<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それも分からないような男ではいたくない

2015年07月10日 20時38分33秒 | Weblog

・・・・・ジョニーが来たなら伝えてよ/わたしは大丈夫/もとの踊り子でまた稼げるわ/根っから陽気にできてるの/・・・・・今度のバスで行く/西でも東でも/気がつけば/さびしげな街ね/この街は/・・・・・ジョニーが来たなら伝えてよ/2時間待ってたと/サイは投げられた/もう出掛けるわ/わたしはわたしの/道を行く/・・・・・

これは阿久悠作詞、都倉俊一作曲の「ジョニーへの伝言」の抜粋である。

今度のバスで行く/西でも東でも/気がつけば/さびしげな街ね/この街は/

ここがとってもいいなあ。男と女のこんな悲哀がたしかにたくさんたくさんあるんだろうなあ。それも分からないようなさぶろうでいたくはないなあ。

仏教にまつわることばかり書いているさぶろうだけど、そればかりじゃ偏っているよね。男と女のファンタジー、幻想曲も腹に滲みるようにならなくちゃねえ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が身で以て証明する

2015年07月10日 20時16分55秒 | Weblog

午後3時前後に驟雨が来襲したために、その後、蒸し暑さが残っていません。夜は凌ぎやすくなっています。

喜忍、悟忍、信忍のことを三忍と言います。

喜忍は信心を得たことによって生じる喜びの心です。悟忍は阿弥陀仏の智慧の光明によって目覚めさせられた心です。信忍は(阿弥陀仏の救済の)本願を疑わなくなった平穏な心です。

これで法性の常楽(仏陀のはたらきが変わることなく受け止めていられる安楽)を我が身で以て証明することになります。

さぶろうは常に導かれています。よい方へよい方へ導かれています。しかし、この三忍のどの領域にもまだ踏み込んでいません。ああ、これからなんだなと思います。いずれここへ導かれていくことになるのだなと一人で決め込んでわくわくしています。他愛がありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行者の信心は金剛心である

2015年07月10日 19時55分48秒 | Weblog

行者正受金剛心 (ぎょうじゃ しょうじゅ こんごうしん)  浄土真宗経典「正信念仏偈」より

(信心の)行者は金剛心を正しく受けり。

浄土真宗の行者ですからこれは念仏の行者でしょう。念仏は阿弥陀仏から賜るものなので、まったくの他力です。阿弥陀仏の本願を寸分の狂いもなく正しく受け止めさせられています。これは自力でできることではありません。頂いて頂いて行く道です。

行者は念仏の一本道を歩いて行く人です。この人の心は賜った信心の金剛心であって壊れることがありません。これが行者の確信になっています。

金剛は堅固なダイアモンドのことです。ダイアモンドのような信心に完璧な強靱さを付与されています。行者はもはや怯(ひる)むことがありません。

行者を害しようとする者どもは恐れをなして逃げて行くしかありません。病も災いも近づいて来られません。張り裂けんばかりの堅固な信心に満たされているので、悪意害意を弾いて弾いてしまうのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑さを感じないサイクリング

2015年07月10日 19時45分09秒 | Weblog

5時40分より6時30分までサイクリングを楽しんできました。半袖シャツが前も後ろも汗に濡れてしまいました。

体調がいいので行きも帰りもやすむことなくペダルをぐいぐい漕ぎました。走っている間は暑さを感じません。風が戦ぐからでしょう。

ゆっくり散歩中の人、急ぎ足でジョギングをしている人、犬の散歩をしている人、下校中の中学生、高校生などにすれ違いました。こんにちはの挨拶をかけました。

帰宅した途端に体内の熱が噴き出て来ました。疲れはありません。あるのは快感ばかりです。冷水でシャワーを浴びてますます爽やかになりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金剛身となるいわれ

2015年07月10日 17時33分22秒 | Weblog

仏陀を生きることとはおのれのうちの仏性に目覚めることである。仏性に目覚めた仏陀としても活動をすることである。

おのれのうちの仏性に目覚めたものは耀いて輝いてすなわち金剛身になるはずである。金剛身であれば縦横無尽の救済活動がかなうだろう。この自負は衆生利益の活動を強固にするだろう。

観世音菩薩はあなたみずからが世の中の観世音菩薩となって活動をしなさいと促されている。これで観世音菩薩の救済を頼む段階から一歩抜け出すことになる。法華経は実践を重んじている。

この稿は端折る。箇条書きだけ書いて終わりとする。夕方になった。日が落ちた。これからサイクリングに出掛けてきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一本道

2015年07月10日 17時13分04秒 | Weblog

釈迦牟尼世尊は「我は仏陀なり」という宣言をされて、開眼された。その場で仏陀に成られた。

さぶろうが「我は仏陀なり」を宣言したところで、開眼にもならないし仏陀になったことにもならない。それはただの傲慢である。

では、おのれに向かって「我は仏陀の道を歩む者なり」の宣言をすることは間違っているか。いや、間違ってはいない。衆生の全てが仏陀に成ることこそが仏陀の願いなのである。

だから「我は仏陀なり」は到達点なのである。

到達点はしかしながらそれだけが単独にあるわけではない。一本道になっていて連綿と繋がっているのである。一本道の全体が「我は仏陀なり」に貫かれているのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

打ち出の小槌を振る

2015年07月10日 16時50分16秒 | Weblog

大黒さまの真言マントラは「おん まか きゃら や そばふぁ」である。打ち出の小槌を右手に握って高く掲げておられる。この小槌を振ったらそこに金銀財宝が出現する。

でも、大黒さまはご自分ではそうなさらない。「さぶろう、あなたがわたしになってみなさい。あなたがみずからでこれを振ってみなさい」とさぶろうをにこにこして誘いかけられるだけである。

さぶろうは腕を組んでこの実践を考えている。どうすれば打ち出の小槌が振れるか。どうやったら大黒さまになれるか。それを考えている。方法はあるはずである。あるからそう誘ってこられたのである。

どうしたらいい。どうしたらいい。さぶろうは考えて考えている。

何を打ち出すか。何を打ち出せば誰がよろこぶか。誰もよろこばないものは打ち出せない。さぶろうは先へ回っていまはここを楽しんでいるところだ。

いっそギリシャの借金をごっそり払えるだけの大金を打ち出してみるか。これだったら、EUもギリシャも、株価の乱高下に右往左往している世界中のマーケットの人たちもさぶろうを救世主とすることだろう。

現実は1ユーロだって見たこともない。

打ち出の小槌とはさぶろうのこころのことかもしれない。さぶろうのこころは福の神でも貧乏神でも何でも打ち出せる小槌。

小槌を振って自分をよろこばせるのが先だろうが、ここまでだとなんだか独り善がりでつまらない。その先があった方がいい。広範囲に人様をよろこばせるのがいい。

その前にまずは己みずからを福の神とするにはどうしたらいいか。我は福の神なり、そこをちょいとイメージしてみる。イメージ、ここまではできるが、活動ができない。

イメージが即活動なら、それはできたことになる。

福の神になって人様をよろこばせる。こころの幸福を分け与えて行く。これは衆生利益に等しい。

すべての人々に福の神の活動を促してくる役目が大黒さまであったのかもしれない。おん まか きゃら や そばふぁ。ちょいと急ぎすぎだが、これを今回の小結論として今日のこのブログを閉じよう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あてにはならない

2015年07月10日 16時26分51秒 | Weblog

さて、雨が止んだ。草っ原に鈴虫が鳴いている。外へ出てみるとするか。サイクリングに行ってみるのもよさそうだ。

さぶろうは上半身裸だ。つるつるの禿げ頭に冷たい井戸水を湿らせたタオルが四つ折りに畳まれて乗っている。これがなかなか効果的だ。頭の熱が逃げていく。扇風機が回っている。風の強さは弱。それでもひんやりだ。

さぶろうは独り善がりだ。病気対処法みたいなことを先のブログで書いたが、あてにはならない。だからあてにはしない方がいい。さぶろうはこう思うというだけである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ そうだったのか

2015年07月10日 15時45分06秒 | Weblog

病気になる。これを克服する。

するとそこに新しい明るさが見えてくる。明るい風景が広がって来る。

したがって、広がった明るい風景の元になる原因は、病気である。

病気になっていなければそこへ到達することはできなかったのである。

明るい風景が開けたら、そこで一幕一場の劇はめでたく幕を下ろすことになる。

**

病気にならなくともそこへ到達することができる人もいるけれども、こういう人は随分と進化をしている人たちである。

だから、克服を促しているのが病気であるとも言える。

病はいっときの現象である。

止まっているのではない。

止まっているのではないのに止まらせているのは、その人がそれを永遠不変として絶対化するからである。

***

この世のものはみな行き過ぎる旅人だから、そこに一泊したら明朝にはまた旅支度をして出立をするはずである。

彼の滞在には深い意味が込められていたので、それを読み取って、彼を次へ進ませてあげればいいのである。

****

闇が深くなると小さな明かりが大きな明かりに変容する。

闇はただの闇ではない。

闇は闇だけで存在できるものでもない。

明るさがなければ闇にだってなれなかったのである。

闇がなければ明るさだって単独の勝利は得られなかったのである。

殺し合っているのではなく、互いを生かし合っているのだ。

*****

わたしの進歩を止まらせようとするものを敵としてはならないように思う。

それがあってこれがあるのである。

それをわれわれはいつも体験的に学んでいるのである。

われわれが学び取っていくために、ただそれだけのために、われわれの舞台に次々とさまざまな登場人物が現れてきてさまざまなドラマを演じて行く。

われわれが涙のうちに笑いのうちに、このカラクリを理解ができたら、そこでたちどころに舞台俳優たちは藁人形になってそこに倒れ、やがて掻き消える。

ああそうだったのか。我への働きかけがやっとこれで成就したのか。われわれはこれを知る。

諸行無常と諸法無我を知る。我を訪問するもののすべては、変化変容を遂げて次へ次へと進んで行くことを知り、そこにいかなる実体もないことを知る。われわれはここへ来てやっと空を知る。こだわらないでいいことを知る。

空を知って、わたしも空になるのである。空の眼が開けて安心を得るのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなた方を敵としない眼が開けました

2015年07月10日 15時06分31秒 | Weblog

利益衆生の思いはウイルスと雖も変わりはしない。

われわれからするとわれわれを病気にするウイルスは悪の権化だが、彼らはしかし、やはり利益衆生の実践をしていることに変わりはないのだ。

なぜ、人間を病気にすることが利益衆生なのか。

これで人間の成仏を謀っているからである。

だから、彼らは仏陀の権化であってお遣いなのだ。

成仏というのは死ぬことと同義ではない。生きているうちにもできることである。相手の成仏を願うこと、相手の成仏を祈ることが、すなわち、成仏の実践であって、それが核心である。

だから、あなたのお陰でわたしは成仏を致しましたというメッセージを届けてやれば、それで彼らの役目は終わったことになる。彼らは意気揚々として仏陀の元に帰っていくことができる。お遣いの役目を果たしたのだから。

そしてウイルスの役目を尊重し、ねぎらい、慰撫し、感謝して、今度はウイルスの成仏を願って祈ってあげればいいのである。

すべての生き物、この地上の生き物は他者の利益のために存在をしているのだ。

10

衆生利益の実践活動をしているのだ。互い互いになりながら。

11

悪者の役を演じていることがあるが、その本質は善である。

12

他者に悪の働きかけをすることで他者を善に転換しようと目論んでいるのである。

13

悪はそのまま悪なのではない。どこまでいっても悪のままなのでもない。

14

悪は善を善たらしめるための悪なのであって、いわば触媒のような働きをもしているのである。悪の演技を見通してやれば彼らはこれで現成して果てる。果てて今度はみずからが成仏を果たしていく。

15

「わたしの体の中のウイルスさんこれまでのご苦労ありがとうございました。あなたのお陰でわたしは開眼を致しました。あなた方を敵としない眼が開けました。今度はあなたの番です。外へ出て今度はあなた自身のの成仏を成し遂げて下さい」このメッセイジを伝えると、彼らは安心をして離脱をしていくことができる。

16

現象面に現れて来る悪は、受け取る人の心によって善と変換を遂げることができる。それを実証することが善悪互の大いなる前進になるのである。

17

悪も善もすべては変数なのである。微分し積分して変化を遂げていくことができるのである。

18

今日はこういうようなことを考えてみた。病気になって苦しんでいる人たちに読んでもらえれば有り難い。病という現象によって気を病ませてはならない。ひとところに止めてはならない。一方的に思い込んでそこで滞らせてはならない。我に関わるすべての存在が、善へと進ませるための変化誘発触媒になっていることを忘れてはならないように思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする