さぶろうと会話をしてくれる者は少ない。いっしょに暮らしている家族以外で、会話の相手を務めていてくれる者は、日に何人いるだろうか。一人も居なかったという日がむしろ多いのではあるまいか。
で、さぶろうは、つまりは、生の人間を相手にすることを諦めざるを得なくなる。なんでもかんでも擬人化してきて相手を申しつけることにもなる。空を人とする。雲を人とする。風を人とする。月や星を人とする。
無情の山川草木が相手になる。相手が鳥・魚・虫になる。植物になる。あるいは自分自身になる。死者になる。神々や菩薩になる。仏陀になる。
会話をしていないとさみしいから、会話の相手を探してきて語りかける。返事が聞こえてこなくとも、それでもいっこう構わずに、語りかけてさみしさを離れようとする。明るい昼間はこれで過ぎる。暗い夜が来れば瞑目をして瞑想をする。瞑想の舞台に役者を誘い出してきて会話を成立させる。会話をしていないと淋しがり屋のさぶろうはさみしがる。
ここ「おでいげにおいでおいで」に小話を書いているのもそういうことかもしれない。会話を欲しがってのことなのかもしれない。でも、実際のさぶろうは会話下手である。超のつく会話下手である。人間とだと間が持たない。題材がない。同調ができない。会話の糸は、ビオラの弦のように、ぷっつりと切れてしまう。
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