<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

帰依しないでいられたことはなかったのである

2017年07月13日 21時37分01秒 | Weblog

ブッダンサラナンガッチャーミー。わたしは仏陀に帰依いたします。帰依するというのは、全部が全部預けます、ということ。そこに、わたしの測量がない。それでどうなるかという損得勘定がなくなっている。そういうことだ。どうなろうとそれでいいのである。信頼というのは凡そそういうことなのではないか。裏切られたなどと言う必要を拒否している姿勢だ。

生まれてきたのもわたしの力ではなかったのである。わたしの裁量を逸脱した出来事だったのである。死ぬのもそうだ。わたしがわたしの力で以て成就できることではない。すっかりお任せにしておいて、それですべからく調和して完了貫徹することだからだ。わたしの生死が、わたしを度外視して進んできたのである。わたしが、よしんば介入したところで、どうにかなるものでもなかったのである。

早朝7時。はやくも夏蝉が鳴いている。草むらには虫がすだく。わたしはそれに我が耳を傾ける。そしておだやかなこころを保つ。野菜瓜の小さな黄色い花が、ベランダの自転車のところまで這い上がってきて、おはようを叫んでいる。おおなんといじらしい。わたしは来る朝ごとによりよい方へよりよい方へ導かれている。ダンマンサラナンガッチャーミー。わたしは法(ダンマ=この世を総べる法則=真如)に帰依たします。帰依の表明をしようがするまいが、帰依しないでいられたことがなかったのである。

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「一日が終わった。で、プラスだったことは?」その5

2017年07月13日 20時00分01秒 | Weblog

13)

一日をなんとなくずるずると生きた人はそんなことには目もくれなかったに違いない。でも、ほんとうは今日の一日というのは値千金だったはずである。

14)

さぶろうは? 己はぼんやりとしてその値千金の今日の一日を過ごしてしまったようだ。

15)

でも、プラスやマイナスそのものがないのかもしれない。この世を生きた、それで全部かも知れない。全部が大きな大きなプラスなのかも知れない。(これを今日の結論としよう)

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「一日を終わった。で、何がプラスだった?」その4

2017年07月13日 19時55分27秒 | Weblog

10)

「そんなことはしないでいいことだよ」「それは是非やってほしい」などと忠告が出来るとすれば、死者は生者にどんな忠告をして上げたいだろうか。

11)

生者であっても、今日が最後の一日だったとすれば? 

12)

いったい何をどう締め括りたくなるのだろう? どんなことを精算したくなるのだろう? 何を告げておきたいだろう? 何を感謝しておきたいだろう? 

 

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「一日が終わった。で、プラスになったことは?」その3

2017年07月13日 19時50分33秒 | Weblog

7)

今日の一日を生きられた人がいる。一方で、今日一日を生きられなかった人もいる。生きられなかった人は、(もはや思うこともないだろうが)、生きられた人のことをどう思うのだろう。

8)

明日の一日があればこれをやりたい。あれをやりたい。生きているときにやりたかったことがあるはずだ。それをやれる人は今日を生きられた人であるから、その人たちに己の夢を託してみたくなるかもしれない。(もはやそんなこともしたくないのかもしれないが)

9)

もしまだ口がものを言う状態を維持しているならば、生きられなくなった人は生きられた人に何を言いたいだろう? 何を望みたいだろう? 

 

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「一日が終わった。で、プラスになったことは?」その2

2017年07月13日 19時48分00秒 | Weblog

4)

一日だけ長く生きられたというのは、単に数量の評価に過ぎないのではないか。質の問題となるとそう簡単にはいくまい。

5)

一日だけ賢くなっただろうか。一日だけ豊かになっただろうか、人間的に。一日だけものの見方が温かみを増しただろうか。

6)一日だけ目が明るさが増しただろうか。一日だけ感謝がこころに深まっただろうか。嫉妬と憎悪とが1日分だけ減量できただろうか。怨恨と忿怒が一日だけ軽くなっただろうか。

 

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「一日が終わった。で、プラスになったことは?」 その1

2017年07月13日 19時11分18秒 | Weblog

1)

一日が終わった。で、プラスになったことは? マイナスになったことは? 差し引きどうだったんだろう。

2)

プラス評価できることは、一日だけ長く生きられたという事実だ。マイナスは、一日だけ死に近づいたということだろうか。

3)

死に近づくことがマイナスかどうかは、分からないのだけれど。案外、大いにプラスのことであるかもしれない。死の評価はいずれ死んでから分かることだろう。

 

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唐津に来ている

2017年07月13日 12時38分29秒 | Weblog

唐津に来ている。4階の小部屋から唐津湾を眺めている。宝籤買いの人たちに信奉されている宝当神社がある高島が見える。そこまでは船が出ている。行ったことはない。青い海が美しい。とてもとても美しい。

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アメリカ芙蓉が大輪を咲かせている

2017年07月13日 10時16分14秒 | Weblog

アメリカ芙蓉が大輪を咲かせている。虫に喰われてどうなることかと思っていたら、戦いに勝利したらしい。花芽も増えた。「よかったよかった」「きみは強かった」「偉い偉い」などとなんだか声を掛けてあげたくなる。一度防虫剤を撒いて支援したけど、やはり本の生命力が旺盛だったからにほかならない。まだ草丈が低い。1mにも満たないのに、花を咲かせている。純白。夏の盛りには2mくらいにはなるはずである。楽しみにしておこう。

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人生の最終章は悲しむためにあるのではない

2017年07月13日 05時37分01秒 | Weblog

朝だ。朝だ。ともかく朝だ。障子戸の明るさ。そろそろ6時。

おい、さぶろう。お前、今日は何をして過ごすか? 楽しみにしていることが何かあるか? 自問する。ふふふ、と笑う。

「なけりゃどうする!]と啖呵を切りたいところだが、すぐにはそれが思い付かない。楽しいことというのが。

あっていい。あるべきだ。年を取っていても楽しんでいいはずである。だったら楽しめばいい。それもこれも。他人事も我が事にして。

人生の最終章は悲しむためにあるのではない。鬱屈するためにあるのではない。その通りその通り。憂鬱憂愁の扉を開けりゃいいのだ。閉めている扉を全開すればいいのだ。そうすればそそに吹いてくる夏風を楽しめるだろう。緑色した夏の風を楽しめるだろう。

やややや、朝早くからツバメの声が聞こえるぞ。声が溌剌としている。子育て真っ最中なのかな? たぶんそうだろう。雛にやる虫を集めて飛び回っているのだろう。やつの楽しさにあやかろう。ツバメ一族の溌剌にあやかろう。

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湯舟観察、ま、どうでもいいけどね

2017年07月13日 04時51分09秒 | Weblog

男たちの湯舟は沈黙。壁の向こう女たちは絶え間なく煩悩の鐘叩き。木戸銭350円の温泉。ぬるいので、一時間ぶっ続けでも浸かっておれる。湯舟は浅く広い。14,5人ほどいる。赤い猿のようにして目を閉じているものばかり。

ほぼ皆シニア族。70才台、80才、90才台か。ところが決まって栄養状態がいい。白髪ごま塩頭なのに、腹回りに脂肪が厚く巻いている。デカケツ。総じて70、80、90キログラムのヘビー級に圧倒されて、小さくなる。あばら骨の見えている己の貧相とは雲泥の差だ。己の麻痺の左足は細い樫の木の棒だ。まるで筋肉がついていない。(よくこれで歩けるもんだ、まったく)おまけに全身無毛の火星人だから、人目には奇異に映ることだろう、さぞかし。

湯舟は暇だから観察すまいとしてても観察してしまう。(観察されてもいるだろうが)

体洗い場は4人しか利用できない。みな入念に洗う。「おいおい、おっさんはそんなに汚れているのかあ」と言いたくなるくらいに長い。洗い終わったと思うとまた最初からやり直す人もいる。石鹸の泡に塗れて10分20分。よくまあそんなに洗うところがあるもんだ。何をどうしようと、ま、自由なんだけどね。湯に浸かるための温泉のはずだと思うが、そうでない方もおられる。

始めから終わりまで無言。ここは共通している。女たちの湯舟とは大違いだ。割れ鐘が鳴り響いている。いかにもいかにも楽しそう。響きから推察するに、ここもお年寄りばかりのようだけど。

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