<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

自己嫌悪が渦を巻く

2017年07月25日 21時49分25秒 | Weblog

人のいるところには行きたくない。行っているんだけど、行きたくはない。行っても一人がいい。交わらない方がいい。交わっているんだけど、後でひどく惨めになる。悔いが残る。自己嫌悪が渦を巻く。この渦巻きが止められない。自分のつまらなさが、浮き彫りにされる。もともとつまらないのだけど、一人でいるときは波が立たない入り江だ。出て行くと白波が立つ急流の瀬戸になる。小舟ごと一飲みに飲まれそうになる。人のいるところには行きたくない。寂しさが昂じてついつい禁を犯して行っているんだけど、穏やかに帰って来られたことがあまりない。さぶろうという老爺は心的障害者なのかもしれない。人の偉大さだけが目に付く。人が偉大であることはいいことのはずである。それが非難の高い峰を為していて連なっていることに耐えられなくなってしまう。ほんとうは沈黙を守っているにきまっているのだが、こちらの独り合点では、非難の目を吊り上げているように見えてしまうのである。もう少し楽な生き方があるはずである。深呼吸をしてみる。

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劣等感に苛まれる日々

2017年07月25日 14時22分54秒 | Weblog

その人に会っている内に、彼の日常の暮らしぶりを耳にして、「ああ、おれはそんな風には暮らしていない、もっと低俗だ、怠け者だ。学問も積んでいない。向上心もない」などというところへ追い込まれる。自縄自縛の圧が強まって来る。圧迫感に絡みつかれる。そこから次第に劣等感に苛まれる。それで泥沼に落ちて三日が経った。やはり苦しい。「いいさ、いいさ」とも思って見る。「こちらが劣等感を抱いた分は相手に優越感を提供したことになるじゃないか」などと、泥沼を掘り返してみる。人はいつも比べて生きている。そしてさぶろうの場合は決まって、その度に自己評価を低くさせられる。それが嫌だから、できるだけ人から遠離っていたくなる。浸透圧を受けないように、受けないようにと自己防衛している。そういうところがある。さぶろうにはある。困ったものだ。

いよいよ怠け者である。そういう暮らしに没頭している。浸透圧を受けないで済むくらい、誇り高い水圧にすればいいのに、その努力は一向にしない。

夕立が来た。そして通り過ぎた。夏の夕立は一過性である。その後の空はからりとして蝉を鳴かせている。アカママの大きな葉っぱがわずかに風に揺れているのが見える。からりとした空へ向かって、さぶろうは大きく溜息をついた。

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仄甘い連想だけが取り残された

2017年07月25日 14時11分15秒 | Weblog

秋深し母の垂乳根ひっそりと藪のふたつのこれは瓢箪             薬王華蔵

垂乳根と瓢箪とは似ているだろうか。母の垂乳根も、しかし、下の方に重くなっていた。それと秋になったときの瓢箪はもはや青々としてはいない。母のは柔らかく瓢箪は堅い。人間の肌つやのように変色している。藪に侵入して蔓を這わせたのだろう、同じくらいのが二つぶら下がっていた。それがたまたま母を連想させたのかも知れない。しばし連想の領域に入り込む。そして、現実に戻る。混同をしていたことに気づく。是は唯の瓢箪に過ぎなかったのだ、と。秋が深くなってもはや葉も枯れ茎も枯れ、ひっそりとしているばかりで、見るべきものはなくなっていた。仄甘い連想だけが、そこに小さく取り残された。

 

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山里周辺は人情が厚い

2017年07月25日 11時34分55秒 | Weblog

近くの方、といっても隣の集落の方だが、今朝早く農業用小型トラックで、西瓜を届けて下さった。でかいのを。熟れてないといけないからというので、半分に割ってあった。残り半分はきっとお隣さんに差し上げられたのだろうと思う。よく熟れていた。これだとおいしいだろう。お優しい心遣いだ。有り難い。やっとやっと一週間前に友人が持参してくれた西瓜をあらかた食べ終わったところ。大きい西瓜は食べ甲斐がある。三度三度の食事に、食べやすいように細かく切って硝子の器に盛って、フォークに刺して食べているのだけど。なかなか減らない。冷蔵庫もあれこれ野菜類が詰め込まれていていっぱいしている。腐ったら申し訳ない。何処で保存しておこうか。昔はバケツなどに容れて深い井戸の底に釣瓶で下ろして冷やしてあった。井戸水は冷たかった。冷蔵庫などがない時代だ。腐らせてはいけないので急いで、なるだけ急いで、食べていたように思う。分け合って分け合って暮らしていた。それがまだ維持されている。ここらの山里周辺はまだ篤い情けの里である。

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大輪の朝顔の大きな「おはよう」の掛け声

2017年07月25日 08時56分51秒 | Weblog

書斎の外に一列、濡れ縁がある。そこがベランダにもなっている。洗濯干し場にもなっている。自転車置き場にもなっている。濡れ縁には鉢植えが置いてある。朝顔を植えた鉢が3鉢列んでいる。今朝は、それが数多く咲いている。どれもが色が薄い。上品に見える。赤い系統、青い系統がある。一つは際だった濃紺である。みな大輪で、大きな声の「おはよう」の挨拶をしているように見える。今日は7月25日だ。夏休みのこどもたちが6時半のラジオ体操に出掛けて行く足音がしていた。おしゃべりの声もしていた。幾分か眠そうな声にも聞こえた。

 

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出口を探していたのだろう

2017年07月25日 08時46分04秒 | Weblog

真夜中ふと目が覚めた。音がした。天上から何かが落ちてきたような音が。それで灯りを付けて部屋を見回してみたが、それが何であるのかは分からなかった。また目が閉じた。それから一時ほど有ってまた音がした。枕元にそれを見つけた。動いている者を見つけた。コオロギだった。昼間この部屋に侵入してきたものなのであろう。ところがここには食べるべきものがない。飲むべきものがない。お爺さんがいるばかりで、他は乾燥したものだ。しまったと思ったことだろう。部屋を出て行こうにも閉め切ってある。それでよろよろよろけながら出口を探していたのだろう。その時に窓を開けて外へ出してやれば良かったのだが、蛇ではなく鼠でもなかったので、安心してまた目を閉じてしまった。早朝6時、起きたらまた音がした。弱々しい音だった。光の射す窓際まで歩いて来ていた。今度は団扇に掬って硝子を開けて外の草藪へ出して上げた。喉がカラカラになっていたことだろう。朝露が飲めただろうか。

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