往生に二つあると言われている。極楽浄土へ往(い)って生まれるという往生。これは「体失往生」。往生するのは肉身ではない。体は死んでいて失われているので、往生するのは仏性という霊的意識である。もう一つが「不体失往生」。死なない前、つまり肉体を持っている間に往生を果たしておく。よくよく生かされてから往生をするのだ。ここ煩悩穢土の錬磨器によって磨かれ火を噴きながら、輝きを増して往く。
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生きている内の往生と死んでからの往生。これは切断されているのではなくて、ワンセットなのかもしれない。
死んで極楽往生するために今現在を生きているのか、それとも今を極楽往生するために死んで行くのか。
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死後の往生が決定している人のことを無生法忍、あるいは無生忍と言う。消滅を超えた絶対不変の真理を悟ってここに安住していることだ。この道を歩み出せば一本道なのである。死生を分かたない。往生決定(けつじょう)をすれば後は不退転なのである。この位を阿弥陀経にはアビバッチとしてある。
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どうやって往生決定をするか。決定(けつじょう)させてくださるのは阿弥陀仏である。自力がすることではない。決定したとこちらが受け止めたら、そこで往生が摂取されて往生終了をするのである。これが信心の信である。
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だから、往生は二つに分けられるものではない。われわれは誰もがよりよい処へ進んでいるのである。さらによい処へ、さらにさらによい処へ極楽往生中である。この一本の道しかない。ほかにはない。ほかの道はない。さぶろうはそう思っている。