生死の中に仏あれば生死なし
.....曹洞宗経典「修証義」より抜粋
☆
生といい死というけれども、これはただただ仏さまのお命の展開であるから、わたしが生きたり死んだりしていることではないのである。この過程を経て仏さまのお命に与り近付き親しみ修証していくのである。
☆
こんな受け取りをしてみた。わたしは修行もしていないし、悟りに近付くこともしていないので、けっして的を射ていない。自己流解釈をして、ただわたしの安心を拾いたいのである。
生死の中に仏あれば生死なし
.....曹洞宗経典「修証義」より抜粋
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生といい死というけれども、これはただただ仏さまのお命の展開であるから、わたしが生きたり死んだりしていることではないのである。この過程を経て仏さまのお命に与り近付き親しみ修証していくのである。
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こんな受け取りをしてみた。わたしは修行もしていないし、悟りに近付くこともしていないので、けっして的を射ていない。自己流解釈をして、ただわたしの安心を拾いたいのである。
観世音 南無仏 常楽我浄
かんぜおん なむぶつ じょうらくがじょう
観世音南無仏は常にして楽にして我にして浄なり
「十句観音経」よりこの3句のみを抽出してみた。
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さてまたまた自己流解釈。間違い解釈。でも、これで安心をする。一人だけの安心。小さい安心。
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南無観世音菩薩の念仏は南無仏である。南無仏法である。仏の教え、仏の悟り、仏の国土、真実真如世界へ南無することである。
なぜそうするのか。
南無仏して見えて来る世界は永遠にして不変であるから常であり、煩悩束縛の苦しみがないから楽であり、他に影響を受けても惑うことなく主体者たりうるから我であり、濁ることなく染まることなく清らかであるから浄である。
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常楽我浄の世界がわたしにも付与せられている。観世音南無仏を経過して付与せられている。嬉しい。
しかし、その実践となると、とたんにあやふやになるけれども、南無仏するだけですべては満たされているのかもしれない。
ふむふむふむふむ。さもあらん。さもあらん。
もっと....もっと、こう....楽しいこと書いてくんないかな。ってんでしょ?
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図星。
ふう。古臭くて、線香臭くて、黴臭くって。
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古くて古いものが新しいもの。違うかなあ。新しがり屋を気取っているつもりでも、いちんち経ったら、腐りかけるもの。歳月に晒されても不変。不変はおろか、ますます輝き出すもの。その価値を見出すときが来る。
腐らないものが、結局は新しいもの!
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その主義と主張を信奉してる限り、あんたとは付き合ってあげない。
......二人は決裂してしまった。
与仏有因 与仏有縁
よぶつういん よぶつうえん
仏と因有り、仏と縁有り
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これは十句観音経の中の2句。どう教えているのだろうか。僧侶でも学者ではないから、分かりかねるが、妙に興味を引く。自己流に考えてみる。
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「わたしは」もしくは「わたしたちは」の主語を立ててみる。
わたしたちは仏さまとの因果があって生まれて来たのでございます。わたしたちは仏さまと縁を結んで暮らしているのでございます。仏さまとともに生き死にをするべき身。心配は無用なのでございます。仏さまと同質でございますから、仏さまに見守られ導かれて、やがては仏となる身の上。有り難いことでございます。それを教えていただいて安らかに暮らしていけるわたしたちでございました。
そんなふうに引き延ばしてみた。
この十句観音経はこんなふうに締め括られている。
念念従心起 念念不離心 ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん
わたしたちの一念一念は仏さまの心より起っております。わたしたちの一念一念は仏さまの心を離れることはないのです。仏さまに南無して帰依して安らぎの生涯が約束されておりました。
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こんなふうに自己流解釈をしてわたしの安心を拾ってみました。わたしが仏さまと違った材質だったら? わたしは仏さまと親密にはなれないことでしょう、永遠に。
与仏有因 与仏有縁
嬉しいことにご縁続きでありました。仏さまと等しい因果を共有しておりました。
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読者の皆さんはご自分で考えて見て下さいね。仏教の教えは「一人一宇宙」なのですから。
朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心 「十句観音経」より
朝(あした)に観世音を念じ、暮れに観世音を念ずれば、念念は(仏)心より起こり、念念は(仏)心を離れず。
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こうなれば怯むことはあるまい。恐れもあるまい。安心安泰だろう。仏の心は安心安泰の心だろうから。仏の心と一枚岩になるまで、朝も夕も観世音菩薩を念じて行く。ひたすら一直線に進んで行く。この日常でいいというのだろう。
ところが、色気を出す。余所を向いてしまう。有らぬ方有らぬ方を見てしまう。念念が濁る。そうでないところにも価値があるように見えて来る。よろめく。足が乱れる。乱れないで済むまで念じて行けばいいという教えである。
生涯掛けて仏になる。それ以外を認めない。狭いと言われようと固いといわれようと、甘いといわれようと愚かといわれようと、耳を貸さない。それはもう行そのものであろう。修行そのものであろう。
朝に観世音を念じる。暮れにも観世音を念じる。その念念はしかし、仏心そのものに違いない
コンサートを聴いて魂が腹を満たしたようだ。口ならぬ耳に零れた涎を拭っている。しめしめ。しばらくはこれでよし。しばらくはにこにこ顔をして元気にしていられるだろう。
急いで帰宅した。大相撲夏場所が始まったからだ。4時から6時まではテレビに釘付けになる。かくて15日間は退屈しないですむだろう。ただし、贔屓筋が負けがこむと話は別。もう見たくなくなってしまう。どうか、千秋楽まで勝ち進めてほしいものだ。
おはようございます。朝が来ています。夜中雨の音が聞こえていました。梅雨前線はまだ居座り続けているようです。しつこい。
テレビ、ラジオの伝えるところでは、とりわけ福岡県朝倉市、東峰村、日田市の被害が甚大のようです。この辺りは森林資源の豊かなところ、木材業の盛んなところ。でありながら、山崩れ崖崩れが起きています。豪雨の凄まじさが推し量られます。流木で家々が押し潰されています。避難生活も長引いて、お辛いことでしょう。お見舞いを申し上げます。
今日はお昼過ぎからピアノコンサートを聴きに行くことにしています。ピアニストの方が毎年招待券を送って下さいます。感動の波を打ち寄せて来る演奏を聞きながら、わたしは楽しい嬉しい夢の世界に浸ります。会場でCDを買って来ようと思います。もう何枚もたまっています。ドライブしながらよく聞いています。何度聞いてもわたしの耳はうっとりしています。
ふふふ。この玄武岩のようにゴツゴツとした老爺が美しい音楽に酔い痴れているなんて、周りは想像もつかないでしょうね。まったく不似合いだからです。枯れ木のような無粋な男が、貝の殻のような空白の男が、こんな楽しみごとで生気を取り戻せるのですから、ここはやっぱり不思議に満ちた世界です。
水芋の茎を切ってきて筋剥きをした。家内は手に触れただけで痒いといって触ろうともしない。鍋に入れる状態までこちらでやった。塩鯖といっしょに煮付けてもらった。夕食にそれを食べた。煮過ぎてあって、サクサク感がなくなっていた。でもちょうどいい塩加減だった。素朴な味わいがあった。昼間訪ねてきた友人にもお分けした。畑にこの水芋が勢いよく成育している。里芋と区別を付けるのが難しい。父と母はこの水芋料理が好きだった。甘酢料理にしてあった。