<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

シャワーを浴びてすっきりして布団に転がる

2017年07月04日 22時11分03秒 | Weblog

風呂場に電気を点けてシャワーを浴びた。石鹸でごしごし擦って一日の汗を流した。井戸水は冷たくて、いい気持ち。ジャブジャブジャブジャブ洗面器で冷水を被る。

風呂場の窓ガラスには家守さんが二匹現れた。同じくらいの大きさ。縄張り争いをしいしい、あっちへこっちへ飛んでくる虫のところに走って行っては、捕まえて食べてござる。10時を過ぎている。遅い夕食である。

シャワーを浴びてすっきりして布団に転がる。一日が終了する。あとは睡魔にご登場を願うばかりである。

台風3号は、当地を逸れて行った。そよとも吹かなかった。雨被害もなかった。昼からはまた猛暑が戻ってきた。昼夜をおかず我慢比べを強いられることになりそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我は生まれて死する者なり

2017年07月04日 21時23分02秒 | Weblog

愛(は)しきやし手に取るものの愛着の われは生まれて死する者なり      薬王 萌

「はしきやし」は古語。「愛しきやし」と書く。「いとおしい」「愛すべし」の意味を含めている。間投詞的にも用いる。

我が手に取るものはみな愛(いと)おしい。愛着になる。なぜそうなのか。人は生まれて死する者だからである。

手にとって愛着を込めたところで、しかし、どうにかなるものではない。手の平の指の間を滑り落ちていく砂と同じである。頼りにはならない。

生まれて死んで行く間、ただこの愛着に翻弄されるだけである。しかし、その愛着の、手に取るものの、なんと愛おしいことか。死する者でなかったらこうはならなかったであろうに。

生まれたら死ぬ、必ず死ぬ。この厳然たる事実の前には人は、無用の愛着を撫でて摩(さす)って愛おしんでいるしかないのかもしれない。

以前に作っておいた短歌を幾つかこのブログに取り上げてみた。どれも理屈っぽくてぎこちない。読み返してみると、どれもノコギリの歯のようにぎざぎざしているものばかりのようだ。ポイ捨てをされて下さい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふくらめる砂丘は熱い乳房

2017年07月04日 20時56分22秒 | Weblog

ふくらめる砂丘は乳房 夜の海の波の響きのおどろおどろよ      薬王華蔵

砂丘は小さな砂の集まりである。それが風紋をつけていつのまにか丘のふくらみを為している。夏。熱い千の乳房万の乳房が横たわる。風が、夜陰に紛れて、水夫(かこ)たちに交じる。そして口を付けて吸いに来る。海の波頭どもも黙ってはいられない。背伸びして這い上がってきそうになる。這い上がって来られずにおどろおどろの慕情を響かせてくる。いっときあたりは深閑となる。砂丘は白い乳房の魅惑を持つ。すると周囲はいつも興奮を高くして風を唸らせる。波を響かせる。水夫たちを走らせる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意味があるとかないとかに雲は頓着していない

2017年07月04日 20時42分34秒 | Weblog

意味無意味無頓着している雲と山晴れ渡る これで宜しい     薬王華蔵

わざわざ意味を持たせなくともいいのではないか。付け足しをしてやることはないのではないか。そこにそれがある。それで完結しているのではないか。意味があるとかないとかにわれわれは拘っているけれども、雲も山もそんなことには無頓着している。頓着をしないですっきり晴れ渡っている。「これで宜しい」とまるで雷神のような大上段の物言いが口を飛び出してしまった。この男がその台詞を吐かなくとも、初めから終わりまで文句なしなのだ。世界はそれで完結完了しているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死者の孕(はら)むは生者

2017年07月04日 20時12分26秒 | Weblog

終わる日の海の東に昇り来るくれなひ 死者の孕むは生者     薬王華蔵

死者は生者を孕んでいる。生者は死者を孕んでいる。というよりは、死者と生者は同一体であるので、互いにその一部を抱一しているように見えるのだ。一日が終わる。生涯が終わる。すると日が海に沈む。その東側に日が昇って来る。それを見たら合点が行くだろう。真っ赤な命の火だ、どちらも。海がくれないに映えている。ただ循環を繰り返していくのだ。死と生とは己を踏んで沈ませて、そしてその向こう側に相手を浮かばせているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全身にやわらかな曲線を持つ人の春

2017年07月04日 19時21分44秒 | Weblog

 やわらかな曲線持てる人の行く春の小径は空へ続きぬ      薬王 華蔵

おんなの人はやわらかな曲線を持っている。膨らみは手にも腕にも足にも腰にも、胸にも首にも、どこにもあって、見事なカーブを描いている。その春の曲線が小径を歩いて行く。と、小径までがなだらかな蛇行曲線になる。そして地平線まで続いて、果てる。四角く角張った男(お)の子どもがこの春の風景を眺めている、だらしなく指をくわえて。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとを偲べるときのそのいろ

2017年07月04日 13時58分32秒 | Weblog

紅梅の春の水面(みなも)に染まるいろ ひとを偲べるときのそのいろ      薬王 萌

春。紅梅が濠の水面に仄かに赤く染まっている。色が波に洗われてちろちろと流れる。それを見ているとあの人のことが偲ばれて来る。あの人のことを忍んでいるときにもわたしのこころの濠水には水波が立つ。そしてそれが赤く仄かに染まる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自覚していれば自覚者は上善の暮らしが出来る

2017年07月04日 13時36分44秒 | Weblog

我を誘う沈丁花の香 誘わるる我はつくづく上善の者       薬王華蔵

沈丁花が香っている。花が香をもって誘う者は上善の者に限られている。香に誘われる者も上善の者である。ましてそれに応じて近づいてそれを感歎する者においてをや。香を嗅いで安らげる者においてをや。その上善の者とはこのわたしであった。という驚きが歌を作らせた。わたしは香に選ばれた者であった。まことにこの感覚はつきづきしい。相当な余裕レベルに達した者でなければ、季節の放つ香に応じないし、まして安らげる段階には届かない。大概は花の提示する饗応に気づきもせずに歩き去ってしまう。

ただし、この世に中善の者、下善の者はいない。生まれて来た者は全て上善の部類だけである。それを自覚していれば、その自覚者は上善の暮らしができる、というだけである。差別はない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二人の逢い引きの現場は隠れて見えない

2017年07月04日 13時06分14秒 | Weblog

毘盧遮那とけふはふたりぞ春山に あとは霞の隠しおわんぬ     薬王華蔵

毘盧遮那仏と二人でいる。ここは春の山。二人は肝胆相照らし合っている。霞が全山を蔽っているので、この二人の逢い引きの現場は隠れて見えない。密会しているのは今日ばかりではない。年がら年中なのだが、今日はお天気がいいのでなおさらに互を求め合うのである。一緒にいないと互いに生きてはいけない間柄なのである。

そういう仏をわたしは己の世界に収蔵している。これで落ち着ける。

毘盧遮那仏は華厳経に説かれる宇宙仏。宇宙界万物を照らす仏。盧舎那仏、あるいは遍照遮那仏とも呼ばれる。法身仏である。密教では大日如来に等しい。奈良東大寺の大仏様はこの仏である。伸縮は自在だから、最大にも最小にもなってくださる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

背中に天使の翼が生えて来たらいいだろうなあ

2017年07月04日 11時22分33秒 | Weblog

七つ目の信号青に変わったら翼生まれむ 夏空へ行け      薬王華蔵

背中に翼が生えて来たら? いいだろう。いいだろうなあ。堂々の天使じゃないか。そうすれば? 天地を一跨ぎに駈けて回れるではないか。よし、決まった。そうしよう。背中に天使の翼を着けよう。白い大きな翼にしよう。神さまの許しを受けたのか。なにかまうものか。転向はむしろ善事である。進め進め。青信号を渡る。赤信号で止まる。これを繰り返して7つ目のところで、奇跡を起こすとしよう。そこからはわたしは天使だ。ひとっ飛びして夏空へ去って、そのまま姿をくらますであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする