<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

呼びかけて呼びかける

2015年07月19日 16時40分23秒 | Weblog

大悲毘盧遮那仏 たいひーひーろーしゃーだーふー ひーろーしゃーだーふー ひーろーしゃーだーふー ひーろーしゃーだーふー ひーろーしゃーだーふー 大悲という宇宙生命よ びるしゃな如来よ。

呼びかけて呼びかけて呼びかける。その前置きもその後置きもない。ただ呼びかけて呼びかけて呼びかけている。何かを頼もうというのでもない。そこに功徳を見出そうというのでもない。神力を引き出そうというのでもない。わたしの思いを込めようとするのでもない。放ち去って無心に無心になろうとする。無心に無心になればいいと思う。

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善果報を人に回し向ける礼拝行

2015年07月19日 15時57分13秒 | Weblog

所修一切衆善業(そーしゅういっせいしゅうせんぎょう) 利益一切衆生故(りーえきいっせいしゅうせいこー) 我今尽皆正廻向)がーきんしんかいせいかいきょう) 除生死苦至菩提(ちょ=せいしーこーしーほーてい) 帰命頂礼大悲毘盧遮那仏(きーべいていれいたいひーひーろーしゃーだーふー)       真言宗胎蔵界九方便 「第九廻向方便」より

(もしも)(仏道を)修して得るところの一切もろもろの善業の我にあらば、我はまず一切の衆生を利益(りやく)すべし。この故に、我はいまことごとく皆まさに(善業を)廻向して、(衆生の)生死の苦しみを除いて菩提(仏智見)に至らしめん。大悲そのものの宇宙生命・毘盧遮那仏に帰命して押し頂きます。

廻向(えこう)とは廻らし回すことである。わが受けるべき善果報を人さまにお譲りし、代わって人さまがいま受けている悪果報を引き受けることである。これで衆生を利益することができる。このために仏道の修行にいそしむという誓いを立てているのだ。毘盧遮那仏(大日如来)の前で帰命して押し頂くのはただただこのためである。わたしの幸福追求の手段として仏道修行をしているのではないのである。善業(善果報)を受けるのは甚だ難しいのだ。しかし他者に廻向するためにはどうしてもわが善業(仏道修行)が必要になってくるのだ。

わたしの欲心をできるだけ減らして行く。それがそのまま仏道の修行になるのである。廻向方便(他者に利益を向ける手立て)は、わたしを棄てたその重さを毘盧遮那仏にお預けすることでもある。

さぶろうは、今日この経典に巡り会った。上記のように理解をこころみたけれども、怠け者のさぶろうにはとても実践ができないと思った。やんぬるかな、引き当てる善果報すら覚束ないと思った。そういう結論を引き出すための胎蔵界廻向方便ではなかったはずなのだが。

浄土系の考え方はこれとは異なっているようだ。自力の修行を棄てているのだ。廻向ができるのは阿弥陀如来だけだとしている。だから他力を頼む以外にはないのである。それはそうかもしれない。罪業深い者は一生二生を費やしても善果報までには行き着くまいから、そこで絶対他力の信仰が生まれてくるのであろう。

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ムー

2015年07月19日 12時04分05秒 | Weblog

昼から雨の予報だが、まだ降っては来ない。暑くなった。湿度も高いのだろう。むんむんする。

下痢を立て続けに3度もしてしまった。冷えたトマトをたくさん頬張ったからに違いない。さぶろうの腹は敏感に反応する。3度目にはへなへなとなってしまった。

身心一如という。互が互を引き上げる役目をして二者は結びつき、プラスの相乗効果を上げることができるが、逆に互が互を引きずり下ろして、マイナスの方向に相乗効果を発揮することもある。

病は気から、とも言う。気が病めば身体が病むし、身体が病めば気が病むことにもなる。その逆に、2者が手を取り合って鉄壁の守りをすることもある。このコンビネーションがぴったりすれば向かうところ敵なしにもなれるだろう。

今日のさぶろうはどっちだったのだろう。心が身体をリードしていれば、身体はむやみにくたばったりはしないで済むはずであるし、身体が強靱に心をリードしていれば、少々の不幸不運を担当させられても落胆をしないで済むはずである。

この辺りの消息が真理であるかどうか、公式通りであるかどうか、下痢でもって試してみるのも面白そうである。姿勢を正し腹式呼吸をして丹田に力を込めてムーと気合いをいれてみる。

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台風で落下した桃を買いに

2015年07月19日 11時00分35秒 | Weblog

数日前、道の駅「うきは」は大繁盛をなしていた。この地域は果物の産地である。桃が箱詰めで売り場狭しと積んである。上品な匂いが漂っている。中には傷物もある。半値だ。売り場を覗き込んでいると、小国から買いに来たという傍のご婦人が、聞きもしないのに、「これがいいんですよ。これで十分。皮を剥いて砂糖と少々の塩を加えてほんの数分だけ煮て、ねえ、あなた、これを冷蔵庫に入れておくと夏の間中おいしく食べられるんだから」とアドバイスをしてくれた。ご婦人は連れの若い人に何箱も運ばせている。桃好きのさぶろうは口からよだれが出て来た。よく冷えた桃スイーツを夏の間中食べたい! さて、先日の台風で桃園の桃はぞろりと落下をしたに違いない。半値の箱がずらりとならんでいるだろう。どうしよう。あの時には小国のご婦人の勧めには乗れなかったが、今度こそ決断を付けてみよう。今度は一箱二箱くらい買ってみてもよさそうである。しかし、浮羽までは遠い。しかも今日は炎天である。ああ、どうしよう。どうしよう。

 

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人を羨望して止まない低い位置にいる

2015年07月19日 10時21分10秒 | Weblog

こうじゃなかった。そう思うのだ。

さぶろうの晩年は、こうでありたい、こうあるべきだというところから離れていくばかりだった。もっと活躍を期待していたのだ。押しも押されぬ高い位置、人の羨望の位置にに上り着いているはずだったのだ。それがどうだ。まったくその真反対に、人を羨望してやまない低い位置にいることになったのだ。

なんでもハズレということはある。地元商店街夏祭り抽選会でもハズレの人が多いのだ。いな、当選の人が極めて少ないのだ。そのときには、ああ、そういうものかと腹を括って、そこをするりと通り抜けて来ればいいのである。

こうでありたい、こうあるべきだの旗を降ろせばいいのだ。こうはならなかったのである。だったら、そこですばやく拘りを捨てればいいのである。身の丈に合った新しい目標に切り変えてやればいいのである。

修正訂正を重ねて行くのが人生なのではないか。さぶろうは自分にそれを言い聞かす。自分の置かされている位置に沿って行くのが修正の正ではないのか。

「こうじゃなかった」「こんなはずじゃなかった」に執着をしないでおいて、「ではこれからはこうしよう」に切り替えて行けばいいのだ。

仏教には「立処皆真」の教えがある。我が立つ処を真として胸を張って立て。他者の立ち位置、そこも真だが、わが立つ位置も、比較を絶して、真なのである。そこにはそこならではの輝きがあるのだから。さぶろうの毛虫が数十の短い足を交互に動かしてぐじぐじしながら土手道を這っている。赤紫の薊の花が咲いている。

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人と組めない

2015年07月19日 09時59分45秒 | Weblog

早い話、人と組めないからである。さぶろうが仏陀に近づこうとするのは、人と組むという努力を起こさないからである。こんなのは信心にはならない。信仰にもならない。ただの逃亡難民にすぎない。

人である間は人と組むべきである。スクラムを組むべきである。こうして死闘のラグビーをするべきである。ではどうしてその努力を破棄してしまったのか。けっして正統な理由にはならないけれども、理由の一つは、障害者となったからである。人前に出たいという気持ちが喪失したからである。

人前に出る。そうすると何度かバランスを崩して無様な顛倒を起こしたからである。障碍のある足は、自制がきかなくなる。立ち上がったところでよろよろする。無様な上に、憐憫を買ってしまう。

障碍は錬磨の砥石であって、けっしてマイナス効果だけを生み出すのではない。立ち上がるジャンプ台でもあるのだ。だからこれを理由に挙げてはならない。ここをもって輝きを増してきたという成功者も実在するのだ。

人と組むことがなかったわけではない。でも、相手に迷惑をかけていることが身に滲みるのだ。自分が引きさえすればいいのだなという結論に達する。わけなく達するのだ。しばらくは我慢をするけれども、そうすると相手にその分の親切を強いてしまう。そこで我慢の何倍も相手の善意にお礼を述べなくてはならなくなる。これに疲れてしまう。

でも、進むべき道は人と組むことであると思う。組まない道ではない。

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すぐに答えが出そうにもない

2015年07月19日 09時35分50秒 | Weblog

そりゃそうでございましょうとも。ええ。ええ。ごもっともでございます。あなた様の仰るとおりで。わたしに異論はございません。いささかも。

そういってさぶろうは相手を立てているが、その実は己を塞いでしまっただけである。こうすると流れてくる水の流れを堰き止めないですむのである。そのまま流し去ってやればいいのだから。

かといって賛成や同調をしているわけでもない。自分の思考のエンジンをしばらく止めているというだけである。嫌な奴だ。まったく。相手を立てても、だからどんな力にもならない。助っ人登場と踏んでいた相手はそこで肩すかしを食って、腹を立てる。

今度は知らぬ存ぜぬを通すことになる。嫌な奴だ、まったく。彼はもうさぶろうなんか宛てにしなくなる。さぶろうはやっとここでさみしがる。穴に落ちたさぶろうは暗い顔をするが、ここから這い出てこようともしない。

積極果敢と言うところがない。自発性がない。組むということがない。典型的自閉症状の患者だ。これじゃいけない。ではどうするか。すぐに答えが出そうにもない。

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会話をしていないと寂しい

2015年07月19日 09時14分23秒 | Weblog

さぶろうと会話をしてくれる者は少ない。いっしょに暮らしている家族以外で、会話の相手を務めていてくれる者は、日に何人いるだろうか。一人も居なかったという日がむしろ多いのではあるまいか。

で、さぶろうは、つまりは、生の人間を相手にすることを諦めざるを得なくなる。なんでもかんでも擬人化してきて相手を申しつけることにもなる。空を人とする。雲を人とする。風を人とする。月や星を人とする。

無情の山川草木が相手になる。相手が鳥・魚・虫になる。植物になる。あるいは自分自身になる。死者になる。神々や菩薩になる。仏陀になる。

会話をしていないとさみしいから、会話の相手を探してきて語りかける。返事が聞こえてこなくとも、それでもいっこう構わずに、語りかけてさみしさを離れようとする。明るい昼間はこれで過ぎる。暗い夜が来れば瞑目をして瞑想をする。瞑想の舞台に役者を誘い出してきて会話を成立させる。会話をしていないと淋しがり屋のさぶろうはさみしがる。

ここ「おでいげにおいでおいで」に小話を書いているのもそういうことかもしれない。会話を欲しがってのことなのかもしれない。でも、実際のさぶろうは会話下手である。超のつく会話下手である。人間とだと間が持たない。題材がない。同調ができない。会話の糸は、ビオラの弦のように、ぷっつりと切れてしまう。

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いとおしくなって両手の指でさする

2015年07月19日 08時52分14秒 | Weblog

洋式便所に座る。ズボンやパンツを下げて下半身裸となる。腰や股や膝や脛が丸見えとなる。さぶろうは色白だから、このとき、走っている毛細血管が観察の対象となる。

青紫の静脈は皮膚の真下を通っているので、細いのまでがよく見える。網の目状に血管は張り巡らされている。ここへ酸素や栄養物やホルモンや酵素などを運搬して来て、新陳代謝の活動をしている。やや浅黒いのから、やや赤紫のものまでが、ものも言わずに走っている。

さぶろうは感動をする。さぶろうがこうしてまざまざと生きていることに感動をする。わがいのちの生命活動を目の当たりにしたようで感動をする。いとおしくなって両手の指で毛細血管を撫でてみる。摩ってみる。陰ひなたのないきみらの労働のお陰で、僕は健康な今日を迎えているんだ。ありがとう。そういう気持ちになってくる。

さぶろうをご主人様にしてお仕えしている無数の善意の存在がいる。救済の仏陀といっても見えていないから、その存在すら怪しんでかかるが、わが体内の善意の存在はちゃんとこの眼に見えているのである。彼らをしかし仏陀と呼ぶことはない。ないけれども、それにふさわしい働きをやっていることは紛れもない事実なのだ。

さぶろうが死ねばこの赤紫、青紫の静脈毛細血管もなくなってしまうことになる。しかし、いまは生き生きと走って働いている。ということは? そうなんだ、さぶろうが今を生きているということなのだ。生きよ生きよ生きよ生きよ、さぶろう、生きよという声がする。声にならない声を聞く。数限りない救済実践の声を聞く。

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まあ、いいじゃないの

2015年07月19日 08時41分07秒 | Weblog

やられちゃった。あっという間だった。カラスは人間なんか恐くないという顔をして、わが家の野菜園に侵入を果たしてくる。5m位先をのそりのそり歩いて、食べる餌食を物色する。瓜、胡瓜、トマト、落花生。おいしそうな色になったらかっ攫っていく。桃太郎トマトの大玉が真っ赤になって熟していたので、先手を打って収獲しておかねばと思っていたが、トイレを優先させて戻って来たら、案の定もぎ取られていてもはや跡形もなかった。足の爪に刺して持ち去って、いまごろ木の上に陣取りブレックファストにしているのかもしれない。カラチの勝ちだ。畑の東西南北で数匹が、電線に止まったり、藪影に身を隠したりしながら、人間のばかあばかあと鳴いてせせら笑っているのが聞こえる。「まあ、いいじゃないの、カラスだって食べなけりゃ生きていけないのですから」家内が慰めを入れてきた。

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