雨が降ったり止んだりしている。ちょっと外へ出たら濡れてしまった。草の伸び方が尋常ではない。草は元気だ。もりもり逞しい。草の元気を人間が食べたらきっと同じくらい元気になれるはずだ。だが、草を食べる風習はあまりない。これを開発したら一儲けできるかもしれないぞ。農作業の手間も省ける。草は何処にでも生えている。原料費がゼロだ。世の発明家よ、草の元気抽出吸収法の発明を急げ! きっと方法があるはずだ。
お昼は自分で台所に立ち、地元の素麺を茹でて、一人するすると啜って終わった。つけ麺の鰹出汁タレには、青紫蘇を細かく刻み込んで加えた。胡麻好きなので煎り胡麻の擂り胡麻を大きなスプーン2杯分使った。もちろん練りワサビもたっぷり。最後に梅干しを半切嘗めてみた。わが食事はこの通り実にシンプルだった。
使った食器とパンを洗って、布巾で水を拭き上げて、戸棚に戻して、最後にテーブルを拭き上げる。こんな暮らしだ。ドラマもない。ドラマもない変わりに平穏無事だ。無事はなんのことはない。色がない。彩りがない。誰に会うでもない。誰かが会いに来るわけでもない。家族の者以外に人の顔を見ないで過ごしている。
外はぱらぱらと雨の音がし出した。降り出してきたようだ。これじゃ、外に出て農作業もできない。サイクリングにも行けそうにない。鉢植えの朝顔の細い蔓が、宙へ伸びてきて網戸に捕まろうとしている。ゆうらりゆらりしている。
人間、長く長く生きていますが、何年生き延びたところで、大概するにおのれ一人の満足に終始しています。おのれ一人のために己を走らせています。
おれが偉くなった、おれが働いて財をなした、おれが勝利した、おれが尊敬を勝ち得た、おれが幸福になった、おれが人を服従させた、おれが家族を養った、といったところを伝い歩きして安心を得ています。
しかしながら、なかなか思い通りには行かないので、わたしの肉体もわたしのこころもこれに駆使されて疲弊して終わります。わたしの人生はつまりは一人乗り用だったのです。自己愛、エゴの塊が辿って行く道です。
なんだ、たったそれだけのために生涯、あたら大切な身心を酷使していたのかと思うと己の小心ぶりが際立ってきて寒くなります。そうでない生き方はないのかと溜息になります。
いやいやこれはさぶろうの場合です。そうでない生き方をされている方も沢山おられます。己といういのちの船を一人乗りから二人乗り、三人乗り、百人乗り、千人乗りへと拡大して進まれた方もおられるはずです。
マザーテレサの生き方にはそれを感じます。実践とことばにそれを感じます。
「第五発菩提心方便」
浄菩提心勝願宝(せいほーていしん しーがんほー)我今起発済群生(がーきんきーほっ せいきんせい)生苦等集所纏身(せいこーとーしゅう そーてんしん)及与無知所害身(きゅうよーぶち そーかいしん)救摂帰依令解脱(きゅうしょうきーいー れいかーたつ)常当利益諸含識(しょうとうりーえき しょがんしき)帰命頂礼大悲毘盧遮那仏(きーべいていれい たいひー ひろしゃだーふー) 真言宗「胎蔵界九方便」より
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「菩提心を起こすことが衆生救済の方便となる」
清浄な菩提心を起こしたいというのは勝れた願いの宝である。この宝のような菩提心を、苦悩の人々を救い出さんがために、わたしもまたようやくにしていま此処で起こします。わたしは発奮して、生老病死の苦悩の集まりによってがんじがらめに拘束されている人や、無知無明によって被害のただ中に沈んでいる人を救出します。誰もが、宇宙中に輝き渡る毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)に帰依をすれば必ず解脱に向かいます。いついかなるときにも衆生を利益せんがための大悲を具えられた毘盧遮那如来に、ああ、わたしはこころからの帰依を致します。
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含識:がんしき。ごんしきとも言う。意識(こころの働き)を持つ者の謂。衆生、有情に同じ。諸々の含識だから、人間だけではなく生きとし生けるもののすべてを指している。
毘盧遮那仏:梵語バイローチャナ。輝き渡るものの意。光明遍照と訳する。盧遮那仏(るしゃなぶつ)とも。法身仏である。華厳経の教主だが、密教では大日如来(マハーバイローチャナ)に同じ。宇宙そのものを法身の仏としている点で極めて汎神論的である。
解脱:拘束された周回軌道から解き放たれること。自由自在な活動ができるようになること。われわれは無知無明の捕虜になっている囚人のようなものであるが、仏智見に遭えばここを超えることができる。開眼とも悟りとも言う。
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自力と他力という考え方があります。さぶろうは、あまりこの二つの国の境界はないようにも思っています。どちらも行く着くところはやはり仏陀の大悲に帰命するからです。大悲に帰命しようとするこころが菩提心です。浄土系の考え方ではここも仏陀(阿弥陀仏)によってそうせめられる、菩提心をおこさしめられる、というように受け取っています。徹底した自力の排除になっています。そうでなければ無力の者、苦悩に沈む者は菩提心には行き着けないからです。仏の救済を頼むしか方法は残されていないという見解です。
しかしここ(第五菩提心方便)ではまあ凄まじいほどの発菩提心のエネルギーを感じます。力みを感じます。エンジン全開という感じがします。これだけのパワーが籠もれば不安や恐怖心などは吹っ飛んでいってしまいそうです。この世を生きるもののすべての苦悩を解脱に向かわせようというのですから、これだけの途方もないパワーを籠もらせていなければなりますまい。我が身の苦悩などに縛られてなどいられなくなるはずです。菩提心は利益衆生心です。
畢竟するに、仏でなければ利益衆生の活動実践はできますまい。しかし、仏陀に帰依する者は、仏陀に帰依する多くの同朋を利益(りやく)したいと願うはずです。ここはその表明文です。宣言文です。こうやって自分を奮い立たせています。自分のこの場の役割を言い聞かせています。これが活動への足踏みになります。お釈迦様のお弟子衆がインドの方々へ散らばって行ってそこで布教活動をされますが、こういうときにこの宣言を自らに言い聞かせておられたに違いありません。
家族の者は起きてこない。もうすぐ8時になるというのに。しょうがないな。ここは怠け者一家だ。おれはしかし腹ぺこだ。早く目が覚めた者が台所へ行って朝の味噌汁でも作るとするか。具は若芽と麩にしよう。
わたしがここでこうやって形を保っているのはもうあとしばらくのことでございます。形があったためにわたしはさまざまな体験をさせていただくことができました。体験から何を学び取ったのかあやしいものでございますが、これでよかったのであります。わたしの進化の速度にぴったり合っていたのでございますから。
ここで何をしたかは一切不問にされています。多い少ない高い低い巧い下手華々しい華々しくない偉い偉くない、この天秤もありません。あるように見えていたのにありません。
わたしがここでこうやって形を保っているのはもうあとしばらくのことでございます。形を失うときが来ています。それでも大丈夫です。形を失うのは、形を失っていいだけの次のステージに進むからでございます。
蝉が抜け殻を森の松の木の表皮に置いていきました。これでよかったのでございます。抜け殻とともに過去の一切の時間が抜け落ちて、どんな経過もどんな評価も抜け落ちて、それで透けて乾いて軽々としています。
無碍光仏の光には無数の阿弥陀ましまして化仏おのおのことごとく真実信心を守るなり 親鸞聖人の「現世利益和讃」より
化仏(けぶつ)とは仏の変化身である。化身仏である。形を取らないでいいところを敢えて形を取って現れて来る仏である。だから方便の仮の姿である。なぜ偉大なる仏陀がそんなことまでなさろうというのか。ひとえにさぶろうの信心が真実であるように導き守るためである。どうやって現れ出てこられるか。光になって現れ出てこられるのだ。数限りない阿弥陀仏がきらきらきらきら跳ね回って、一切無碍であることをお示しになるのだ。そうであるのに、肝心のさぶろうは、ここでどうしているか。そこまで導き守られているさぶろうである。正しくしっかりとこれを受け止めねばならないところだが、彼はのほほんとしたままだ。
朝の光は阿弥陀さまでございました/光が阿弥陀さまであることがどうしてわかるか/はい、光も阿弥陀さまも無碍だからであります/でありますから/さぶろうもまた無碍になっていればそれですむのでございます/一切無頓着の無拘束/無拘束の無執着/それでいて自由自在のはたらきをするのが/光の阿弥陀さまでありました/さぶろうが目にしているのは/朝のトマトでありました/真っ赤に熟してきらきら輝いている化仏でありました/
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無数の化仏になって散らばってまでさぶろうを導き守ろうとする阿弥陀さまであったのか。そうであるのに、さぶろうはこの世をさまよってばかりであった。思いのままにならぬことがあると恨んでばかりで過ごしていた。寄せ来る無常をおろおろと恐怖するばかりであった。そうでなかったことが知れると途端に全身がほかほかしてくる。
あなたさまのご自由に供するためにわたしは朝となってあなたのところへ尋ねてきています。わたしをいかようにもお役立てくださいまし。朝の空気に響き渡る凜とした声がしている。さぶろうは障子戸を開いて外を覗う。耳と目の栓を開栓する。朝の空がこれを聞いて、「朝の言う通り、その通りです、ではそうなさいまし。この一日思い切りよく用立てをなさいまし」と首を振ってみせる。さぶろうの自由に供すると言ってやってきた朝はまるで仏陀のようだ。
では何をするか。ここが問われてくる。何をしてもいいというが、何をすればその自由が満足させられるのだろう。自由とは自らに由るということだ。己次第だということだ。一日を操縦するのは己だということだ。乗り心地が爽やかになるのもなれないのも己の力量である。己の腕前である。己の信じるところを行けばいいのだ。がんじがらめにされている己であればまずはその執着から解放させてあげよう。絶対無我になって、空になってものごとを見てみよう。
深呼吸をする。朝の空気が臓腑に染み渡っていく。ああ、おいしい。かなうことなら、我はこの憂き世を離れ、こころの白鳥になって、今日は一日あのヒマラヤ雪山の上空を悠々然と飛び回っていたい。上昇気流に乗って大きな翼を広げ、雲の峰雲の峰を越えて越えて行きたい。
おはようございます。夜明けになりましたが、まだ少し薄暗くしています。蝉がつんざくほどに鳴いています。無風です。ひんやりしています。カラスが畑の上空を低く旋回しながら今朝方に熟れた真っ赤なトマトを探しています。
今日からお習字の稽古が再開します。午前中にあります。先生のご都合でこのところ休みが続いていました。
昨日たまたまテレビで詩吟を聴きました。朗々とした歌声でした。漢詩の世界が広がってきました。ああ、いいなと思いました。ああやって山中に分け入って奇巌の上に立ち、風の音に混じってひとり蕭然と大声を出して吟詠すればせいせいするだろうなとも思いました。