぶらりと垂れてくる。これは食用糸瓜だ。地球だけに咲いている花だった。

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野原の草は声を持たない

2022年08月08日 11時49分49秒 | Weblog

いつも思うこと。どうして草はお喋りをしないのだろう?

 

お喋りをしているふうにも見えるが、その声は聞こえてこない。

 

草が話しかける声を持っていたら、いまよりはずいぶんたくさん野原は楽しくなのかもしれない。

 

などと思う。

 

そうなったら、しかし、一度にどっと野原は東京のど真ん中の喧噪地帯になってしまうかもしれない。だと、嫌だな。

 

やっぱりひっそりとして静かな方がいいな。

 

人間は声を持っている。口からそれを銃にする。

 

声にちゃんと意味を持たせてもいる。

 

野原の草にはそれがない。じゃ、草は、意味を感じていないのかしらん?

 

そうでもないように見える。そこで落ち着き払っているからだ。

 

とすると、落ち着きを得る道具は声だけではないのかもしれないな。

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一閃、俄雨

2022年08月08日 11時38分53秒 | Weblog

わわわわっというふうに驟雨。大粒の雨。わたしの眠たげな目を覚ます。

 

そしてしばらく降って、横殴りに、叩きつけて、もういいという具合に、俄雨は通り過ぎた。

 

いまは斜めに降る小粒の雨粒になっている。細い蜘蛛の糸のような小粒の。

 

最初の一撃で物干し台に干されてあった雑巾10枚が、濡れてしまった。

 

雫がととととと落ちている。

 

日が射してきた。庭の芙蓉の葉っぱが、一枚一枚で、雨粒の雨垂れを光らせる。

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欲張ってもいいし、欲張らなくともいい。

2022年08月08日 11時23分28秒 | Weblog

一生涯で楽しんでいいものが、10000x10000x10000x10000ほどもある。

 

さあ、でも、そのうちのどれくらいを楽しめるのだろう?

 

しかも、そのどれも10000x10000くらい深く深めることもできる。

 

量と質が兼備されている。

 

欲張ってもいいし、欲張らずにいてもいい。

 

たらふく摂取してもいいが、ずっと控え目にしていてもいい。

 

それは各人自由だ。

 

大概の人は、だから、まあほどほど、というところで満足を覚えることができる。

 

満足を、たとえ、覚えていなくとも、それでもそれでいい。暮らして行けることになっている。

 

楽しいんでいいもの、楽しんでいいこと。それがまわりに犇めいている。野原を埋め尽くしている。そこにひともと野菊も咲いている。

 

そこにわたしとあなたが暮らしている。ほどほどに仲良くして暮らしている。

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今朝の我が家の朝どり野菜たち。

2022年08月08日 11時17分59秒 | Weblog

今朝の我が家の畑の、朝どり野菜たち。

 

ほかに、巨大な冬瓜もあった。

毎朝毎朝、次から次に。

 

食べきれないので、悩む。

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いのちの旅は続いている。いのちの旅の旅人は前へ前へと前進している。

2022年08月08日 10時28分27秒 | Weblog

5時起床。野良仕事着に着替えて、5時半過ぎに外に出た。一輪車に必要な農作業用道具を載せて、お墓に向かった。家内と一緒に我が家のご先祖様のお墓の周囲を掃除した。草取りをしてきれいになった。掃除が済んで、墓前に蝋燭を灯し線香を焚いて、読経をした。

いのちの旅は続いている。切断されてはいない。だから我が弟君、母、父、ご先祖の皆皆さまが、ここにいてずっと立ち止まっておられるはずはない。前進前進をしておられるので、お墓は形骸化しているところで、後に残った遺族がご先祖様を偲んで思い出すだけの場所に過ぎない。わたしはそう思っている。

いのちの旅の主体者は、仏教では、即刻人間界を離れ、往生浄土成仏を果たしている、と教えている。それが揺らぐことはないはずである。

いのちの旅の主体者は、約束された成長と発展を、約束通り、遂げていくのだ。後ろなんか振り向いてはいない。前へ、前へ、前へと進んで行く。われわれは永遠のいのちの旅をしている永遠の旅人なのだ。

 

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