平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

4:19-24(ヨハネの福音書注解)読者に向けられた「今がその時です」

2017-11-14 11:43:12 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:19-24 読者に向けられた「今がその時です」

19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:19-24)


 ヨハネの福音書が書かれたのは紀元1世紀の末頃であると考えられるので、21節でイエスが「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」と言ったことの背景には、紀元70年にローマ軍の攻撃によってエルサレムの神殿が焼失した史実があるだろう。神殿があった時には、ペテロやパウロ、ヨハネたちユダヤ人のクリスチャンも神殿での礼拝を続けていたが、神殿が失われた後はそれができなくなった。
 しかし神は霊であるので、建物の有無は関係ない。建物が有っても無くても礼拝とは霊とまことによってするものであるとイエスは教えている。
 「今がその時」とは、形式上は女に言っているが、これは読者に向けたメッセージであると言えよう。今、「イエスは神の子キリスト」と信じるなら聖霊を受けて、霊とまことによる礼拝が可能になる。一方、イエスを信じない者は聖霊を受けないので霊とまことによる礼拝を行うことはできない。この読者にはもちろん、21世紀の現代の私たちも含まれる。
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コリントの教会の仲間割れ(2017.11.12 礼拝)

2017-11-14 07:19:38 | 礼拝メッセージ
2017年11月12日礼拝メッセージ
『コリントの教会の仲間割れ』
【使徒18:23~28、Ⅰコリント1:10~13】

はじめに
 先週の使徒の働きの学びでは、パウロたちが第二次伝道旅行を終えて、しばらくしてまた第三次旅行に出発したことを話しました。そして、この第三次伝道旅行でパウロは出発点のアンテオケに戻ることはなかったことを話しました。パウロはエルサレムでユダヤ人たちに捕らえられてしまったからです。パウロはまるで捕らえられるためにエルサレムに向かって行ったかのようでした。そのパウロの姿はイエスさまが捕らえられるためにエルサレムに向かって行ったことと重なります。以上のことは予告編的な話ですので、今話したパウロが捕らえられた箇所についてはいずれまたご一緒に見ることにしたいと思います。

コリントに行ったアポロ
 きょうは改めて第三次伝道旅行の始めから見て行きたいと思います。18章の23節からです。

18:23 そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。

 パウロはアンテオケにしばらくいてからまた出発して、まずガラテヤ地方に行きました。さて、24節からは、いったんアポロというユダヤ人の話になります。彼はエペソに来ました。24節、

18:24 さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

 アレキサンドリヤというのはエジプトにある町で、ここにおいてもキリスト教が広まったことが知られています。この町の出身のアポロは聖書に通じていました。25節、

18:25 この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

 アポロはイエスさまのことを正確に語ったそうです。ただ、バプテスマのヨハネのバプテスマしか知らなかったそうです。つまり、アポロは聖霊についてはほとんど知らなかったようです。続いて26節、

18:26 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

 この時、プリスキラとアクラはエペソにいました。第二次伝道旅行を終えるためにパウロがコリントの町を船で出帆した時に、この夫妻も同行して彼らはエペソで船を降りていたのでした。プリスキラとアクラの夫妻はコリントの町で一年半もの間、パウロと同じ場所で生活していましたから、神の道のことをよく知っていました。それでアポロにもっと正確に説明しました。そして27節、

18:27 そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

 アカヤの首都はコリントですから、このアカヤというのはコリントのことでしょう。アポロはコリントに行き、そこですでに信者になっていた人たちを大いに助けました。そして28節、

18:28 彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。

 こうしてパウロが教会を開拓したコリントの町で、アポロの宣教の働きは大いに用いられました。ですから、これでメデタシ、メデタシ、かのように見えます。

仲間割れしたコリントの教会
 しかし、使徒の働きでは明らかにされていませんが、パウロの手紙によれば、この後コリントの教会ではあまり芳しくないことが起きていたようです。そのことが、コリント人への手紙第一の最初のほうで明らかにされます。
 では、第一コリントの1章を見ましょう(p.317)。ここは10節から13節までを交代で読みましょう。

1:10 さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。
1:11 実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、
1:12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
1:13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。

 10節でパウロは、「みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください」と書いています。どういうことかと言うと、12節にあるように、コリントの教会はパウロ派やアポロ派に分派してしまっていたようです。
 コリントの教会には、極めて人間的な問題が起きていました。この問題は3章にも書かれています。3章の4節から7節までを、交代で読みましょう。

3:4 ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
3:5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

 6節でパウロは「私が植えて、アポロが水を注ぎました」と書いています。コリントの町はパウロが開拓して、その後、アポロがコリントの町を訪れたということを、最初の方で話しました。このことで教会にはパウロ派とアポロ派ができて仲間割れをしてしまったわけですが、7節でパウロは「たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」と書いています。

信仰が幼かったコリント人たち
 本当にその通りだと思います。このコリントの町の人々の信仰は、まだまだ幼いものでした。今度は3章の1節から3節までを見ます。まず1節、

3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

 ここから、キリスト教の信仰がどのようなものかがわかります。人はイエス・キリストを信じると新しく生まれてクリスチャンになりますが、その信仰は最初のうちは赤ちゃんのようなものです。御霊に属する人になって初めて大人になります。2節、

3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

 コリント人の信仰は、まだ離乳食が無理な幼子の段階でした。3節、

3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

 コリントの人々は仲間割れをしていましたから、まだ肉に属していました。では、御霊に属する人とはどのような人なのでしょうか。それは3章の前の2章に書かれていますが、この第一コリントの2章よりもガラテヤの5章のほうが分かりやすいと思いますから、同じパウロが書いたガラテヤ人への手紙の5章のほうを見ることにしましょう(p.370)。

御霊に導かれて進もう
 ガラテヤ5章16節と17節を読みます。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

 ガラテヤ人が抱えていた問題とコリント人が抱えていた問題は異なりますが、どのような場合であっても御霊によって歩むなら、御霊がより良い方向へと導いて下さいます。18節、

5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 ここでパウロはガラテヤ人たちが抱えていた問題に触れています。少し復習すると、異邦人のガラテヤ人たちは、割礼派のユダヤ人たちに惑わされていたのでしたね。割礼派のユダヤ人たちは、異邦人はたとえイエス・キリストを信じてもユダヤ人と同じようにモーセお律法を守って割礼を受けなければ救われないと主張していました。それでパウロは、割礼派に惑わされていたガラテヤ人たちを手紙で叱りました。人はイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであり、律法の行いによって救われるのではありません。イエス・キリストを信じれば聖霊を受けますから、御霊によって歩めばよいのですね。御霊によって歩めば、御霊がきよめて下さって肉の行いからも離れることができます。
 続いて19節から21節、

5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 この肉の行いのリストの中にはコリントの教会の人々が抱えていた問題もあります。御霊に属していないと、このような問題を抱えることになります。続く22節から25節までは交代で読みましょう。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

おわりに
 ガラテヤの教会であっても、コリントの教会であっても、そして現代の21世紀のキリスト教会であっても、私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて進むべきです。
 私たちの前途には様々な困難がありますが、御霊に導かれて進みなら、御霊が正しい方向へと導いて下さいます。御霊に導かれて、進もうではありませんか。
 お祈りいたしましょう。
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4:16-18(ヨハネの福音書注解)魂に自由と平安を与える「永遠」の時間構造

2017-11-08 08:56:38 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:16-18 魂に自由と平安を与える「永遠」の時間構造

16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」(ヨハネ4:16-18)

 本注解は単にヨハネの福音書の独特の時間構造を読者に知っていただくために連載しているのではない。真の目的はその先にあり、この独特の時間構造の中で魂の自由を獲得していただきたいと願っている。魂が自由を獲得するなら平安も得られて心に余裕が生まれる。すると、人を赦す寛容な心を持つこともまたできるだろう。そのような人が増えるなら、世界は平和に向かうだろう。
 イエスがサマリヤの女に「あなたには夫が五人あった」と言ったこの箇所は、ヨハネの独特の時間構造を示す典型のような場所だ。ヨハネ4:7でイエスが女に水を所望した箇所の注解にも書いたように、この時のイエスは北王国の預言者エリヤの中にいて、やもめに「水を持って来て、私に飲ませてください」(Ⅰ列王17:10)と頼んだ。やもめは北王国6代目のアハブ王の時代の女だから、5人の夫がいた女とは北王国の歴代の不信仰な王たちの治世下で生きてきた不幸な国民たちのことだ。女はやもめなので今のアハブ王は夫ではない。アハブはそれ以前のヤロブアム、ナダブ、バシャ、エラ、オムリの5人の王たちよりもさらに不信仰な王であったから、国民は不幸であった。なお、ジムリは北王国の民が彼を王として認めなかったので(Ⅰ列王16:16)、含まれていない。
 ヤロブアムの在位は紀元前933~911年で、オムリ王の在位は紀元前886~875年ということであるから、ヤロブアム王からオムリ王までの58年間が、サマリヤの女が5人の夫と過ごした期間だ。58年はたまたま人の一生分の範囲に納まる期間だが、これが200年や300年であったとしても「永遠」の中にいるイエスを描くヨハネの福音書にとってはあまり関係ない。私たちがこの自由な時間感覚を共有する時、私たちは魂の自由を得ることができるであろう。
 イエスがサマリヤの女に「あなたには夫が五人あった」と言った時、貧しくて小さな家庭の乱れた様子を思い浮かべるのでなく、ソロモンの王国が南北に分裂してからアハブ王に至るまでのイスラエルの王国の壮大な歴史に思いを馳せることができるなら、魂は自由を獲得して心の平安を得ることができるだろう。
 ルカの福音書に登場するマルタとマリヤの姉妹(ルカ10:38~42)に例えるなら、姉のマルタは現実に縛られながら生きているので「サマリヤの女の五人の夫」を実際の夫として思い浮かべるだろう。一方、妹のマリヤは現実を離れてイエスのみもとで思いを巡らしていたので、「サマリヤの女の五人の夫」を北王国の歴代の王たちとして思い浮かべることができるだろう。イエスは現実の時間に縛られている姉のマルタに、魂の自由を獲得して心の平安を得てほしいと願っていたのだろうと強く感じる。
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4:9-15(ヨハネの福音書注解)時間に縛られないヨハネの福音書

2017-11-06 22:37:05 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:9-15 時間に縛られないヨハネの福音書

9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである── 10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(ヨハネ4:9-15)

 この箇所でイエスは「旧約の時代」の預言者エリヤの内にいて、やもめと話をしている(前節の説明参照)。しかし話している内容は「使徒の時代」のことで、イエスを信じる者には聖霊が注がれることについてである。「わたしが与える水」(14節)とは聖霊のことだ。永遠の中にいるイエスは「過去→現在→未来」の時間には全く縛られてはいないため、複数の時代にも同時に存在できるのだ。
 読者はこの永遠の自由な時間感覚に当初はなかなか慣れないかもしれないが、いったん慣れてしまえば、時間の束縛から解放された極めて自由な感覚を味わうことができるであろう。
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第二次から第三次伝道旅行へ

2017-11-06 19:45:37 | 礼拝メッセージ
2017年11月5日礼拝メッセージ
『第二次から第三次伝道旅行へ』
【使徒18:18~23】

はじめに
 先週は召天者記念礼拝で旧約聖書の申命記を開きましたから、使徒の働きの学びは休みました。今週はまた使徒の働きに戻ります。今は18章を学んでいるところです。12月のアドベントに入ったら多分、福音書を開くことになると思います。そうすると年内には使徒の働きは終わらないことになります。使徒の働きの学びを始めたのは昨年の6月26日からでしたから、随分と長い学びになっていますが、一つの書をこれだけじっくり学べるのも感謝なことだと思います。

第二次伝道旅行を終えたパウロ

 さて、先々週の学びでは、18章の9節で主が幻の中でパウロに「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない」と語り掛けた箇所を見ました。そうして、パウロはコリントの町に1年半腰を据えて、神のことばを教え続けました。この1年半の間には、12節にあるようにパウロがユダヤ人たちに法廷に引かれて行くということもありましたが、10節で主が言われたように、パウロ自身は危害を加えられるようなことはありませんでした。
 そうしてパウロは長い間コリントに滞在してから、第二次伝道旅行を終えることにしました。18節から見て行きます。18節と19節、

18:18 パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。
18:19 彼らがエペソに着くと、パウロはふたりをそこに残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じた。

 パウロたちはシリヤへ向けて出帆しました。当時の船は帆船でしょうから、文字通り出帆ですね。「シリヤへ向けて」と書いてあるのは出発点がシリヤのアンテオケ教会ですから、このように書いてあるのだと思います。この船にはプリスキラとアクラも同乗していました。彼らは途中、エペソに寄り、プリスキラとアクラはエペソに残ることになりました。エペソでパウロはいつものように会堂に入ってユダヤ人と論じました。
 そして20節、

18:20 人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、彼は聞き入れないで、
18:21 「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。

 そうしてパウロはエペソには少しいただけで、また船出しました。そして、直接アンテオケには戻らずにエルサレムに寄って行きました。22節です。

18:22 それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。

 ここまでが第二次伝道旅行です。ここで後ろの地図を見て、地理を確認しましょう。
 (地図を確認)

アンテオケに戻れなかった第三次伝道旅行
 そしてパウロはしばらくアンテオケにいましたが、使徒の働きの記述では間を置くことなく、すぐに第三次伝道旅行の記述が始まります。23節、

18:23 そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。

 この「彼はまた出発し」というのが第三次伝道旅行に出発したということです。
 さて、去年からのこの使徒の働きの学びでは、概ね1章から順番に記事を学んでいますが、時々は少し先回りをして、もう少し広い範囲を見渡すことをしています。その方がこの使徒の働きという書の全体像を把握しやすいと思うからです。
 それで、きょうの学びでも少し先回りをして、第三次伝道旅行の最後の方を見ることにしたいと思います。先ほど地図で見たように、この第三次伝道旅行ではパウロはアンテオケに戻ることはありませんでした。第一次と第二次ではパウロが伝道の拠点としていたアンテオケに戻りましたが、この第三次伝道旅行では戻ることができませんでした。それは、パウロがエルサレムで捕らえられてしまったからです。
 この使徒の働きのパウロの第三次伝道旅行を見ていると、パウロは捕らえられるためにわざわざエルサレムに向かって行ったような感じを受けます。それは、まるでイエスさまが捕らえられるためにエルサレムに向かって行ったのと似ています。きょう、これから、その捕らえられた場面を先回りして見ようと思います。これから何回か第三次伝道旅行の学びをする中で、この第三次の旅行の行く末にはパウロの拘束があるのだということを予め知っておき、パウロが何を思ってエルサレムへ向かって行ったのかということにも思いを巡らすことができたら良いなと思っています。

よく似ているルカの福音書と使徒の働き
 今回、このような読み方を礼拝のメッセージの中でもしてみたいと思ったのは、先週から始まったeラーニングの新しい講座のルカ文書の学びが、ルカの福音書と使徒の働きを並べて考えてみることになっているからです。まだ講座が始まったばかりで私も思い巡らしを始めたばかりですので十分に深まっていませんが、多くのことを学べるであろうと期待しています。講師の山崎先生によれば、ルカは何らかの意図を持ってルカの福音書と使徒の働きを似たような構造を持つ文書にしたのであろうということで、今回のeラーニングの学びでは、そのことも探られていくことと、思います。
 では、第三次伝道旅行のおしまいのほうを、見ることにしたいと思います。21章の7節から見て行きます。

21:7 私たちはツロからの航海を終えて、トレマイに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。

 7節の始めに「私たち」とありますから、ルカも一緒にいたことがわかります。彼らが着いたトレマイは、エルサレムの比較的近くです。第三次の旅行でパウロは第二次の時と同じようにギリシャのコリントの町にまで行っていましたが、エルサレムの近くにまで戻って来ていました。

21:8 翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家に入って、そこに滞在した。

 伝道者ピリポというのは、サマリヤ人に伝道したピリポですね。それからエチオピヤ人の宦官にイザヤ書53章のしもべがイエスさまのことであることを教えたのも、ピリポでした。この8節から、ルカはピリポと直接の面識があったことがわかりますから、使徒の働き8章のピリポのサマリヤ伝道については、ルカがピリポから直接聞いたのだろうということがわかります。続いて9節から11節、

21:9 この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。
21:10 幾日かそこに滞在していると、アガボという預言者がユダヤから下って来た。
21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される』と聖霊がお告げになっています」と言った。

 ここでアガボという預言者によって、パウロがエルサレムでユダヤ人に捕らえられることが預言されます。12節、

21:12 私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。

 ルカもこの場にいたのですね。ルカたちはパウロにエルサレムに上らないよう頼みました。すると13節、

21:13 するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。

 ここからパウロはすべて覚悟の上でエルサレムに上って行ったことがわかります。14節と15節、

21:14 彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに」と言って、黙ってしまった。
21:15 こうして数日たつと、私たちは旅仕度をして、エルサレムに上った。

 少し飛ばして30節だけを見ておきましょう。30節、

21:30 そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。
 
 このようにユダヤ人たちは乱暴な方法でパウロを捕らえました。これはイエスさまがエルサレムで捕らえられた時とよく似ていると思います。
 ルカはパウロの中にイエスさまを見ていたのかもしれません。ルカは十字架に付く前の人としてのイエスさまには会ったことがありません。しかし、パウロを通してイエスさまと出会ったとも言えるでしょう。パウロもまた十字架に付く前のイエスさまに会ったことはありませんでしたが、パウロに対してはダマスコ途上で復活したイエスさまが直接現われました。そして私の場合は、パウロが復活したイエスさまと出会ったことを信じたことで、イエスさまと出会うことができました。人とイエスさまとの出会いには様々なパターンがあるということも、使徒の働きを学ぶとわかります。

まだまだ知られていない聖書の面白さ
 講師の山崎先生によれば、ルカの福音書と使徒の働きとの間に並行関係があることは、ルカ文書を専門とする聖書学者の間では、よく知られていることだそうです。こんなに面白いことが、なぜもっと広く一般の牧師にも広まって、説教に活かされるようになっていないのか不思議な気持ちがします。聖書は本当に面白いと思います。このことがもっと伝われば、聖書に関心を持つ人々も増えていくことでしょう。ヨハネの福音書には三つの時代の重なりがあることも同様です。もっともっと広まっていく必要があると思います。
 どうしてルカの秘密、ヨハネの秘密が広まらないで来てしまったのか、過ぎてしまったことは仕方がありませんが、これからはもっともっと広まって行かなければならないと思います。
 これらのことも思いながら、これからパウロの第三次伝道旅行を学んで行きたいと思います。お祈りいたしましょう。
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お詫び

2017-11-06 09:00:14 | 折々のつぶやき
 ここ数日、ヨハネの福音書注解の更新が滞っています。聖会等の大きな行事があったことや、全力を傾注しなければならない作業に当たっていること等によります。この状態は来週の13日(月)まで続きます。この間、可能なら更新したく願っていますが、もしかしたら更新できないかもできません。必ず再開しますので、ご理解願えれば幸いです。よろしくお願いいたします。
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聖書の読み方も天動説から地動説へ(2017.11.1 祈り会)

2017-11-02 07:52:03 | 祈り会メッセージ
2017年11月1日祈り会メッセージ
『聖書の読み方も天動説から地動説へ』
【ヨハネ4:1~8】

はじめに
 きょうもまたヨハネの福音書について語ります。ヨハネに偏らないでバランス良く聖書全体から語るべきと忠告して下さる先生もいますが、ヨハネの福音書には旧約聖書と使徒の働きも含まれていますから、必ずしも偏ってはいないと思います。

天動説にとどまっている聖書の読み方
 私は世の多くの人々にヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とは全然違う書物であることをわかっていただけるまではヨハネを語ることをやめるつもりはありません。なぜならヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じように「人間イエス」が主役の書であると思い込んでいる間は、それは天動説を信じているようなものだと考えているからです。私たちは天動説から地動説へ移行しなければなりません。ヨハネの福音書の主役は「人間イエス」ではなくて、「旧約の時代」と「使徒の時代」にいる霊的な存在としてのイエス、すなわち「霊的イエス」です。このことを理解するなら聖書の読み方も天動説から地動説に移行することができます。
 天動説では私たちが住む大地(地球)は動かないで、天体のほうが動きます。太陽も大地(地球)の周りを回ります。確かに見た目はそうなっています。見た目がそうなんだから天動説でもぜんぜん構わないんじゃないの、という人もいるかもしれません。ヨハネの福音書も、見た目は「人間イエス」が主役のように見えますから、それで構わないんじゃないの、と思う人も多いかもしれません。しかし、もし天動説のままでとどまっていたならニュートン力学も誕生せず、それに基づいた機械工学や電気工学も存在しませんから、私たちの科学技術レベルは未だに500年前のままでした。
 大地(地球)は固定されているのではなく動いているとすることで、惑星の軌道を正確に説明できるようになり、天体の運動がニュートン力学の方程式によって説明できるようになりました。さらに天体だけでなく地上の物体の運動もニュートン力学によって説明できます。ここから流体力学や熱力学、電磁気学も発展して、そこから機械工学や電気工学が発展しました。さらに現代の私たちは量子力学を応用した電子工学と、コンピュータの誕生で発展した情報工学の多大な恩恵を受けています。天動説のままでいたなら、これらの分野は今もまだ存在していません。ここ2週間で2つの台風が沼津の近くを通りましたが、現代では気象衛星の画像や様々な観測データ、そして計算機によるシミュレーションで、いつごろにどこら辺を通りそうかが何日も前からわかりますから備えることができます。備えていても被害が出てしまうのが台風の恐ろしいところですが、備えることで被害をかなり小さくとどめることができます。科学が500年前のままだったら事前に備えることなどまったく不可能です。科学は天動説から地動説への移行があったからこそ、発展しました。大地(地球)は固定されてはおらず、宇宙の中を動いています。

永遠の中を動いているヨハネの福音書の舞台
 私がヨハネの福音書について語るのをやめないのも、同じ理由からです。ヨハネの福音書の舞台は紀元30年頃に固定されてはおらず、永遠の中を動いています。そうして主役が紀元30年頃の「人間イエス」であるという思い込みから解放されて、この書の主役が「旧約の時代」と「使徒の時代」の霊的な存在としてのイエスさまであることを理解するなら、私たちはイエスさまのことや神様の愛について、もっと豊かに理解できるようになり、素晴らしい恩恵を受けることができるようになるでしょう。それには多くの人々の働きが必要です。科学技術も一部の人の働きにより発展したのではなく、多くの科学者と工学者、さらに彼らを支援する人々の働きがあったから発展しました。ですから、ヨハネの福音書の舞台は永遠の中を動いていることが理解され、多大な恩恵に浴するための働きに多くの人々が加わるようになるまでは、私はヨハネの福音書を語り続けます。

聖霊を受けた者の内にいる霊的なイエス

 さて、ヨハネの福音書から読み取るべき重要なメッセージはいろいろありますが、その一つとして、聖霊を受けた者の内には霊的なイエスさま(霊的イエス)がいるということが挙げられます。「旧約の時代」には聖霊は預言者という神が選んだ器にしか注がれませんでした。しかし、新約の「使徒の時代」には「イエスは神の子キリスト」と信じる者には、誰にでも聖霊が注がれるようになりました。
 そのことが一番はっきりと示されているのが、ヨハネ4章だろうと思います。いま教会ブログにアップしているヨハネの福音書の注解は4章に入っています。この注解を始めたことで、私自身も今まで気付いていなかった新たな発見がたくさんありましたから感謝に思っています。
 4章1節から見ていきます。1節と2節、

1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、
2 ──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──

 舞台は紀元30年頃にはありません。それより後の「使徒の時代」にエルサレムの初代教会が急速に発展してイエスの弟子たちが増えて行った時の状況を伝えています。ですから、バプテスマを授けていたのは、「使徒の時代」の弟子たちです。その弟子たちは聖霊を受けていましたから、弟子たちの内にはイエスさまがいました。続いて3節、

3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

 ここはステパノの殉教を機にエルサレムで迫害が起きて弟子たちが散らされたことと重ねてあります。サマリヤを通って行ったのはピリポです(使徒8章)。ピリポはそこでサマリヤ人たちに伝道しました。そのピリポの内にはイエスさまがいました。

5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。

 イエスさまは疲れていました。これは、迫害が起きていることをイエスさまが憂えていると取ることもできますし、エルサレムから散らされた弟子たちが実際に疲れていたとも取れます。或いはまた、もう一つの時代の「旧約の時代」は、イスラエルの王国がソロモンの不信仰によって北王国と南王国とに分裂した時代に入っています。そしてサマリヤが首都の北王国の王たちは皆が不信仰でした。それで、イエスさまが、このソロモン王と北王国の王たちの不信仰を憂えていると取ることもできます。

預言者エリヤの内にいるイエス
 続いて7節、

7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 まず8節から説明すると、ここで弟子たちはいったん舞台から退場します。なぜなら、舞台は7節からは「使徒の時代」から「旧約の時代」に移ったからです。ですから「使徒の時代」の弟子たちには、いったん舞台から消えてもらいました。そうして弟子たちは後半でまた舞台に戻って来ます(ヨハネ4:27)。ヨハネは本当に芸が細かいなと思います。
 さて7節のイエスさまの「わたしに水を飲ませてください」については、既に何度も取り上げていますが、北王国の預言者のエリヤがやもめに声をかけて言った、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください」(Ⅰ列王17:10)という言葉と重ねてあります。預言者のエリヤには聖霊が注がれていましたから、そのエリヤの内にはイエスさまがいたということをヨハネの福音書は書いています。
 たぶん、多くのクリスチャンの方々にとって、この旧約の預言者の内にはイエスさまがいたということを、すんなりと受け入れることが難しいのかなという気がします。しかし、ヨハネ2章ではイエスさまはモーセになっています。そして3章ではヨシュア、4章の今日の箇所ではエリヤになっています。さらに6章ではエリシャ、7章ではイザヤ、10章ではエレミヤ、10章の終わりではエゼキエル、そして11章ではエルサレムの再建を励ましたハガイらになっていることを見るなら、これらの預言者たちの内にはイエスさまがいたのだと読み取らなければなりません。これらの預言者たちは神が選んだ器であり、聖霊は神が選んだ器だけに注がれていました。

クリスチャンの内にいるイエス
 一方、現代も含めた「使徒の時代」においては、「イエスは神の子キリストである」と信じる者は誰でも聖霊を受けることができます。そして、その人の内にはイエスさまが住むようになりますから、霊的なイエスさまと出会うことができます。そのことが書いてあるのが、ヨハネ4章42節です。

42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」


 これは極めて重要なメッセージです。ヨハネの福音書の舞台が紀元30年頃の「人間イエス」の時代に固定されていると思い込んでいるなら、このような重要なメッセージを受け取ることはできません。ですから、聖書の読み方においても、ぜひ天動説から地動説へと移行しなければならないと思います。そのことによって物理学が世界にもたらしたような大きな恩恵を、私たちは聖書から霊的に受けることができるようになるでしょう。ただし、実際の恩恵は物理学ではなくて工学がもたらしたように、ヨハネの福音書からも工学のようなものが生まれて発展して行かなければなりません。そのためには、多くの方々の働きが必要です。今はまだその働きが始まったばかりです。ぜひ多くの人々がこの働きに加わっていくように願っています。

おわりに
 ヨハネの福音書の舞台が永遠の中を動いていることを調べることが何の役に立つのかと疑問に思う方もおられるかもしれません。しかし、それは物理学も同じです。物理学自体は生活の役に立つようなものではありません。物理学を応用する工学があって初めて生活の役に立つようになります。ヨハネの福音書の働きも、多くの方々が加わることで豊かな恩恵が受けられるように育っていってほしいと願っています。
 お祈りいたしましょう。
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