「ああ、嬉しい」「ああ、嬉しい」を、沢蟹の口の形を作ってふつふつほつほつ呟いている。嬉しくなることをどんどんイメージしているのは、嬉しいことなのだ。水の上のようなところ、実際は空の上を、山桃の粒がころんころん流れて行く。熟したサクランボウもゆらんゆらん流れて行く。どれもどれも、沢蟹の口の形をして「ああ、嬉しい」「ああ、嬉しい」を呟いている。
定(じょう)とは坐禅三昧なり。外一切善悪の境界に向って心念起こらざる、これを名づけて坐となし、内自性(じしょう)を見て動ぜざる、これを名づけて禅となす。三昧とは正念相続なり。行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静安然として、専一に己事(こじ)を究明するは、坐禅の要諦にして、宗門第一の行事なり。 禅宗「宗門安心章」より
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定(じょう)というのは、それは坐禅に打ち込んでいる状態を指している。わが外に吹き起こる二者対立の嵐にこころ奪われずにいれば、それが坐の姿勢となるし、わが内に静(しず)もる仏性に安んじているあり方が禅の風狂である。三昧とはこころが正念に落ち着いて散漫にならないことだ。立っても禅、座っても禅は相続できる。語るもよし黙するもよし、行動するもよしせざるもよし。一々に動揺せず、惑わされず、己の究むべき一事(仏道修行)に徹底している、これが禅宗門の要諦である。 (俗人さぶろうの通俗的解釈)
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さぶろうは、今日はこの仏典のところに来てよいしょと腰を下ろした。
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そうだった。他は他であった。己は己である。他を羨むことはない。他を嫉妬することはない。他を比較して己を立てることでもなく、己を蔑むことでもない。
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己事を究明してひたすら仏と体面をしていればいいのだった。己の眼をして仏智見を開かせようとする仏に、目をそらさず、向かい合っていればいいのだった。すでにその仏性をわが自性としているのが己であった。
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禅は寂静の義である。般涅槃(はつねはん)の義である。あちらこちらへ出向いていかず、きりきり舞いをせず、すばやくわが内の仏性を見て、頂いているこの宇宙大の安心に座し切っていることであった。
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さぶろうは、今日は、仏陀とふたりでいる。ふたりにしてくれたのでふたりでいる。夏の日が照ってここは明るい。
さぶろうは全身の毛が抜け落ちる奇病をしている。全身脱毛症と勝手に銘打っている。頭頂から足裏までつるりつるりとしている。で、ETや火星人になった気分で居る。だから、まんざらでもない。散髪屋に行く金が省ける。朝の髭剃りの暇が省ける。光り輝く頭部は天然の高僧ぶりを発揮している。
眉毛も睫もない。むろん陰毛もない。臑毛もない。湯船に遊ぶときに、そこをたまたま陰毛の生えかけたくらいの幼い少年に見付かってしまって、ほほうという驚きの表情をされたことがあった。大人の無毛が信じられなかったのだろう。白髪の高齢者もあそこはふさふさとした黒髪である。
体毛はおよそ自己防衛の手段として役立っているが、さぶろうの場合は、もはや防衛するべきものがなくなったということなのかもしれない。危害を加えてくるものがなくなったと考えられないこともない。森の動物の進化の場合、文明化すればそれだけ体毛は薄くなる傾向があるのではないか。だったら、さぶろうは文明化の頂点に居ることにもなる。
いずれ、しかし、これから死ぬばかりの運命だから、体毛が生えていてもいなくてもさほどそれが問題とされることでもないのである。気に病まないでおく。これでいいだろう。見た目の形もとる行動も、人と同じようにしていなければ不安を感じるものなのだが、そこはそれ、おのれは特別特殊で、異彩や異才を放っているとしておこう。
今日は金曜日。読者の文芸の新聞発表の日だ。ふふふ。読者文芸に投稿した短歌のわが作品は今週も落選だった。詩分野の作品も落選。落選は何週も続いている。喉にもれるふふふは自嘲になるしかない。そうか、わが考えること、わが書くことはそれほどに的外れなのか。いやいや、ぴたりと的を射貫いた人がたくさんいたからだ。そういうふうに解釈をして、我が輩もまたぞろ立ち上がるとしよう。
具は皮を剥いた茄子、輪切りにしたオクラ、千切りの青紫蘇、ざくざくにした油揚げ。今朝はこの味噌汁がおいしかった。かたや、精の牛蒡の匂いのまじる鶏ご飯は薄醤油仕立てで淡くほんのりとしていた。汁を吸い飯を頬張るおりおりに、箸でつまんで茄子と胡瓜の酒粕漬けの漬け物をカリカリ噛んだ。わが朝食はかくの通りだった。自足した。暮らしの現実に足りないところがいかほどあろうと、ものをおいしく食んで呑み込めるのだ。朝の時間がこれですっかり足りた。おのれは足りている人間だと思った。
台風一過。畑は寝乱れた黒髪のよう。もにょもにゅもにゃらだ。胡瓜の棚が薙ぎ倒れ、トマトが薙ぎ倒され、ナスが這いつくばっている。南瓜の蔓、マメの蔓、冬瓜の蔓は化粧を落とした遊女のよう。ものどもらはみな一様に朝空へ口を開けて吐息をついている。まさに台風さまのお通りだった。大威張りもここまで増長したら文句はあるまい。これから、踏みにじられたものの自己回復が始まることになる。負けるものか、倒されたままでいるものか。夏に生きる大地の生命の類いはいずれ劣らぬ強者(つわもの)ども。災難の災を撥ね除け、難を撥ね除け、じわりじわり復調を謀ろうとしている。これもドラマだ。倒されたユリ園のユリを助けて起こしにかかる。