早い話、人と組めないからである。さぶろうが仏陀に近づこうとするのは、人と組むという努力を起こさないからである。こんなのは信心にはならない。信仰にもならない。ただの逃亡難民にすぎない。
人である間は人と組むべきである。スクラムを組むべきである。こうして死闘のラグビーをするべきである。ではどうしてその努力を破棄してしまったのか。けっして正統な理由にはならないけれども、理由の一つは、障害者となったからである。人前に出たいという気持ちが喪失したからである。
人前に出る。そうすると何度かバランスを崩して無様な顛倒を起こしたからである。障碍のある足は、自制がきかなくなる。立ち上がったところでよろよろする。無様な上に、憐憫を買ってしまう。
障碍は錬磨の砥石であって、けっしてマイナス効果だけを生み出すのではない。立ち上がるジャンプ台でもあるのだ。だからこれを理由に挙げてはならない。ここをもって輝きを増してきたという成功者も実在するのだ。
人と組むことがなかったわけではない。でも、相手に迷惑をかけていることが身に滲みるのだ。自分が引きさえすればいいのだなという結論に達する。わけなく達するのだ。しばらくは我慢をするけれども、そうすると相手にその分の親切を強いてしまう。そこで我慢の何倍も相手の善意にお礼を述べなくてはならなくなる。これに疲れてしまう。
でも、進むべき道は人と組むことであると思う。組まない道ではない。
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