<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わあ~い、わあ~い、わあ~いです

2017年07月23日 20時47分31秒 | Weblog

わあ~い、わあ~い、わあ~いです。青い縞模様の入ったタイガーマスクメロンが6個も実をつけました。畑に2株植えて6個です。多いか少ないかは分かりません。それがほぼずしりと重たくなっています。お尻の方はもう色が変わって黄色くなっています。収獲のし時が来ているのか来ていないのか見当が付きません。メロンは腐りやすいとも聞いています。今日は思い切って蔓を切って一個を抱き上げてきました。仏壇にお供えして感謝を述べました。まだ包丁を入れてはいません。家内がメロンはお尻の匂いで判断できると言います。まだのようだ、と。たしかに熟した匂いが洩れ出してはいません。暫く様子を見ることになりました。でも、わたしには初体験です。なにしろわたしのような不器用者の畑にこれだけの立派なメロンが実をつけたのですから。わあ~い、わあ~いです。

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蝶のみの唯仏与仏の世界が究まり尽くされている

2017年07月23日 20時08分51秒 | Weblog

ひらひらの蝶ふたつ飛び蝶のみの唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)究まり尽くす     薬王華蔵

「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」とは法華経方便品の中にある言葉。

その後へ「乃能究尽」と続く。そのまた後へは「諸法実相」と続く。

通して読めば、「唯(ただ)仏と仏のみが乃ち能く諸法の実相を究め尽くせり」 そういうように読み取れるようです。

仏教は仏さまの悟られたところが説かれた教えです。それが、わたしに分かるでしょうか? 仏でもないわたしに分かるでしょうか。道元禅師はノーを突きつけておられます。仏に達していないわたしに悟りに達した仏の説かれる悟りの内容が理解できることはない、と。

仏さまが一切を悟っておいでになるのであれば、そうであれば、すべては仏さまに一任していいということになりませんか。仏さまさえ諸法の実相を究めておられるのであれば、それで十分なのではないでしょうか。わたしがいかように無知蒙昧であっても仏さまによって悟られた世界に生きているわたしですから、畢竟すれば「仏に悟られたわたし」である、と。

「唯仏与我」=「仏さまがわたしに向き合っておられる」世界に生きていることになるのではないか、という推量が湧いて来ます。これはさぶろうの自己流の解釈です。

そこへ蝶々を遊ばせてみたのがこの短歌です。ひらひらと二つの蝶が飛んでいます。するとそこに「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」の世界が彷彿として浮かび上がって来た。という歌です。蝶々はひらひらと飛んでいるだけでいいのです。それが自ずからにして「究尽諸法実相」に適っているのです。

道元禅師は決してそういう人間だから仏の悟りの世界に往来することはできないとは言っておられません。むしろ、自在に出入りしていることが出来るのだと。仏が究め尽くしておられる諸法実相の世界を生きているのは紛れもなくこのわたしたちなのですから。

 

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目と口と手はみなきみに触れるための器具

2017年07月23日 18時57分49秒 | Weblog

目と口と手はみなきみに触るる器具 触れずして澄む月明の山      薬王華蔵

わたしの手はあなたに触れるための器具である。わたしの口はあなたに触れるための道具である。わたしの目はあなたに触れるための調具である。それ以外の用途ではない。しかあれども、今夜の月は煌々と照らして澄み渡っている。わたしはあなたに触れずしてこの月明の山に向かってただに立ち尽くしている。空しや。わたしの口も目も手もあってなきがごとし。

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恐怖(くふ)を遊ばせている荒野の竜胆

2017年07月23日 17時48分46秒 | Weblog

無有恐怖(むうくふ)が恐怖(くふ)を荒野に遊ばせて竜胆青し芒は白し           薬王華蔵

無有恐怖(むうくふ)とは「恐怖有ることなし」の凝縮形である。恐怖がないのだから涅槃である。涅槃の境界である。「恐怖あり」が迷界・人間界のあり方だが、しかし、それを引っくるめて裏返しすれば、無有恐怖の涅槃界、すなわち異界、菩薩界。仏界である。ここまで到達すると、これまでの世界の材質だった恐怖が一変する。自在を得る。荒野に遊ばせることが出来る。 自在に放たれた荒野に、竜胆は青く咲き、芒尾花は白い風と波を渡らせる。

恐怖は実体がない。空である。仏教はそう教えている。そこへ辿り着くと恐怖は形骸化してしまう。泡になって融けてしまう。無に帰してしまう。荒野は空の恐怖を遊ばせるところとなる。

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