<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

得ようとすればどちら側からも得られるようにできているのかもしれない

2017年07月06日 21時09分16秒 | Weblog

損をしたと思うが、得をしている。得をしたことにもなる。バイスバーサ。得をしたそれと同じくらい損になっている。水のようなものだ、。すぐに平面体になる。埋め合わせ合いになっているのである。こちらで損をしたらあちらで得をしているということも起きる。損と得というように際立っているように見えるが、そもそもが一面体で、裏表両面を併せ持っているのである。片方のデコはもう片方のボコになっているように。

病も損ばかりではない。得もあるのである。老いも死も損失が強調される嫌いがあるが、それは片目である。お金持ちは得ばかりかというと必ずしもそうではない。反対側が凹んでいるのである。不幸も両面を持つ。損と得を持つ。だからがっかりしていなくともいいのである。いつかその分はお返しが来ることになっている。深く沈んだ人は、その勢いを借りて、高く浮き上がれるのだから。

そこから得られるものを得たら、それが得になっている。そこから得られるものを得損なっていれば損失。そういうものなのかもしれない。得ようとすればどちら側からも得られるようにできているのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まるで妊娠した人のようだ

2017年07月06日 20時45分21秒 | Weblog

このこ゜ろ甘いものを受け付けない。夕食はハッシュドビーフだった。一口でスプーンを置いた。甘かったのである。困ったものだ。お菓子も食べなくなった。でも西瓜は遠慮しない。桃も喰う。カシウリも拒まない。嗜好が変わったのかなあ。妊娠した人のようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別の宗教団体加入はしていない ふらりふらりだ

2017年07月06日 20時23分12秒 | Weblog

かといってわたしは特別の宗教団体に加盟しているのではない。不動の法華経信者でもない。読み方受け取り方、感激の仕方どれもまったくの我流で、ジグザグで独り合点なのである。団体加入をしていないが、かといって一匹狼でもない。一匹までは正しいが、狼ではない。ウサギかネズミかイタチかモグラの類である。一人は小さな器なのですぐに満ちるのだ。それに、同じくらい他の仏陀経典にもぞっこんなのである。仏陀が登場してくれば、それで全面降伏なのである。全信頼のイエスマンである。それ程にだらしがない。知識も浅い。狭い。井の中の蛙大海を知らずである。狭いところに温泉が湧いていてここにゆっくり浸かっているという感じである。仏教に詳しい学者先生方の目では、「言うこと為すことナッチョラン」の部類だろう、きっときっと。甘ちゃんなのである、徹底して。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法華経はわたしの電源スイッチ

2017年07月06日 20時00分31秒 | Weblog

前回のブログで法華経如来寿量品偈の数句を取り上げたが、実は法華経の文言そのものが、わたしには電気を帯びているのである。それでその文言がコンセントになってわたしというピノキオを動かすのである。ピノキオの頬が緩み口元に笑みが浮かび、目が輝き出すのである。ここまでは至極単純なのである。我流解釈だから、正当性は極めて低いにもかかわらず、それで十分なのである。十分ピノキオを元気にするのである。不思議だ。法華経の文言の数句でコロリと転ぶのである。安心の腹を見せてニャーと鳴くのである。だらしがないにもほどがあるのかもしれない。ただ、感情で読んでいるからこうなるのである。全面的な信頼感がそれをそうさせるのである。

我常住於此 がおじゅうおし 我は常に此処に住せり

「わたし(仏陀)はいつも此処にいますよ」の法華経の一句が「わたしはいつもあなたの傍にいますよ」「あなたの傍を離れたりはしませんよ」に聞こえてしまうのである。わたし個人宛の力強い宣言に聞こえてきてしまうのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死は法を説き、示す方便にすぎない、という説

2017年07月06日 18時31分59秒 | Weblog

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法 我常住於此     「妙法蓮華経如来寿量品偈」より

いどしゅじょうこ ほうべんげんねはん にじつふめつど じょうじゅうしせっぽう がじょうじゅうおし

衆生を度せんがための故に、方便もて涅槃を現ずれども、しかも実には滅度せず 常に此処に住(とど)まって法を説くなり 我は常に此処に住(とど)まれり

無数億の衆生を仏にせんがために、わたしは方便を用いて涅槃を現じてみせたが、しかしその実はわたしは滅度(=入滅)をしてはいない。滅してはいない。常に此処霊鷲山(りょうじゅせん)にいて法を説いているのである。わたしはいつも此処にいる。お釈迦様はそのように仰せになった。

(涅槃とは仏陀がお亡くなりになること。梵語ではニルバーナ。炎が吹き消された「消滅」の意。それから煩悩を断じて寂静の境地に進んだ状態を表した。仏教の理想の目的地で、般涅槃、滅度、寂滅、入滅とも云う。仏陀の死、聖者の死を指す言葉。霊鷲山の山頂で法華経が説かれた)

永遠の仏陀の宣言である。涅槃(死)は方便(法を説く適した手段)であったと告白されている。わたしはいつも衆生の為に法を説いている、と。

(ここからさきは老爺の独り言。つぶやき)

仏陀のみではない。死は方便に過ぎない。死で以て終わりとはならない。わたしたちは此処にとどまって法を説いている身である。涅槃界に移り住んでいるように見えてその実は此処で法を説いているのである。仏陀に倣って、生きとし生ける人たちに法を説いているのである。・・・僕は読経をしながらそんなことを考えていた。「死が無駄にはならない」「死は一過性のものなのではない」という説諭暗示を今日は嬉しく聞いてみた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病むこともそうではないか 己を超えて行く道なのではないか

2017年07月06日 17時46分53秒 | Weblog

1)

「道心」とは己を仏にするこころである。己の悪、悪の己を修正する覚悟のことである。修錬することである。修錬するには逆風が適しているはずである。

2)

しかし、逆風と言えるかどうか。悪の己に最も適した風が吹いているだけかもしれない。

3)

生老病死は順風か逆風か。生老病死の苦しみは寧ろ己の悪に沿ったものなのかもしれない。順風の楽ではここは乗り越えられそうにはない。逆境苦で以てしかここを乗り越えられないのではないか。それだけの必死さが不可欠なのかも知れない。逆境苦は人を真摯にし誠実にするからだ。

4)

病むこともそうなのではないか。己の悪を超えていく道なのではないか。

5)

それのみが己の悪に向かい合う手段なのではないか。それすらも逃げて遠離りたいが、逃げてばかりでは完遂できないのではないか。道心が生まれてこないのではないか。などとも思う。

6)

人の一生で人は己を一段階高くするように仕向けられている。とすればそれだけの覚悟が必要になってくるのかもしれない。苦境に向かい合うことが不可欠なのかもしれない。

7)

己の意思で以てそれを選択できない者は、それを強制せしめられるのかもしれない。不承不承悪事を己に迎えることになるのだが、結果的に見るとそれで無駄な一生を送らずに済んでいるのかも知れない。道心が生まれて修行の実践がなされたことになるのかもしれない。

8)

楽な生き方ばかりを狙って暮らしている己には、しかし、それが結果的に己のレベルアップになるとしても、そうだとしても、苦境逆風悪事を己に向けることはできない。

9)

都合のいいことばかりで、その楽の連鎖で、急流を越していきたいと念じて、己は暮らしているのである。恥ずかしい話だが、これでやってきた。

10)

そういう己には道心が沖を走る船の影にしか過ぎないのは至極当然なことなのである。

あれこれ無責任男はいろんなことを考える。仏典を読経しながらいろんなことを考えた。どの道もどの道も、仏陀が、仏の法が、そこを歩くわたしをそれで以て懸命に仏にしようとしているのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「道心ある者は悪事を己に迎える」とあった

2017年07月06日 17時31分41秒 | Weblog

終日家の中に閉じ籠もっていた。お陰で仏檀での読経が出来た。長々と読経の時間を持った。法華経経典を高い声で朗読した。天台宗檀徒勤行経典も読み終わった。朗読しながらいろいろなことを考えた。

道心ある者は、悪事を己に迎えることができる。道心ある者は好事(こうじ)を他者に与えることが出来る。道心ある者は己を忘れることができる。道心ある者は他者を利益することができる。道心ある者は慈悲の心を持ち実践できる。此の人を菩薩と云う。経典にそういうことが述べてあった。

己にはその一箇条もできないと思った。悪事を己に迎えることはできない。好事を他者に振り向けることもしていない。関心事は己のことばかりだ。己が如何に楽々と生きられるかということばかりだ。

(道心とは仏道を歩くことを心掛けている人の心のことである)

己には出来ない。真反対だ。悪事を己に迎えることは出来ない。

しかし、己が出来ないところを代わって菩薩が黙々と行じているはずである。

凸凹の道では歩けない。それで万人が歩けるよう菩薩によって地均しが為されているのではないか。

それを思うととても大きな顔は出来ない。出来ないのに己は傲岸不遜を貫いている。恥じるばかりだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当地の大雨洪水警報は解除になった

2017年07月06日 17時11分18秒 | Weblog

九州北部一帯に出されていた大雨洪水注意報は解除になったが、夕方かけてまた小さい雨が降り出している。家の中に一日閉じ籠もっていた。何処にも行きようがない。夜中には長時間に亘り豪雨の暴れるままだった。その上雷鳴稲光が烈しかった。それも通り過ぎて静かになっている。庭、小径、畑はどうなっただろう。確かめていない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨前線が遠離ったようだ

2017年07月06日 11時02分57秒 | Weblog

大雨洪水は通りすぎたようだ。静かだ。雷鳴も閃光もない。でもまだ空は依然としてどんよりして灰色だが。福岡県の朝倉一帯は記録的な雨量だったようだ。テレビが被害状況を伝えている。農産物の豊かな地帯だ。早く平穏に戻るように祈る。朝倉まではそう遠くない。ここには大河の筑後川も流れている。これだけ集中して降れば、さぞかし氾濫をしていることだろう。梅雨前線が遠離っていきますように。そして元の暮らしが戻って来ますように。ニイニイゼミが鳴き出した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神鳴様大暴れ、ナイアガラの滝のような雨

2017年07月06日 01時20分06秒 | Weblog

ゴロゴロゴロゴロぴかぴかぴかぴか。ゴロゴロは神鳴様。天上トロッコ列車が走る。ぴかぴかは稲光。一瞬、昼より明るい。で、落雷。停電。いよいよ神鳴様の一人舞台。ゴロゴロゴロゴロぴかぴかぴかぴか。ドッスーン。雷神様が尻餅をついた大きな音。闇。闇の中を厭わず降るのは雨。どさ雨。どさ回りのような重たい雨。真夜中1時20分、九州地方は梅雨の真っ盛りとなった。停電すれば、家の中に灯りはない。懐中電灯を探して廊下に出る。稲光。ぴかぴかの助けを借りて懐中電灯に辿り着く。トイレのウォッシュレットが作用しない。自動では蓋が開かない。手動に切り替えるしかない。土砂降りの雨。ぴかぴかぴかぴか✨、またもや稲光。ガロガロガロガロ、ガガガガがーん( ̄□ ̄;)!!、地雷が炸裂した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする