<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

己のみは他界異境のはみ出し者か

2017年07月21日 18時53分31秒 | Weblog

己のみは他界の属か 大樟の影大きくて南風渡る     薬王華蔵

夏の真昼間。社の杜の大楠の影が深い。落ち着いた影だ。緑色をしている。大楠は樹齢1000年を超えている。静かだ。神宮の前の広い砂場を独り占めしている。そこへそよそよそよと南風が渡ってきて、是で一層涼しくなった。

ふっと思う。此処に居る己は場違いなのではないか、と。現実世界が、俗界の己によって俗悪に塗り替えられてしまうのではないか。そういう不安が起こる。そしてその己一人がまるで他界の配属物のように心細く思えてしまう。

樟は楠に等しい。僕はよく自転車に乗って白角折(おしとり)神社まで出掛ける。ここに大楠が聳えている。楠の周囲は結界がしてある。俗悪な魔を入れないために。蝉とトンボと蝶以外、滅多に誰も此処へは来ない。ここはずばり、異境から遮断された霊界なのだ。

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なんだおれは人間と同じ暮らしをしていたのか

2017年07月21日 18時42分07秒 | Weblog

玉葱をトントンと切る音のしてめざむる朝をたまへり 鬼も      薬王華蔵

この鬼には妻がいる。朝になるとこの妻は、鬼よりも一足早く起き出して、台所に立って味噌汁を作る。鬼と鬼の妻の二人のために。玉俎の上で葱を切るとんとんとんという包丁音が聞こえてくる。これで隣の小さな部屋に寝ている鬼は眠い目を覚ます。そして朝を迎える。なんだ、おれは人間と同じ暮らしをしているじゃないか。鬼はそういう発見をして照れる。味噌汁の湯気がふんわりと流れて来る。鬼は、頂き物のように輝く朝と、賜り物のようにあたたかな朝の食卓へ這いだして来た

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いちにんのための一宇宙

2017年07月21日 18時16分43秒 | Weblog

銀河をば内包したる己一個 二つにえいと割って見せばや      薬王華蔵

一人一宇宙。いちにんのための一宇宙。その一宇宙が一人(いちにん)の内側に広がっている。外側に広がっている宇宙も一人の眼の中でしか活動できないので同じ事だ。

それほどの己である。力量のある己である。これで均衡が取れている。堂々の己である。すべての重量に匹敵する己一個という超新星の物体。一宇宙を生かしているのは己の一人である。己の一人が、一人と一宇宙の死活を握っているのだ。だから朝方の夕顔のように小さく萎縮するには及ばない。おのれのための一宇宙をどうするか。どう働かせるか。100%働かせて働かせて互を魅了し合う。その挙げ句で満足の己は死を迎えるものなのだ。

そんなことはないだろうと、野原の蟷螂が斧を振り上げて来た。己は大きくえいっと掛け声を掛けた。嘘か誠か、この場で己を二分轄して見せようじゃないか。僕は啖呵を切ってみた。

 

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象さんの尻尾はなぜにあんなに小さいか

2017年07月21日 17時59分24秒 | Weblog

象さんの尻尾はなぜに小さいか 思案一里の真昼の熟睡(うまい)            薬王華蔵

たしかにあの巨大な象さんの体躯にしては、尻尾が細く短く小さい。鞭のようにうならせても、でっかい腹部や背中の先にまでは行き渡らないだろう。痒くなったりしたときにはどうするのだろう? 害虫に噛みつかれたときにはどうするのだろう? そうか、そのために長い鼻があったのか。あれでカバーができるというシステムになっているのだな。あれこれそういうことを考える。考えなくてもいいことを延べ一里に渡って延々と。そういう思案は迷い子思案というのかもしれない。でもそうやっている内に時間は経つ。すると緊張が解けてくる。睡魔がその隙間に入り込む。そしてこっくりこっくりし出す。挙げ句に涎を垂らして熟睡となる。気づいたときには真昼間の日が翳って夕方になっている。老爺の一日がこれだ。でもほんとうに、象さんの尻尾はあんなに小さくていいのかなあ。いいから、小さくなっているんだよね。

 

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現在という時間しかありませぬ

2017年07月21日 12時55分43秒 | Weblog

現在といふ時間しかありませぬ 生まれて生きて風が触れ合ふ     薬王華蔵

生きている時間を現在と言うのだ。だからわたしにある時間はたった一つの時間、現在である。他に持ち合わせているというのはすべて幻想である。幻想と触れ合っても風鈴の音は鳴らない。わたしは此処に生まれて来た。そして此処に生きている。触れ合っているのは風ばかりではない。風が包んでいる本体、つまりわたしとあなたも、触れ合って、そこで初めて現在を生きていることを確かめ合う。と、そこにたちまち風鈴の音が鳴り響く。軒下に夏風が風鈴を鳴らしている。そよそよそよと。

 風が風と触れ合っているのだが、それほどの爽快さの中でわたしは、いとしい人とも触れ合っている。今し現在と言う時間しかないのだから。

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あなたは誰なのだ? 蜻蛉が問う

2017年07月21日 12時15分41秒 | Weblog

「なはたれそ」「己は誰ぞ」蜻蛉(せいれい)と夏雲のゐて問ひ合ふ まひる    薬王華蔵

「あなたは誰なのだ?」「そういうあなたこそ誰なのですか」シオカラトンボが夏空を飛んでたなびく白雲に問い掛けている。白雲もそれに答えている。でも、答にはならない。「わたしが何者なのか」二人も確答ができかねるのだろう。いな、答えるべきことでもないのかもしれない。ただそこにそうしているだけで、互いに自足しているはずなのだから。人間もその間に住み慣れて住み分けているが、やっぱりたいして事情は変わるまい。真昼。蜻蛉もすいすい飛んで渡り、白雲も夏風の吹くままに流れて行く。

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死なずに生かされている日なのに

2017年07月21日 11時34分02秒 | Weblog

九州北部地方も梅雨が明けたらしい。でも、快晴にはなっていない。やや薄曇り。それでも蒸し暑い。冷房の効いた部屋に入ってクラシック音楽を聞いている。YouTubeで。うとうととして眠気が襲ってくる。死なずに生かされている日なのに、こんなぐうたらな暮らしをしていてもいいだろうか。それを言い出すと恥じ入るばかり。詫びを入れねばならなくなる。

もうすぐお昼。お昼は昨日作ったカレーを食べよう。温めるだけでいいから簡単だ。外に働きに出る意欲なし。まるでなし。畑も庭も夏草の茂るままになっている。それでも労働の意欲なし。暑い。夏痩せしている。「一日作(な)さざれば一日食らわず」 それは禅宗のお坊様のスローガン。それも昔昔の。老爺は涼しくなるまで怠け者に徹することにする。

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