所修一切衆善業(そーしゅういっせいしゅうせんぎょう) 利益一切衆生故(りーえきいっせいしゅうせいこー) 我今尽皆正廻向)がーきんしんかいせいかいきょう) 除生死苦至菩提(ちょ=せいしーこーしーほーてい) 帰命頂礼大悲毘盧遮那仏(きーべいていれいたいひーひーろーしゃーだーふー) 真言宗胎蔵界九方便 「第九廻向方便」より
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(もしも)(仏道を)修して得るところの一切もろもろの善業の我にあらば、我はまず一切の衆生を利益(りやく)すべし。この故に、我はいまことごとく皆まさに(善業を)廻向して、(衆生の)生死の苦しみを除いて菩提(仏智見)に至らしめん。大悲そのものの宇宙生命・毘盧遮那仏に帰命して押し頂きます。
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廻向(えこう)とは廻らし回すことである。わが受けるべき善果報を人さまにお譲りし、代わって人さまがいま受けている悪果報を引き受けることである。これで衆生を利益することができる。このために仏道の修行にいそしむという誓いを立てているのだ。毘盧遮那仏(大日如来)の前で帰命して押し頂くのはただただこのためである。わたしの幸福追求の手段として仏道修行をしているのではないのである。善業(善果報)を受けるのは甚だ難しいのだ。しかし他者に廻向するためにはどうしてもわが善業(仏道修行)が必要になってくるのだ。
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わたしの欲心をできるだけ減らして行く。それがそのまま仏道の修行になるのである。廻向方便(他者に利益を向ける手立て)は、わたしを棄てたその重さを毘盧遮那仏にお預けすることでもある。
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さぶろうは、今日この経典に巡り会った。上記のように理解をこころみたけれども、怠け者のさぶろうにはとても実践ができないと思った。やんぬるかな、引き当てる善果報すら覚束ないと思った。そういう結論を引き出すための胎蔵界廻向方便ではなかったはずなのだが。
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浄土系の考え方はこれとは異なっているようだ。自力の修行を棄てているのだ。廻向ができるのは阿弥陀如来だけだとしている。だから他力を頼む以外にはないのである。それはそうかもしれない。罪業深い者は一生二生を費やしても善果報までには行き着くまいから、そこで絶対他力の信仰が生まれてくるのであろう。
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