2017年11月1日祈り会メッセージ
『聖書の読み方も天動説から地動説へ』
【ヨハネ4:1~8】
はじめに
きょうもまたヨハネの福音書について語ります。ヨハネに偏らないでバランス良く聖書全体から語るべきと忠告して下さる先生もいますが、ヨハネの福音書には旧約聖書と使徒の働きも含まれていますから、必ずしも偏ってはいないと思います。
天動説にとどまっている聖書の読み方
私は世の多くの人々にヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とは全然違う書物であることをわかっていただけるまではヨハネを語ることをやめるつもりはありません。なぜならヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じように「人間イエス」が主役の書であると思い込んでいる間は、それは天動説を信じているようなものだと考えているからです。私たちは天動説から地動説へ移行しなければなりません。ヨハネの福音書の主役は「人間イエス」ではなくて、「旧約の時代」と「使徒の時代」にいる霊的な存在としてのイエス、すなわち「霊的イエス」です。このことを理解するなら聖書の読み方も天動説から地動説に移行することができます。
天動説では私たちが住む大地(地球)は動かないで、天体のほうが動きます。太陽も大地(地球)の周りを回ります。確かに見た目はそうなっています。見た目がそうなんだから天動説でもぜんぜん構わないんじゃないの、という人もいるかもしれません。ヨハネの福音書も、見た目は「人間イエス」が主役のように見えますから、それで構わないんじゃないの、と思う人も多いかもしれません。しかし、もし天動説のままでとどまっていたならニュートン力学も誕生せず、それに基づいた機械工学や電気工学も存在しませんから、私たちの科学技術レベルは未だに500年前のままでした。
大地(地球)は固定されているのではなく動いているとすることで、惑星の軌道を正確に説明できるようになり、天体の運動がニュートン力学の方程式によって説明できるようになりました。さらに天体だけでなく地上の物体の運動もニュートン力学によって説明できます。ここから流体力学や熱力学、電磁気学も発展して、そこから機械工学や電気工学が発展しました。さらに現代の私たちは量子力学を応用した電子工学と、コンピュータの誕生で発展した情報工学の多大な恩恵を受けています。天動説のままでいたなら、これらの分野は今もまだ存在していません。ここ2週間で2つの台風が沼津の近くを通りましたが、現代では気象衛星の画像や様々な観測データ、そして計算機によるシミュレーションで、いつごろにどこら辺を通りそうかが何日も前からわかりますから備えることができます。備えていても被害が出てしまうのが台風の恐ろしいところですが、備えることで被害をかなり小さくとどめることができます。科学が500年前のままだったら事前に備えることなどまったく不可能です。科学は天動説から地動説への移行があったからこそ、発展しました。
大地(地球)は固定されてはおらず、宇宙の中を動いています。
永遠の中を動いているヨハネの福音書の舞台
私がヨハネの福音書について語るのをやめないのも、同じ理由からです。
ヨハネの福音書の舞台は紀元30年頃に固定されてはおらず、永遠の中を動いています。そうして主役が紀元30年頃の「人間イエス」であるという思い込みから解放されて、この書の主役が「旧約の時代」と「使徒の時代」の霊的な存在としてのイエスさまであることを理解するなら、私たちはイエスさまのことや神様の愛について、もっと豊かに理解できるようになり、素晴らしい恩恵を受けることができるようになるでしょう。それには多くの人々の働きが必要です。科学技術も一部の人の働きにより発展したのではなく、多くの科学者と工学者、さらに彼らを支援する人々の働きがあったから発展しました。ですから、
ヨハネの福音書の舞台は永遠の中を動いていることが理解され、多大な恩恵に浴するための働きに多くの人々が加わるようになるまでは、私はヨハネの福音書を語り続けます。
聖霊を受けた者の内にいる霊的なイエス
さて、ヨハネの福音書から読み取るべき重要なメッセージはいろいろありますが、その一つとして、聖霊を受けた者の内には霊的なイエスさま(霊的イエス)がいるということが挙げられます。「旧約の時代」には聖霊は預言者という神が選んだ器にしか注がれませんでした。しかし、新約の「使徒の時代」には「イエスは神の子キリスト」と信じる者には、誰にでも聖霊が注がれるようになりました。
そのことが一番はっきりと示されているのが、ヨハネ4章だろうと思います。いま教会ブログにアップしている
ヨハネの福音書の注解は4章に入っています。この注解を始めたことで、私自身も今まで気付いていなかった新たな発見がたくさんありましたから感謝に思っています。
4章1節から見ていきます。1節と2節、
1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、
2 ──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──
舞台は紀元30年頃にはありません。それより後の「使徒の時代」にエルサレムの初代教会が急速に発展してイエスの弟子たちが増えて行った時の状況を伝えています。ですから、バプテスマを授けていたのは、「使徒の時代」の弟子たちです。その弟子たちは聖霊を受けていましたから、弟子たちの内にはイエスさまがいました。続いて3節、
3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
ここはステパノの殉教を機にエルサレムで迫害が起きて弟子たちが散らされたことと重ねてあります。サマリヤを通って行ったのはピリポです(使徒8章)。ピリポはそこでサマリヤ人たちに伝道しました。そのピリポの内にはイエスさまがいました。
5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
イエスさまは疲れていました。これは、迫害が起きていることをイエスさまが憂えていると取ることもできますし、エルサレムから散らされた弟子たちが実際に疲れていたとも取れます。或いはまた、もう一つの時代の「旧約の時代」は、イスラエルの王国がソロモンの不信仰によって北王国と南王国とに分裂した時代に入っています。そしてサマリヤが首都の北王国の王たちは皆が不信仰でした。それで、イエスさまが、このソロモン王と北王国の王たちの不信仰を憂えていると取ることもできます。
預言者エリヤの内にいるイエス
続いて7節、
7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
まず8節から説明すると、ここで弟子たちはいったん舞台から退場します。なぜなら、舞台は7節からは「使徒の時代」から「旧約の時代」に移ったからです。ですから「使徒の時代」の弟子たちには、いったん舞台から消えてもらいました。そうして弟子たちは後半でまた舞台に戻って来ます(ヨハネ4:27)。ヨハネは本当に芸が細かいなと思います。
さて7節のイエスさまの「わたしに水を飲ませてください」については、既に何度も取り上げていますが、北王国の預言者のエリヤがやもめに声をかけて言った、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください」(Ⅰ列王17:10)という言葉と重ねてあります。預言者のエリヤには聖霊が注がれていましたから、そのエリヤの内にはイエスさまがいたということをヨハネの福音書は書いています。
たぶん、多くのクリスチャンの方々にとって、この旧約の預言者の内にはイエスさまがいたということを、すんなりと受け入れることが難しいのかなという気がします。しかし、ヨハネ2章ではイエスさまはモーセになっています。そして3章ではヨシュア、4章の今日の箇所ではエリヤになっています。さらに6章ではエリシャ、7章ではイザヤ、10章ではエレミヤ、10章の終わりではエゼキエル、そして11章ではエルサレムの再建を励ましたハガイらになっていることを見るなら、これらの預言者たちの内にはイエスさまがいたのだと読み取らなければなりません。これらの預言者たちは神が選んだ器であり、聖霊は神が選んだ器だけに注がれていました。
クリスチャンの内にいるイエス
一方、現代も含めた「使徒の時代」においては、「イエスは神の子キリストである」と信じる者は誰でも聖霊を受けることができます。そして、その人の内にはイエスさまが住むようになりますから、霊的なイエスさまと出会うことができます。そのことが書いてあるのが、ヨハネ4章42節です。
42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
これは極めて重要なメッセージです。ヨハネの福音書の舞台が紀元30年頃の「人間イエス」の時代に固定されていると思い込んでいるなら、このような重要なメッセージを受け取ることはできません。ですから、聖書の読み方においても、ぜひ天動説から地動説へと移行しなければならないと思います。そのことによって物理学が世界にもたらしたような大きな恩恵を、私たちは聖書から霊的に受けることができるようになるでしょう。ただし、実際の恩恵は物理学ではなくて工学がもたらしたように、ヨハネの福音書からも工学のようなものが生まれて発展して行かなければなりません。そのためには、多くの方々の働きが必要です。今はまだその働きが始まったばかりです。ぜひ多くの人々がこの働きに加わっていくように願っています。
おわりに
ヨハネの福音書の舞台が永遠の中を動いていることを調べることが何の役に立つのかと疑問に思う方もおられるかもしれません。しかし、それは物理学も同じです。物理学自体は生活の役に立つようなものではありません。物理学を応用する工学があって初めて生活の役に立つようになります。ヨハネの福音書の働きも、多くの方々が加わることで豊かな恩恵が受けられるように育っていってほしいと願っています。
お祈りいたしましょう。