<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

そんな悲しそうな、つまらなさそうな目をしていないで

2019年01月12日 10時17分47秒 | Weblog

「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」 芭蕉はこう詠んだ。よくよく見ればいいのである。薺だってホトケノザだって咲いているのである。彼らは花を咲かせて言(こと)祝(ほ)いでいる。えっさえっさのお祭りをして興じている。近づいてよく見ていると、「生きていられるだけでお祝いもんだぜ。贅沢なもんだぜ、光が届いてくらあ。そんな悲しそうな、つまらなさそうな目をしていないで、え、あんたも舞って歌って、お祝いしたらどうだ」と誘って来る。

 

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暇を不平不満の材料にしない工夫

2019年01月12日 10時15分20秒 | Weblog

この数日はクレヨン水彩画の遊びに興じているから、わざわざ外に出向かなくともすんでいる。それで一日を嬉しくしていられるのだから、安上がりである。薺(なずな)やホトケノザを描きたいから、畑へ出て薺やホトケノザを摘んで来る必要があるくらいだ。正月の年賀状はもう書けないから、このところすっかり便りが途絶えてしまった人たちに、寒中見舞いを書いている。暇を不平の材料にしない工夫だ、これも。

 

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寒くないと 野菜は甘くなれない

2019年01月12日 10時02分57秒 | Weblog

冬真っ只中なのにそれほどの寒さを感じないでいられる。暖冬のようである。大根を小さく切って、竹製の横広の笊に列べて、ベランダに干しているが、黴を生やしているかもしれない。カンコロは暖冬ではおいしくなれない。寒い冬は寒くなければならない。寒くないと、甘くなれない。これは白菜だってキャベツだって同じである。寒い冬の後でないと、万物は春の来訪が嬉しくなれない。

 

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今日から三連休 何をして遊ぼう

2019年01月12日 09時50分36秒 | Weblog

雨はすっかり止んだようだ。日射しが一気呵成に延びてきた。眺めている庭が明るい。南天の葉っぱに雫が垂れて、反射して、きらきら光る。球体の全方向が反射光を放って、存在を拡大している。今日は土曜日。三連休になる。何をして遊ぼう。毎日が遊びなんだから、ことさらにプラスすることもあるまい。

侘しいけれど、遊びに行くだけの財力もない。

 

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広がりの海を縦にして深めて行く落日

2019年01月12日 09時40分46秒 | Weblog

一月の十一日の西の空大きく焼けて海の深まる       薬王華蔵

今年は新年早々、何度か海を見に行った。山里に住んでいると海が恋しくなってしまう。海を見に来ただけではなくて、そこで牡蠣焼きも食べたのだが。遊んでいるといつのまにか、夕刻になっている。西の空が大きく焼け出した。光の帯が海を延びて、狐のような尻尾を見せて、退いて行く。次第に明るさが消えて行く。するとそこに、空をも包含した海が、海を縦に深めて行くのである。広がりから深みへ、横から縦の運動へ変わる。そうやって海への我が恋を、底なしに深めて行く。

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草の花でさえも利他行を実践しているのである

2019年01月12日 09時24分22秒 | Weblog

一隅にクレマチスあり冬の日をあたたむ花のランプの赤さ      薬王華蔵

冬の日は重たい。どんよりしている。その庭の一隅に、どうしたことか、咲く時を間違えたクレマチスが赤く咲いている。一灯だけ、赤いランプを灯している。折角の、花の利他行実践である。ランプの傍に来て、わたしは手の平を差し出してあたたまった。草の花でさえも利他行を実践しているのである。

そういう受け取りをしてみた。そういうふうに受け取って見ると、いとしさのようなものが込み上げてくるのである。花へのいとしさに加えて、そういう世界に生きている己にも、いとしさよのような仄かな感情を覚えて来るのである。

では、わたしは、人をあたためているか。あたためていないように思われる。

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すべてが快感を伴っています そこがこの世です よね ラスト

2019年01月12日 08時40分22秒 | Weblog

僕は物事を楽観視し過ぎます。悲観の重さ暗さ冷たさに耐えられないようです。ひ弱なのかもしれません。鍛錬ができていないせいかもしれません。なんでもこういうふうに、よかれとう方向で物事を考えようとします。ここは仏の世界だという認識がそれを容易くさせているのかもしれません。仏に守られている、仏に導かれている、仏に包含されているのであれば、そこは安心の世界。無闇に不安を増長しないですむはずです。

味わって味わって味わう。おいしくなるまで辛抱強く味わう。滋養酵素ジアスターゼのご登場まで待つ、気長にして待つ。おいしさを感じる。そういう姿勢を保って行けたら幸せだろうなと思います。

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すべてが快感を伴っています そこがこの世です よね その4

2019年01月12日 08時27分47秒 | Weblog

死すらも快感の領域かもしれません。それを誤解して恐怖の世界に塗り替えているのかもしれません。死ぬ時には快感ホルモンが数種類も脳内分泌してくれます。死者はそれによって頬を緩めます。桜の色に顔を染めます。そのスケジュールに沿って行けば、快感鉄道が快感電車を走らせて行くのです。よね。死んで行く人を不快にするような嫌がらせが、死の世界を蹂躙しているはずはありません。ここは快感宇宙、仏の世界です。快感が味わえるように、そのように設計され、そのように建築されたところです。始めから終わりまでそれで暮らして行けるようにと、念じられているところです。

 

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すべてが快感を伴っています そこがこの世です よね その3

2019年01月12日 08時24分23秒 | Weblog

快感というのは、長々と味わうべきもの。長々と味わうようにすれば、快感が滲みだして来て、そこに融(と)けて蕩(とろ)けてしまうように造り出されているはずです。快感が得られるまで長々と延長するようにすれば、人生百歳になっているのかもしれませんね。すべては快感を伴っています。其処がこの世ですよね。林の風の音だって、浜辺の潮騒の響きだって、ここちよい音楽に聞こえます。聞こうとする耳にはそう聞こえて来ます。ゆっくり味わう余裕さえあれば。

 

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すべてが快感を伴っています そこがこの世です よね その2

2019年01月12日 08時18分20秒 | Weblog

俳句や短歌や詩やエッセーと言った文学作品というのも、たぶん同様でしょう。わたしたちが生きるこのエターナルライフの現実生活というのも同様でしょう、たぶんたぶん。味わい、つまり滋養が、つまりおいしさが、滲みだしてくるまで舌上に載せていれば、おいしくする消化酵素が加勢に回って来てくれるはずです。この世のすべてはグッドテイストなのです、この世の風景だって、あの世の風景だって。その気があればすべてが良味なのです。恋だってそうではありませんか。農作業だってそうではありませんか。おいしくする、楽しくする、よろこびに替える、ここはそういう変電所です。

 

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