こうじゃなかった。そう思うのだ。
さぶろうの晩年は、こうでありたい、こうあるべきだというところから離れていくばかりだった。もっと活躍を期待していたのだ。押しも押されぬ高い位置、人の羨望の位置にに上り着いているはずだったのだ。それがどうだ。まったくその真反対に、人を羨望してやまない低い位置にいることになったのだ。
なんでもハズレということはある。地元商店街夏祭り抽選会でもハズレの人が多いのだ。いな、当選の人が極めて少ないのだ。そのときには、ああ、そういうものかと腹を括って、そこをするりと通り抜けて来ればいいのである。
こうでありたい、こうあるべきだの旗を降ろせばいいのだ。こうはならなかったのである。だったら、そこですばやく拘りを捨てればいいのである。身の丈に合った新しい目標に切り変えてやればいいのである。
修正訂正を重ねて行くのが人生なのではないか。さぶろうは自分にそれを言い聞かす。自分の置かされている位置に沿って行くのが修正の正ではないのか。
「こうじゃなかった」「こんなはずじゃなかった」に執着をしないでおいて、「ではこれからはこうしよう」に切り替えて行けばいいのだ。
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仏教には「立処皆真」の教えがある。我が立つ処を真として胸を張って立て。他者の立ち位置、そこも真だが、わが立つ位置も、比較を絶して、真なのである。そこにはそこならではの輝きがあるのだから。さぶろうの毛虫が数十の短い足を交互に動かしてぐじぐじしながら土手道を這っている。赤紫の薊の花が咲いている。
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