<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

マザー・テレサの日々の言葉と実践

2015年07月30日 11時20分30秒 | Weblog

すべての宗教は永遠なるもの、つまりもうひとつの命を信じています。この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人は死を恐れます。もしも、死は神の家に帰ることだと正しく説明されれば、死を恐れることはなくなるのです。     マザー・テレサ「日々のことば」より

マザー・テレサのことばには力が籠もっています。この力を感じます。日本語になってもこれは変わりません。やはり力が籠もっています。力はことばを離れて読む人に伝わってきます。すると読む人にこの力が籠もります。ふしぎです。

キリスト教であっても仏教であっても、宗教の違いによってわたしたちの永遠の命が変容することはありません。終わりだと信じていても、死を恐れていても、やはり永遠の命を生きています。ふるさとの家に戻って行きます。途中で廃棄されることはありません。なぜなら、わたしたちは大いなるものの命をわが命として生きているからです。わが命は大いなるものの永遠の命そのものだからです。

大いなる命の中だけにいてはわたしたちはそれが永遠の命であることを感じることが難しいのです。大いなる命の外に立って、その命を見て、考えて、行動して、生活をして、信に至り着いて、そこではじめて大いなる命を受容感得できて、輝きだしてくるのです。そうすればやっと始めから終わりまでを永遠の命と共に過ごして来たことが納得されてくるのです。

さぶろうは今日はそんなことを考えていました。さぶろうはマザー・テレサを敬います。インドの貧しい人たちのうちでももっとも貧しい人たちにキリストの愛のともしびを分けていった彼女の行動の、火のような熱さにこころを打たれます。

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姐やとわたしと赤とんぼ

2015年07月30日 10時45分17秒 | Weblog

庭先にもう赤とんぼが飛び交っています。夕焼け小焼けはしていませんが、童謡唱歌を連想しました。

童謡唱歌「赤とんぼ」  三木露風作詞 山田耕筰作曲

1 夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か

2 山の畑の桑の実を小篭に摘んだはまぼろしか

3 十五で姐やは嫁に行きお里のたよりも絶えはてた

4 夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先

赤とんぼの童謡唱歌にはドラマがあるようです。おんぶされているのがわたしです。わたしをおんぶしているのは姐やです。夕焼けがしています。赤とんぼが飛んでいます。姐やの背中におんぶされながらわたしはその風景を見ています。子守りをしてくれた姐やといっしょに桑の実を摘みに山の畑に行ったこともぼんやり記憶に残されていますがはっきりとはしていません。その後姐やはわずか十五で嫁にもらわれてそれっきり。嫁入り先の里からの便りも途絶えてしまっています。わたしはそれからひとりになりました。ひとりで川へ魚を釣りに来ています。やっぱり空は夕焼けをしています。赤とんぼが竿の先に止まっています。赤とんぼを見るたびに、しきりにしきりにやさしかったあの姐やのことが思われてなりません。

おんぶされていたのですから、わたしは3~4才。それ以上でも小学校に上がる前くらいでしょう。姐やは子守りをしてくれた、年の離れた実の姉なのかもしれません。

人に優しくされたという思い出はいつまでも人のこころをあたためてくれるようです。とりわけ、やさしい女の人にやさしくされたということが。さぶろうにだって、幼い頃のそんな甘い思い出があるようです。

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疲労が溜まる

2015年07月30日 10時33分43秒 | Weblog

昨日、夕方、よいしょと重たい腰をあげて、サイクリングに出掛けました。いつものコースを辿りました。茅の穂がもっと白さを増していました。自転車の後輪が、どうしたことか、こすれてギイギイシュウシュウ音を立てました。でもペダルを漕ぎ続けました。

その前日はちっともきついという感覚がありませんでしたが、昨日はちょっと違いました。からだとこころに張りがありませんでした。ですから、前日よりも手前のところでUターンをしました。スピードもつきません。でも汗の量だけは多いのです。

神埼橋のところの空き地に警察の車が止まって赤いサインがぐるぐる回っていました。そのかたわらには2台の乗用車が寄せられていました。ぶつかったようです。怪我人はみあたりません。ほっとしました。この日の運動時間は70分でした。

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これを受け取ったらにっこりできます

2015年07月30日 09時55分29秒 | Weblog

おはようございます。日が射してきました。暑くなりそうです。これで幾分かは土の湿りっけがとれるでしょう。ようやく梅雨明けなのかなあ。油蝉の鳴き声が響いています。

さぶろうのブログ「おでいげにおいでおいで」の昨日一日の閲覧数が1013の数字を記録していました。1000を超えたのは初めてです。読んでくださったみなさんに感謝します。有り難うございました。

お礼になにかプレゼントが差し上げられたらいいのですが。もらったら嬉しいというプレゼントが。そんなものがさぶろうの手元には、でも、残念ながらありません。

同じ意味合いのことばにギフトというのがあります。プレゼントは人から人へですが、これは天から人へのニュアンスがあるそうです。

天からですから無制限です。そして無条件です。これを受け取るのも同じように嬉しいに違いありません。

どれだけの種類をどれだけたくさん受け取っても構いません。受信装置さえ有れば誰でも受信できます。受け取ったことはどうして分かるか。はい、これを受け取ったらにっこりできるのです。

形があって目に見えるもの、形がなくて目にも見えないもの。ギフトはさまざまです。

 

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