<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

蟹はやっと安堵した

2017年07月01日 22時15分51秒 | Weblog

合わない。彼等の知識レベルには合わない。俺はまるで到達していない。のこのこ、行くんじゃなかった。穴を出て行くんじなかった。蟹は帰りがけに月を見た。三日月だった。霞んでいた。蟹はやっと安堵した。

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もうあんな知識圧の高いところには行かない

2017年07月01日 22時01分52秒 | Weblog

僕は人並みではない。つくづくそう感じた。人の知識量の100億分の1でしかない。ああ、ない袖を振るのに苦労した。話がまるで合わなかった。相槌だけを打って済ませたが、なあんにも分かってはいなかった。人の知識量の高さに圧倒された。わたしのいる場所がなかった。歌会が終わってほっとした。誤魔化しで終わった。己のみすぼらしさだけが堆くたまった。草がまるで生えていない、荒涼とした砂漠のわたしを嫌と言うほど痛感させられた。

帰ってきた。戻ってきた。ほっとすている。もうあんな知識圧の高いところには行かないことにする。

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僕は他者にサービスができない まるで

2017年07月01日 16時41分11秒 | Weblog

わたしはわたしの流儀しかできない。だから、サービス業には向かない。サービスが出来ない。他者を利益するというのが、大乗仏教の指し示すところであるが、わたしの日常はおよそその反対のようだ。そういう意図の元での実行実践からは程遠い。済まないことである。このブログもそうである。我が儘を書いているだけである。他者の世界には踏み行っていけない。

我が家は夏向きに建ててある。南北が窓である。風が抜ける。所謂風通しの良い造りになっている。九州は暑いからどうしてもこのスタイルになる。今日は風がある。風が渡る。ホトトギスがしきりに鳴いている。夏鳥たちの声も網戸を抜けて聞こえてくる。僕は板敷きに寝椅子を運んできて寛いでいる。ここには他者がいない。

もうすぐ玲瓏の短歌会に行くつもりだ。1年に一度こちらでも会が開かれる。今夜はその前夜祭である。声を掛けてもらったので出掛けていく。僕は入会はしていない。だから覗き見程度である。人見知りの僕は中央から来られる方たちに対しても。まるでサービスができないだろう。

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暑さと爽快感は葉っぱの裏表だ

2017年07月01日 14時51分39秒 | Weblog

暑い。ちょっと外に出た。外に出たら、たちまちあれこれ為すべきが目に入る。草を抜く。伸びた蔓を切る。支柱を立て直す。紐で結ぶ。真っ赤に熟れたトマトをもぐ。脇芽を摘む。冬瓜やカボチャの蔓の行き先を変更してやる。ベランダの朝顔群に水遣りをする。暑い。おかげで汗びっしょり。下着が濡れてしまった。水に濡らしたタオルで全身を拭き上げてさっぱりした。暑さと爽快感は葉っぱの裏表だった。それを体験させられる。

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わたしの内なる宇宙界ではすべてがこれによって動いている

2017年07月01日 13時57分46秒 | Weblog

ことばというのはおいしいものだ。わたしがトマトというとそこにトマトがあらわれる。わたしが葡萄というとそこに葡萄の房が垂れる。

ことばというのはやさしいものだ。わたしがあの人というとそこにあの人が立ち現れる。わたしが乳房というとそこに柔和な丘が盛り上がって来る。

ことばというのは凛々しいものだ。わたしが夏というとそこにはたしかな夏が訪れている。わたしが雲というとそこに白い入道雲が大空いっぱいに広がっている。

ことばというのは生き生きしたものだ。わたしが雲雀というとそこですばやく囀り始める。わたしが渓流というとそこに潺々とした水が流れ出す。

ことばをわたしは自由に出来る。だからわたしにはできないものがない。ことばが口にあればすべてが可能だ。わたしの内なる宇宙界ではすべてがこれによって動いている。

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あり得ないことが有り得ているという事実の自覚

2017年07月01日 13時30分12秒 | Weblog

有り難いというのは有ることが難いという自覚であろうか。あり得ないことが有り得ているという事実。それを我が事として認識する。

わたしの力が加わってそうなったのではない。わたしの力などは不用にして、そこでそれが実現をしているのである。

すべてを度外視して、わたしに働きかけてくる。わたしの方からの働きかけはまことに微力であるのに、わたしの方へわたしの方へと働きかけて来るものがある。

浜辺に寄せてくる波のようにそれが打ち続けて寄せてくる。寄せて返し寄せて返しして打ち寄せ続けて来る。わたしはただそれを呆然と眺めているだけで足りている。

これはわたしの力に拠ったものだなどと自慢げに言うこともあるが、これは他愛ない戯れ言に近く、まことに微細である。それだけを拡大して見せているに過ぎないか、周りを見ていないためである。周りが見えていないからである。

六月から七月になった。この変化にはどれだけのエネルギーが消費されたであろう。月を新しくひっくり返すにはどれだけのパワーを投入せねばならなかったか。それがいとも軽々と成されて、わたしに提示されたのである。それが有り難い。

吹いてくる夏風がある。それも有り難い。風がわたしを涼しくする。それも有り難い。わたしは寝椅子に寝てホトトギスを聞いている。そうしていられることが有り難い。わたしをそこへ配置してホトトギスを聞かせていることも有り難い。

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深くなった草むらにはすでに虫が鳴いている

2017年07月01日 12時16分30秒 | Weblog

深くなった草むらに虫が鳴いている。新しい季節。新しい季節の命が誕生して活動を始めている。書斎にまでそれが聞こえてくる。活動する命の声にじっと耳を澄ます。今日から七月だ。月が変わっただけで、服を新調した気分になる。エノコログサが草むらを抜きん出て高く大きく揺れているのが見える。夏風もあるようだ。

収穫係を自認している家内が、あちこちの畑を回り回って夏の野菜類をどっさり運んできた。それらを洗って土を落とす。4種類のズッキーニ、胡瓜、茄子、色々なインゲン豆、大小のトマト、などなど。台所が山盛りになっている。有り難い話だ。自家製の野菜が新鮮なうちにたらふく食べられる。

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桃は仙人の薬餌 仙境にいる心地になる

2017年07月01日 11時55分18秒 | Weblog

桃がおいしい。冷蔵庫で冷やした桃を食べる。薄皮を剥く。ナイフをいれて切る。とたちまち果汁が垂れる。フォークを刺して口に放り込む。口の中が桃の好奇だらけになる。香りが満ちる。幸福が満ちる。忽ち食べ尽くす。山梨の友人から桃の箱詰めが送られてきた。有り難い有り難い。桃は仙人の薬餌。仙境にいる心地になる。

朝方しばらく小雨が降っていたが、お昼になってそれも止んで、明るい青空が拡がっている。知らないうちに背中に汗を掻いていた。下着を着替えた。タオルを冷たい井戸水に濡らして、搾る。これで裸を拭き上げた。さっぱりした。我が家の井戸水は夏になると氷水のように冷たくなる。これが冬になるとその反対に温かくなる。不思議な水である。もちろん、飲んでおいしい。

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