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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

連載27(続編13)預言者のことば=イエスのことば(2)

2025-01-22 04:26:45 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(13)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

預言者のことば=イエスのことば(2)
 ジュンが5を指しながら言った。
「細かいことだけど、この5の『大麦のパン』が何となく気になるな~。これも旧約聖書と関係があるんじゃないかな?」

5. マタイ・マルコ・ルカの「五千人の給食」の「パン」がヨハネの福音書では「大麦のパン」になっている。

 そう言ってジュンはスマホの聖書に「大麦のパン」と入力して検索した。
「旧約と新約の5つの節で『大麦のパン』が使われているね。士師記7:13、列王記第二4:42、エゼキエル4:12、ヨハネ6:9。ヨハネ6:13だよ。」
 ノンも自分のスマホで検索結果を見ながら言った。
「この列王記第二4章でエリシャが100人を満腹にした場面とヨハネ6章でイエス様が5000人を満腹にした場面は、とても良く似ているね。

Ⅱ列王4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。

ヨハネ6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。

 エリが言った。
「マタイ・マルコ・ルカの『五千人の給食』では単に『パン』だったのがヨハネの福音書では『大麦のパン』になっているのは、ヨハネが意図的に変更した可能性があるね。列王記第二4章のエリシャの場面と重ねる意図があったんじゃないかな?」
 ジュンが聞いた。
「何のために重ねたの?」
 エリは答えた。
「それは、まだ分からないよ。でも、他の場面も検証してみれば、だんだん分かって来るかもしれないよ。」
 すると、ノンが面白い発見をした。
「そう言えば、エリシャのお師匠さんのエリヤは、やもめに水を飲ませてほしいと頼んだけど、ヨハネの福音書のイエス様もサマリアの女に水を頼んだよね。」

Ⅰ列王17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください】。」

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 ジュンのテンションがまた上がった。
「ホントだ!これもスゴイ発見だね!」
 エリも次第に熱くなって来た。
「これは面白いね!ヨハネ4章は列王記第一の17章と、ヨハネ6章は列王記第二の4章と重なっているということだよね。もしかしたらヨハネの福音書の4章以降は、列王記の出来事が順番に重ねられている、のかな???」
 ここでノンがまた一つ新たな発見をした。
「サマリアとガリラヤは、エルサレムの北にあるよね?ヨハネはイエス様が北のサマリアとガリラヤにいる時は列王記の北王国の出来事と重ね、イエス様が南のエルサレムにいる時には南王国の出来事と重ねている、みたいだね。」
 エリとジュンがまた考え込んだ。そして、それぞれのスマホの聖書に目を落とした。
 しばらくしてエリが言った。
「列王記は北王国の話と南王国の話が交互に出て来るから、ヨハネの福音書のイエス様の南北の動きは列王記の南北の移動と連動している可能性はあるね。すると、ヨハネ5章は列王記のどこと重なっているんだろう・・・?」
 ノンも考え込んだ。そして、言った。
「すぐには分からないね。でも、ヨハネの福音書のイエス様は7章から10章の終わり頃まではずっと南のエルサレムにいるでしょ。だから、列王記の記述と大体は合っているんじゃない?」
 ジュンがつぶやいた。
「確かに、エリシャの時代の後、しばらくしてから北王国はアッシリアに滅ぼされて、人々も捕囚として引かれて行ってしまうもんね・・・」
 そして今度はジュンが新たな発見をした。
「このヨハネ6:66の弟子たちがイエス様から離れて行ったことは、北王国の人々がアッシリアに捕囚として引かれて行ったことを指しているんじゃないかな?」

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

Ⅱ列王17:6 ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。
23 主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

 ノンが思わず叫んだ。
「ワオー!確かに!ジュン、すごいよ。すごい発見だね!」
 エリも興奮気味に言った。
「ナイス発見だよ、ジュン!ますます面白くなって来たね!」

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連載26(続編12)預言者のことば=イエスのことば(1)

2025-01-20 08:04:05 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(12)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

預言者のことば=イエスのことば(1)
 注文した飲み物が届くまでの間、ジュンのテンションが妙に上がり始めた。
「あ~、何か楽しみだな~。ワクワクする!」
 エリが聞いた。
「ジュン、どうしたの?急にハイになった感じだよ。」
「ごめん。私ね、ヨハネの福音書が大好きなんだよ。でも、ヨハネの福音書って、マタイ・マルコ・ルカの福音書とはいろいろと違っていて、よく分からない点が多いんだよね。このメンバーで語り合ったら何か新しいことが分かりそうで、ワクワクして来たよ。」
 つられて、ノンのテンションも上がった。
「新しい発見の予感がする時って、ほんとにワクワクするね。聖書って、そういう新しい発見がある読み物だよね。」
 ジュンが何度もうなずいた。
「私はヨハネの福音書が好き過ぎて、何度も繰り返し読んでいるから、何章に何が書いてあるか、ほとんど分かるよ。マタイ・マルコ・ルカの福音書は、あいまいにしか分からないけどね。へへ。」
「僕もヨハネの福音書なら、何章に何が書かれているか、ほぼほぼ分かるよ。」
「ワタシも分かるよ。」
「じゃ、私たちは三人ともヨハネの福音書については、どこに何が書かれているかほとんど分かっているということだね!ますます楽しみだな~。」
 追加の飲み物が運ばれて来た。ここでエリが提案した。
「まずは、ヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と異なる点をリストアップしておかない?そのほうが実りあるものになると思うよ。」
 ジュンが賛成した。
「さすがエリ!本格的だね。」
 ノンも同意した。
「これは、いよいよ新しい発見の予感がして来たな~」
 そうして三人はヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書と異なる点を紙に書き出した。

1. マタイ・マルコ・ルカのイエスは北のガリラヤで宣教を開始し、その後南下してエルサレムに入って十字架で死んだのでイエスの旅路は「北→南」の一方通行。それに対してヨハネの福音書のイエスは東西南北を何度も行き来していて、エルサレムには三度行った。
2. エルサレムの神殿から商売人を追い出した「宮きよめ」をヨハネの福音書のイエスは2章という早い段階で行っている。
3. ヨハネの福音書にはナタナエル、ニコデモ、サマリアの女や愛弟子などのマタイ・マルコ・ルカには記されていない人物が登場する。
4. ヨハネの福音書には「カナの婚礼」や「ラザロの復活」などマタイ・マルコ・ルカにはない奇跡が記されている。
5. マタイ・マルコ・ルカの「五千人の給食」の「パン」がヨハネの福音書では「大麦のパン」になっている。
6. ヨハネの福音書の「最後の晩餐」はマタイ・マルコ・ルカより長い。
7. マタイ・マルコ・ルカの「最後の晩餐」は過越の食事であるが、ヨハネの福音書はその前日。
8. ヨハネの福音書のイエスは「わたしはいのちのパンです」など「わたしは~です」と何度も言っているが、マタイ・マルコ・ルカのイエスは言っていない。
9. マタイ・マルコ・ルカの「バプテスマのヨハネ」は、ヨハネの福音書では単に「ヨハネ」。
10. ヨハネの福音書にはイエスが洗礼を受ける場面がない。

 エリが言った。
「細かい点を挙げると、まだ他にもたくさんあるけど、大体こんな感じかな~」
 ジュンがリストを眺めながら言った。
「こうして並べて見ると、ヨハネの福音書ってマタイ・マルコ・ルカとは随分と違うことがよく分かるね。」
 ノンもうなずきながら言った。
「うん。ヨハネの福音書はマタイ・ルカ・マルコとは、ぜんぜん別の書だと言ったほうが正しいみたいだね。」
 エリもうなずいた。
「そうだね。だからヨハネの福音書は、高い場所から全体を眺める必要があると思うよ。そういう点では、やっぱり1がとても大切だと思うな。」

1. マタイ・マルコ・ルカのイエスは北のガリラヤで宣教を開始し、その後南下してエルサレムに入って十字架で死んだのでイエスの旅路は「北→南」の一方通行。それに対してヨハネの福音書のイエスは東西南北を何度も行き来していて、エルサレムには三度行った。

 すると、ノンが言った。
「この1と関係があるか分からないけど、僕はヨハネ12章で天の父が言ったことが、すごく気になっているんだよね。」

ヨハネ12:27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

 ノンはジュンに聞いた。
「ジュン。この父の『わたしはすでに栄光を現した』は、どの出来事のことを指していると思う?」
「えーと。『カナの婚礼』で水をぶどう酒に変えたこととか?それとも『五千人の給食』で5つの大麦のパンと2匹の魚で5千人を満腹にしたことかな?あっ、死んだラザロを生き返らせた『ラザロの復活』のことかな?」
「だよね。普通はイエス様の宣教中の奇跡のことだと思うよね。」
 すると、エリが聞いた。
「ノン、違うの?えーっ?違うとしたら何だろう・・・」
 エリとジュンは考え込んだ。ノンは二人が考えている間、黙っていた。
 しばらくして、エリがつぶやいた。
「もしかして、福音書ではなくて旧約聖書に書かれている出来事・・・?」
 それを聞いたジュンは言った。
「モーセの時代のこととか・・・?」
 ノンの表情がパッと明るくなった。
「そうそう!きっと、そうだよ。父の『わたしはすでに栄光を現した』は、モーセの時代の『エジプト脱出』とか『律法の授与』のことじゃないかと思うんだよね。」
 ジュンが言った。
「そう言われてみると、そんな気がするね。」
 エリも言った。
「この父のことばが1つの出来事を指しているかどうか分からないけど、ノンが言うように旧約聖書に記されている出来事というのは、確かにその通りかもしれないね。」
「ありがとう。うれしいよ。分かってもらえて。」
 ジュンは浜松国際ピアノコンクールのことを思い出しながら言った。



「この『わたしはすでに栄光を現した』が福音書に書かれている奇跡だと考える読み方はピアノの演奏をホールの1階席で聴く感じかな。そしてノンが言ったように旧約聖書に書かれていることだと考える読み方は演奏をホールの4階席で聴く感じかな。」



 エリがうなずいた。
「うまいことを言うね、ジュン。ヨハネの福音書は高い所から俯瞰して読むべき書物なのかもしれないね。」
 三人は改めて、ヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカと異なる点を書き出したリストを眺めた。

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連載25(続編11)天動説から地動説への巣立ち

2025-01-18 14:21:36 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(11)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

天動説から地動説への巣立ち
 ジュンは続けた。
「恥ずかしながら、私は就職してお給料をもらうようになって初めて、両親への感謝の思いを持つようになったよ。私を育ててくれた両親の苦労がどれほどであったか、子供の頃はぜんぜん分からなかったから感謝もしていなかったんだよね。」
「ご両親はジュンにたっぷりと愛情を注いで下さり、そうして悪いことをした時には厳しく叱られたりもしたんでしょ?」
「うん。よく叱られたな。」
 エリも言った。
「ワタシも父にはいつも叱られていたし、学校でも先生によく叱られていたな。」
 ノンが笑って言った。
「ハハハ、みんな同じだね。僕が通っていた小学校の校長先生も厳しかったな。でも、実はとても優しい先生だったということが、僕もようやく分かるようになって来たんだよね。」
 うなずきながらジュンは言った。
「親元から巣立たないと分からないことがあるんだよね。」
 ノンもうなずいた。
「うんうん。『巣立つ』っていう言葉、いいね。高い所から見る景色はぜんぜん違うことを言いたい時は、ロケってや大鵬の話をするよりも身近な鳥の巣立ちの話をしたほうが分かりやすいかもしれないね。」
 今度はエリがうなずいた。
「ノンの天動説と地動説の話が、何となく分かって来た気がするよ。鳥は巣立って空を飛ぶようになっても、少し経つとまた地上に降りて来るよね。鳥は地上と空の間を行ったり来たりしているけど、実は地上にいる時のほうが空を飛んでいる時よりも長いよね。そして人も天動説と地動説の間を行ったり来たりしていて、実は天動説の時のほうが長いよね。」
 ジュンもうなずいた。
「うん。きのうノンが言っていたように、私たちは普段は太陽が昇ったり沈んだりしていると感じているものね。」
 ノンが言った。
「うん。僕たちは天動説の中で生きていて、たまに地動説で宇宙を見る。神様のことも普段は圧倒的に旧約的な見方をしているんだと思うよ。でも時には聖霊の上昇気流に乗って空に舞い上がり、新約的な見方をしたいよね。」
 エリが言った。
「地上で神様が注いて下さる愛に浸ってばかりいないで、巣立って時には上空に行かなければならないということだね。」
 ジュンがつぶやいた。
「平和な世の中にならないのは、そういうことなのかな?ほとんどの人が巣立たずに地上にとどまっていて、ただ単に神様の愛を受けているだけなのかな?それだと、なかなか大人にはなれないね。」
 エリが聞いた。
「ジュンは広島や長崎に言って長い祈りをささげたことがあると言っていたよね。」
「うん。聖書には『平和』という言葉がたくさん出て来てくるでしょ。そうして聖書は『世界のベストセラー』と呼ばれるほど多くの読者がいる。日本人で聖書を読む人は少ないけど、世界ではものすごく多くの人が聖書を読んでいるんだよ。それなのに世界では絶えず戦争が起きていて、平和にはならない。どうしてなんだろうっていつも思っていたけど、もしかしたら巣立っていない人が多いからなのかもしれないね。」
 エリがうなずきながらノンに聞いた。
「確かにそうなのかもしれないね。ノン、そういうことなのかな?」
「うん、そうだね。僕はそう思うよ。巣の中で神様から注がれる愛情をたっぷりと受けることは、もちろん素晴らしい恵みだよ。でも、巣の中に閉じこもっていると兄弟同士の争いはなくならないと思うな。鳥も人も巣立つことで大人になって『人知をはるかに超えたキリストの愛』が分かるようになるんだと思うな・」

エペソ3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 エリは何度もうなずきながら言った。
「人は天動説から地動説へ巣立って初めて宇宙を広く見渡せるようになった。聖書も広く見渡せるようになる必要があるね。さっきノンが、福音書のイエス様の話は将来の聖霊の時代のことを伝えていると教えてくれたけど、その反対方向の創世記の昔のことも含んでいるよね。」
 ジュンが聞いた。
「たとえば?」
「たとえば、ルカ15章の『放蕩息子の帰郷』の兄息子はイスラエル人、弟息子は異邦人と考えることもできるでしょ。」
「弟息子が父親の家を出たのは創世記の昔で、父親に一番良い衣を着せてもらったのは新約の時代と考えるわけね。」
「うん。」
「『放蕩息子の帰郷』は人の一生の中の数年ぐらいか、長くても数十年の物語と考えがちだと思うけど、創世記の昔からだとすると数千年の物語ということになるね。この数千年の間、父親がずっと弟息子の帰りを待っていたと考えると、まさに人知をはるかに超えた愛と言えそうだね。」
 ノンも言った。
「『ぶどう園の主人』のたとえ話も、1日の物語ではなくて、数千年の物語かもしれないね。」

マタイ20:1 「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。」

「朝早くからぶどう園で働いた者たちはイスラエル人、9時ごろから働い者たちはパウロたちが伝道した地中海沿岸の者たち、12時ごろからはヨーロッパ全体の者たち、午後3時ごろからはヨーロッパ以外、そして午後5時以降は僕たち日本人のような者だよ。日本人より、さらに遅い者たちもいるよね。」
 ジュンが言った。
「すごいね。これも数千年の物語だね。ヨハネの福音書はどうなのかな?」
 ノンが答えた。
「じゃ、今度はヨハネの福音書について話そうか。」
 エリが言った。
「いいけど、ワタシは飲み物をもう一杯頼みたいな。」
「私も。」
「僕も。」
 三人は追加の飲み物を注文した。

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連載24(続編10)旧約と新約がもつれ合う福音書

2025-01-16 06:51:50 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(10)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

旧約と新約がもつれ合う福音書
 取り出した2冊の聖書を示しながらノンは言った。
「こっちの分厚い聖書は、旧約聖書と新約聖書の両方が載っているもの、こっちの薄い聖書は新約聖書だけのもの。
 それで、新約聖書はマタイの福音書から始まって、マルコの福音書、そしてルカの福音書と続いて行くから、イエス様が降誕して地上で宣教を始めたことは新約の時代のことと思っている人もいるようだけど、イエス様が地上にいた時代は依然として旧約の時代だったでしょ?」
 エリが応答した。
「うん、旧約の時代が終わったのはイエス様が十字架で死んで、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた時[マタイ27:51、マルコ15:38。ルカ23:45]だからね。」
「ピアノは、低音と高音がもつれ合うことで深みのある豊かな響きが生まれるでしょ。それと同じで福音も旧約と新約がもつれ合うことで豊かに響くようになると僕は思うんだよね。でも、イエス様の時代は新約の時代だと多くの人が思っているかもしれない。それも福音が響かなくなっている理由の一つのような気もするな。」
 ジュンが首をかしげながら聞いた。
「今一つ、よく分からないんだけど。」
「えーっとね、新約の恵みは聖霊の恵みでしょ。でも、新約の恵みをイエス様の恵みだと思っていると、旧約と響き合わなくなるってことが言いたいんだけど。もちろん、イエス様の恵みも素晴らしいんだけど、それは旧約の恵みだから、新約の聖霊の恵みともつれ合うことで、もっと豊かな響きになるのに、それができていない気がするんだよね。」
 ジュンは首をかしげたままだ。
「まだ良く分からないから、例を挙げて、話してみてくれる?」
「うん。」
 ノンは新約聖書のルカの福音書を開きながら言った。
「まずハッキリさせておきたいのは、さっきも言ったけどマタイ・マルコ・ルカの福音書のイエス様はまだ旧約の時代にいるということだよ。エリが言ったように、旧約の時代が終わったのはイエス様が十字架で死んで神殿の幕が真ん中から裂けた時だからね。」

ルカ23:44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 ジュンがノンに聞いた。
「確認だけど、旧約とは【古い契約】のことで、新約とは【新しい契約】のことだね?」
「そうだよ、旧約聖書のエレミヤ書31章に、こう書いてあるよね。」

エレミヤ31:31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 次にノンは新約聖書のコリント人への手紙第二3章を開いて言った。
「パウロは第二コリント3章で、このように書いているよ。」

Ⅱコリント3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

「御霊とは聖霊のことだから、新しい契約の時代、つまり新約の時代は聖霊が注がれたペンテコステの日に始まったということになるよね。」
 ジュンは言った。
「新約聖書の福音書が書いているのは、実は旧約の時代だっていうのは、重要なポイントだね。」
 ノンが答えた。
「うん。でも、もっと重要なのは、イエス様は将来の新約の時代のことを見すえて、聖霊の恵みを弟子たちに伝えているということだよ。たとえば『山上の説教』でイエス様は『世の光』の話をしているよね。」

マタイ5:14 「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」

「世の光になるような良い行いは『御霊の実』を結んだ人でなければできないでしょ?」
 ノンがそう言うと、ジュンが聞いた。
「それって、パウロがガラテヤ人への手紙で書いた『御霊の実』のこと?」
「うん。」

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

「だから、このマタイ5~7章の『山上の説教』の多くは新約の聖霊の恵みについて語られていると思うんだよね。」
 すると今度はエリが聞いた。
「じゃ、『山上の説教』の第一声の5章3節も聖霊の恵みのことなのかな?」

マタイ5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

「うん。そうだと思うよ。『心の貧しい者』は直訳すると『霊において貧しい者』だからね。『霊において貧しい者は幸いです』で始まる『山上の説教』は、明らかに聖霊の恵みについて語ってるんだと思うな。」
 ジュンが言った。
「マタイ5:44の『自分の敵を愛し』も、聖霊を受けていなければできないという気がするな。」

マタイ5:44 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

 ノンが答えた。
「確かにそうだね。神の霊である聖霊を受けて初めて、僕たちは『完全』に近づいて行くことができるんだよね。」

マタイ5:48 「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」

 エリが聞いた。
「『山上の説教』以外でも、聖霊についてイエス様が話している箇所はまだ他にもありそうだね?」
「うん。たとえばルカ15章の『放蕩息子の帰郷』で父親が弟息子に着せた『一番良い衣』は聖霊のことだと思うな。」

ルカ15:22 「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。』」

「あっ、そうか。イエス様はルカの福音書の最後の24章でも聖霊の話の時に『着せる』という動詞を使っているから、弟息子の衣も確かに聖霊のことだろうね。」

ルカ24:49 「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

「この『わたしの父が約束されたもの』は聖霊のことだからね。」
 エリがそう言うと、ジュンが聞いた。
「じゃ、『婚礼の礼服』も聖霊のことかな?」

マタイ22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

「うん。この『婚礼の礼服』は聖霊のことだと思うよ。」
 ノンが答えるとジュンが言った。
「それにしても、『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ』って、神様は随分と厳しいお方だね。」
「うーん、そうかもしれないけど・・・。だからこそ僕たちは大鵬やロケットのように高い所に行かなければならないんだと思うな。」
「どういうこと?」
「たとえば子どもの頃は小学校の校長先生のことを恐い人だと思っていたけれど、本当は優しい人だったと大人になって分かることがあるでしょ。この厳しい王様も本当は放蕩息子の父親のように優しい人かもしれないよ。」
「あー、そう言われてみると確かにそうかもしれないね。」

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連載23(続編9)もつれ合う旧約と新約

2025-01-06 14:06:27 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(9)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

第2章 福音の新発見
もつれ合う旧約と新約

 翌朝、エリは早くに目覚めた。ニューヨークと静岡との時差の関係だろう。それで、歴史博物館に行く前に蓮永寺へ行くことにした。蓮永寺はE.W.クラークが明治4年(1871)に静岡学問所の教師に着任した時に宿舎としていた寺だ。駅前のホテルから蓮永寺までは徒歩で30分ほどだ。エリはスマホの地図を見ながら蓮永寺に向かった。
 エリが静岡市に来たのは今回で2度目だ。前回は1年前の「大志の丘150周年」の時に訪れて、ノンとジュンに初めて会った。祖先のクラークが愛していた静岡のことを、エリはもっと良く知りたいと思っていた。蓮永寺は1年前にも二人に案内してもらっていたが、きょうは一人でじっくりと雰囲気を味わうつもりだ。


蓮永寺の山門(2022年3月13日 筆者撮影)

 蓮永寺の山門は北街道沿いにある。北街道はバスやトラックも多く通っていて交通量が多い。しかし、広い境内の中に入れば騒音が聞こえることはない。境内には比較的新しい建物もあるが、クラークの時代にもあったと思われる木造の鐘楼や本堂も現存している。ニューヨークで生まれ育ったエリにとって、この寺の境内は不思議な空間だ。クラークは、どんなことを感じながら、ここで暮らしていたのだろうか。当時のクラークの感想は著書や手紙にも残されている。しかし今、エリは自分がクラークになったつもりで、それを感じ取りたいと思った。


蓮永寺の本堂(2022年3月13日 筆者撮影)

 本堂の正面から右方向に進むと、墓地がある。その奥には古い士族の墓があり、勝海舟の母の信(のぶ)も、ここに眠っている。明治の世になって徳川慶喜と家達が東京から駿府(静岡)に移って来た時、旧幕臣の勝海舟も母と共に静岡に移住した。勝は母のために新しい住居を建てたが、引っ越す前に他界した。
 勝海舟は生前の母のことを想いながら、ここに墓を建てた。勝海舟の死後、クラークは生前の勝を想いながら『勝安房』を書いた。そして今、エリは生前のクラークを想いながら、この蓮永寺に来た。ふとエリは、【死者と生者はもつれ合っている】と感じた。


士族の墓がある蓮永寺の墓地(2022年3月13日 筆者撮影)

 昨晩は、ノブが【天動説と地動説はもつれ合っている】と言っていた。そして、きょうは【旧約と新約はもつれ合っている】ことについて、話を聞くことになっている。エリはノブのきょうの話を楽しみにしている。それを前にして、自分は今この墓地で【死者と生者はもつれ合っている】と感じている。この世は、すべて【もつれ】から成り立っているのであろうか?


勝海舟の母・信(のぶ)の墓(2022年3月13日 筆者撮影)

 ノブが【もつれ】という言葉を使ったのは、2022年のノーベル物理学賞が【量子もつれ】を実験で明らかにした研究者たち[アラン・アスペ、ジョン・クラウザー、アントン・ツァイリンガー]に与えられたことを意識してのことであろう。もつれている二つ(以上)の量子は、宇宙の果てほど離れていても互いに影響し合っているという。まさに神秘だ。
 きょうはノブとジュンと、この神秘について語り合えると思うとワクワクする。この語り合いに備えて、エリはホテルに戻って一休みすることにした。早くに目覚めたので、少し眠気を感じたからだ。きょうの語り合いでは集中力が切れないようにしたい。蓮永寺の近くには「三松」のバス停がある。少し待つとすぐに静岡駅行きのバスが来た。エリはホテルに戻り、もう一眠りした。


静岡市歴史博物館(2024年12月10日 筆者撮影)

 静岡市歴史博物館は巽櫓(たつみやぐら)の南側にある。この櫓(やぐら)は駿府城の東南を守る。十二支の辰巳(東南)の方角にあるので、巽櫓と呼ばれている。歴史博物館の1階のカフェからは、この櫓をゆっくりと眺めることができる。


駿府城の巽櫓[たつみやぐら](2025年1月3日 筆者撮影)

 エリがカフェに入ると、すでにノンがいて、テーブル席を確保してくれていた。
「グッモーニング、ノン。」
「お早う、エリ。」
 しばらくすると、ジュンもカフェに入って来た。
「お早う、二人とも早いね。」
 ジュンはきょうのために有休を取って図書館の仕事を休んでいた。三人とも語る気が満々だ。
 エリが言った。
「けさ、蓮永寺に行って来たよ。」
「私っちの近くじゃない。言ってくれれば、一緒に歩けたのに。」
「予定していなかったけど、時差で目が覚めちゃったから、行くことにしたんだよ。」
「夕べも遅かったけど、大丈夫?」
「またホテルに戻って一眠りしたから、大丈夫だよ。」
 ノンが言った。
「クラーク先生は蓮永寺で1年間暮らし、日曜日には聖書を教えていたんだよね。バイブル・クラスの参加者は皆、ものすごく熱心に聖書を学んだそうだね。」
 うなずきながら、ジュンが言った。
「150年前は福音がとても良く響いていた、ということだよね。でも21世紀の今は、昔ほど響かなくなっている。どうしてなんだろうね。きょうは、そのことも深めることができたら良いな。」
 エリも、うなずいた。
「きのうのノンの話が良いヒントになりそうだね。ワタシたちは地動説の時代を生きているつもりになっているけれど、実は頭の中は天動説のままなんだという話、言われてみると、確かにその通りなんだよね。」
「21世紀生まれの僕たちは新しい時代を生きているつもりでいて、昔のものを古臭く思う傾向があるけど、実は僕たちの頭の中も古い天動説のままなんだよね。聖書って、そういうことを気付かせてくれる書物なんだけど、聖書の読まれ方も古いままだから、福音があまり響かないんだと思うな。」
「そうそう、そこら辺の所をきょうはもっと詳しく聞きたいな。」
「私も。」
「うん、じゃ、始めさせてもらうね。」
 そう言って、ノンはカバンから聖書を2冊取り出した。

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連載22(続編8)もつれ合う天動説と地動説

2025-01-03 12:43:22 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(8)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

もつれ合う天動説と地動説
 ノブは天動説と地動説のたとえを使いながら続けた。
「たとえば、僕たちは地動説の時代を生きているけど、天動説的な感覚も相変わらず持っているでしょ?」
「そうなの?」
「どういうこと?」
「僕たちは普段、太陽は東から昇って西に沈むものだと思って暮らしているよね?」
「あー、確かに。地球が自転しているとは、ほとんど意識していないよね。西田敏行さん主演の映画『陽はまた昇る』が私は好きなんだけど、言われてみれば『陽はまた昇る』も天動説的なタイトルだね、」
「そうでしょ。僕たちは地動説のことをちゃんと知ってはいるけど、普段の生活は天動説のままなんだよ。」
 エリも、うなずきながら言った。
「そう言われれば、その通りだね。宇宙ロケットとか国際宇宙ステーションのことを考える時は頭の中がちゃんと地動説になっていると思うけど、それ以外の時の頭の中はほとんどの場合、天動説かもしれないね。」
「うん。時にはちゃんと地動説も意識するよ。だから、僕たちは天動説と地動説がもつれ合っている中で生活しているんだと思うよ。」
「面白いね。天動説は既に絶滅したものと私は思い込んでいたよ。」
 そして、ノンは言った。
「それでね、僕は旧約と新約も互いにもつれ合っていると思うんだよね。僕たちは新約の時代にいるけれど、旧約も相変わらず生きていて、その両方の中で生活しているんじゃないかな。天動説と地動説のもつれ合いと良く似ているんだよ。」

 ここでジュンが時計を見ながら言った。
「その話、是非じっくり聞きたいけど、そろそろお開きにしない?私から二人を誘っておいて悪いんだけど。」
 エリも時計を見て言った。
「旧約と新約の話を始めたら、長くなりそうだね。」
「ごめん、ごめん。僕は夢中になると話が長くなるからね。じゃ、続きはまた明日にしよう。」
 ジュンが二人に聞いた。
「明日は、どんな予定にしようか。日が沈む前に賎機山から降りて来ることだけは決まっているけど、他は決まってないよね。」
「ノンの話をゆっくり聞くなら、カフェが良いのかな?ジュン、どこか良さそうな所ある?」
 少し考えてジュンは言った。
「じゃ、たとえば静岡市歴史博物館の1階のカフェはどう?」
 ノンがすぐに反応した。
「いいね!そうしよう。」
 ジュンはスマホで静岡市歴史博物館の場所をエリに教えた。
「オーケー。時間はどうする?」
「私は何時でも、いいよ。ノンに決めてもらおうか?」
「えーと、じゃ10時半で、どうかな?」
「いいよ。」
「オーケー。」
 三人は支払いを済ませて、店を出た。既に最終のバスの時刻は過ぎている。ノンとジュンはエリを静岡駅前のホテルへ送ってから、家路についた。ノンは大岩の実家に、ジュンは沓谷の自宅に、それぞれ徒歩で向かった。

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連載21(続編7)福音が響くためには…

2025-01-03 10:12:57 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(7)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

福音が響くためには…
「十字架の恵みを重力にたとえるなんて、ノンらしいね。」
「僕らしいのかな?」
 そう言って、ノンは続けた。
「僕はエペソ人への手紙でパウロが『人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように』とパウロが天の父に祈った箇所が大好きなんだよね。こんなにスケールの大きい箇所は、ないんじゃないかな。」
 ジュンがまた聖句を読み上げてくれた。

エペソ3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 エリが言った。
「ワタシも、この聖句は大好きだよ。特に『広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり』という箇所が好きだな。このスケールの大きさには、うっとりするよ。」
「パウロは天に引き上げられた体験を持つよね。そういう高い所に昇ったことがあるから、こんなにスケールが大きな手紙が書けるのかもしれないね。」
 そう言ってジュンは、パウロのコリント人への手紙第二の聖句を読み上げた。

Ⅱコリント12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。

「これはパウロ自身の経験だと言われているね。確かに、パウロのスケールの大きさは、この天に引き上げられた経験がもたらしたものかもしれないね。ワタシも、そんな気がして来たよ。」
「でも…」
と、ジュンが心配顔で言った。
「ノンは多分、何百憶光年という宇宙のスケールでキリストの愛の大きさを考えているでしょ?」
「うん、そうだよ。」
「私もそれで良いと思うよ。でも、パウロの時代の人々は、何百憶光年もの大きさの宇宙は知らなかったでしょ。今の21世紀の感覚で1世紀のパウロの手紙を読むべきではないと言う人も、いるよね。」
「そう言う人たちが、確かにいるよね。それぞれの立場があるから、いろいろな意見があるのは仕方がないね。ジュンも言ってたけど、僕たちは聖書学の研究者を目指しているわけではないから、今の時代の感覚で聖書を読んでも構わないと思うよ。神様は時空を超えた永遠の中にいるから、パウロに霊感を与えた時、1世紀の人々が想像していたのよりも大きな宇宙を知っていたんだよ。その同じ神様から僕たちも霊感を与えられて聖書を読んでいるのだから、21世紀の感覚で読んでも良いと僕は思うな。だからこそ、聖書は魅力に溢れているのであって、1世紀の読み方しかしてはいけないのだったら、今世紀末には聖書の読者は絶滅するかもしれないよ。絶滅は言い過ぎかもしれないけど、減るのは確かだよ。」
「ワタシも、聖書の魅力は読者の時代の新しい発見に合わせて新しい読み方ができるところにあると思うよ。だから、読み方にも新しい発見が生まれて楽しいんだよ。」
「うん。僕も聖書を読んでいて新しい発見があると、うれしくてたまらないよ。そういう発見があって分かち合うことができれば、福音はもっと響くようになるんじゃないかな。たとえば創世記1章の天地創造で神様が『光、あれ』をビッグバンと結び付けることを批判する人たちがいるよね。僕は別に構わないとおもうんだけどね。」
「ワタシもビッグバンと思って読んでも、ぜんぜん構わないと思うけど、どうして批判されるのかな?」
「聖書は科学書ではないから、聖句と物理学を結び付けて考えるべきではないというのが理由らしいよ。でも、そういう現代科学の発見と聖句とを結び付けて聖書が楽しくなるなら、僕はぜんぜん構わないと思うな。」
 ジュンが言った。
「私も、【ピアノと聖書は似ている】という発見をしたよ。聖書が書かれた時代にピアノはまだ無かったけど、いろいろな点で聖書とピアノは似ていると。コンクールの1次予選の時に思ったんだよね。」
「へー、面白そう。」
「どんな風に似ているの?」
 ジュンはピアノを両手で弾く真似をしながら言った。
「ピアノを弾く両手は、基本的に左手が低音域、右手が高音域を受け持ち、両方の音が重なって響き合うよね。聖書も旧約聖書と新約聖書の両方が重なって響き合っている点が似ていると思うな。」
「ナルホド。」
「確かに。」
「それで、ピアノの88の鍵盤は聖書の66の書に置き換えることができるなと思ってたんだけど、ノンとエリの話を聞いていて、さらにイメージが膨らんだ気がするよ。」
「ほう。」
「どんな風に?」
「ノンの十字架の話を聞いていて、十字架は福音の中心だからピアノで言えば調律の基準になる440ヘルツ[注:442ヘルツ等の場合もある]のA4の鍵盤の音だな、と思ったんだよね。それで、十字架がA4ならクリスマスはC4、イースターはB4かな。だから、真ん中の1オクターブは福音書だよ。そしてペンテコステがC5で、両端のA0とC8が天地創造と新天新地だね。」
 話しながらジュンは鍵盤の図を紙に描いた。



「だとすると、このクリスマスより左側の3オクターブは旧約聖書だよ。そして、右側の3オクターブは福音書以外の新約聖書かな、と思ったんだけど…」
「けど…?」
「違うの?」
「うん。二人の話を聞いていて、右側の最後の2オクターブは2世紀~21世紀~終末かなと思ったんだよね。」
 そう言って、ジュンは鍵盤の図の左と右の部分に描き足した。



「ほう。」
「2世紀~21世紀の音も重なっているというわけだね。」
「うん。2世紀以降のことも21世紀の私たちの聖書の読み方に影響を与えているでしょ。そして、これから先の未来のことも影響していると思うんだよね。私たちには未来のことは分からないけれど、神様は知っているからね。その永遠の中にいる神様が聖霊を通して私たちに語り掛けて下さっているから、アルファからオメガまで、最初から最後まで、初めから終わりまでの全てが含まれるんだと思うな。」
 エリが言った。
「この鍵盤の図を眺めていると、確かにピアノと聖書は良く似ていると感じるね。」
「私よりも先に同じことを考えた人がいるかもしれないから、厳密には発見と言えないかもしれないけど、個人的には、面白い発見だったな。」
 ノンも言った。
「本当に似ているね。まだ他にも、似ている点がありそうな気がするな。」
「うん、他にもあるよ。ピアノは鍵盤を叩きさえすれば音が出るから、初心者でもそれなりに楽しめるでしょ。聖書も同じで、初心者でもそれなりに楽しめる点が似ていると思うな。そして、もっと本格的に取り組んでいる人たちがいる点も似ているよね。」
「ピアノを弾くピアニスト以前に、ピアノを作る人たちがいるよね。きょうの演奏会ではステージの上に違うメーカーのピアノが3台あって、演奏者が交代する度に入れ替わっていたのが面白かったな。」
「ワタシもそう思ったよ、ノン。遠くてメーカーの名前が読めなかったけど、ジュン、どのメーカーのピアノだったの?」
「ヤマハとカワイとスタインウェイだよ。1次予選の時はステージの近くの席に座っていたから、メーカー名が良く見えたよ。『YAMAHA』、『SHIGERU KAWAI』、『STEINWAY & SONS』と書いてあるから、遠くからでも文字列の長さで、だいたい分かるよ。」
「あっ、そうか。遠くて文字がハッキリ読めなくても、メーカー名の長さで分かるんだね。」
「うん。それで、このメーカーの違いは聖書で言えば、新改訳や新共同訳、口語訳などの違いと言えるんじゃないかな。」
「言えるね。それからピアノには調律師も欠かせないよね。調律師は、聖書で言えばどんな人たちかな?」
 ノンの問い掛けに二人は少しの間、考えた。そして、ジュンが言った。
「たとえば、改訂に携わる人たちはどうかな?昔は『めくら』という言葉が使われていたらしいけど、今は『盲人』とか『目の見えない人』とかに変更されているでしょ。『らい病』も昔は使われていたらしいけど、今はないよね。」
「あー、そうだね。ピアノと聖書は本当に良く似ているね。だから、聖書もピアノと同じように、もっとずっと響くようになるはずだと思うな。」
 うなずきながら、ノンは続けた。
「実は僕はホールでのピアノの演奏会を本格的に聴いたのは初めてだったけど、ピアノって一人で弾いているのに低音から高音まで随分とたくさんの音が重なり合うんだね。」
「ワタシも同じことを思ったよ。手だけでなく、足のペダルの使い方も上手いのだろうね。」
「うん。それで思ったんだけど、福音の説教も旧約と新約が重なり合っているもののほうが聴いていて心に響く気がするんだよね。」
「そうなの?旧約と新約からたくさんの聖句が引用されると、話に付いて行けなくなるから、私はそれはどうかな?」
「うん。だから、それは程度の問題だと思うよ。程よくブレンドしてあれば、より深い味わいになり、心に響くと思うんだよね。」

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連載20(続編6)十字架の恵みの重力

2024-12-31 09:24:17 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(6)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

十字架の恵みの重力
 エリとジュンの会話を聞いていたノンも加わった。
「二人の話を聞いていて、『荘子』の大鵬の話も21世紀の今だからこそ、もっと良く理解できるようになっているはずだと思ったよ。」
 ジュンがうなずいた。
「大鵬も高い所を飛んでいるよね。」
「大鵬は九万里の上空を飛ぶと『荘子』に書いてあるよ。素直に解釈すると、これは静止衛星の軌道よりも高いんだよ。」
 エリが驚いた。
「えーっ、国際宇宙ステーションよりも高いね。」
「ハハハ、そうだね。ロケットで人が宇宙に行ける時代になって初めて、『荘子』もまた違う味わい方ができるようになったのかなと、エリとジュンの話を聞いていて思ったよ。聖書も同じで、人が宇宙に行く時代になって初めて味わえることが、いろいろとありそうだね。」
 エリはうなずいた。
「うん、本当にそうだよ。でも、聖書を書いた記者たちは宇宙ロケットのことなんか知らないから、そういう読み方はおかしい、と言う人たちもいるんだよね。それも一理あるけど、そういう伝統的な読み方に縛られていると福音はますます響かなくなって、聖書の読者は減る一方だと思うな。」
「私たちは聖書学の研究者を目指しているわけじゃないから、宇宙時代の読み方があっても良いよね。」
「僕もそう思うよ。神様は時空を超えた永遠の中にいるから、聖書を書いた記者に霊感を与えた時には21世紀の宇宙ロケットのことを知っていたんだよ。1世紀の聖書の記者は宇宙ロケットのことを知らないけど、神様は知っていた。その神様が記者に霊感を与えて書かれたのが聖書だよ。だから21世紀の読者の僕たちは聖書に宇宙を感じることができるんだよと思うな。」
「うん、うん。」
 エリとジュンが同時にうなずいた。
「でも、僕がこういう話を周囲の人たちに話しても、ぜんぜん伝わらないんだよね。どうしてかな?」
「そうだねー。」
 エリは少し考えて続けた。
「高い場所から聖書を読むことは、聖書全体を俯瞰することでもあるから、聖書の全体像をある程度知っている必要があるでしょ。教会では聖書全体を読む通読を推奨していると思うけど、途中で挫折する人も少なくないよ。聖書全体を読んでいない人に高い場所からの話をしても、伝わらないのは当たり前かもしれないよ。」
「そうかもしれないけど、僕の通っている教会では、聖書を何度も通読している人が割と多いよ。でも、伝わらないんだよね。」
 ジュンがノンに言った。
「ノン、聖書を読んでいる人がこれまでの読み方を変えるのは、難しいかもしれないよ。」
「なぜ?」
「聖書をよく読んでいる人は、いま受けている恵みだけで十分に満足している人が多いんじゃないかな。たとえばクリスマスの恵みは、地上で受ける恵みだから、別に高い所に昇る必要はないでしょ。」
「あっ、ホントだね。天の神様が御子のイエス様を地上の僕たちに遣わして下さったのは、本当に素晴らしい恵みだもんね。」
 うなずきながらジュンは続けた。
「クリスマスの恵みは、ホールの1階でピアノの演奏を聴く恵みと言えるかな。ホールの1階だと音が天井の方から降りて来て、包まれるんだよ。天の神様の愛が地上に降りて来て、私たちを包む、そういう感覚なんだよね。」
「きょうのワタシたちの4階席の恵みも素晴らしかったけど、1階席の恵みだけで十分だということだよね。」
「それから、やっぱり上へ昇ることへの抵抗感が聖書の読者の多くにあるような気が私はするな。」
「どうして?」
 エリとノンが同時に聞いた。
「クリスマスの恵みに加えて、十字架の恵みがあるからね。最後の晩餐の前にイエス様は低くかがんで弟子たちの足を洗い、それから十字架に向かったでしょ。イエス様ご自身が一番低い所に下りて行ったから、聖書の読者には上を目指すことへの抵抗感がどうしてもあるんじゃないかな。」
「そうかー。パウロもピリピ人への手紙で書いているからね。」
 エリが言うと、「これだね」と言ってジュンはスマホの聖書を読み上げた。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 エリは言った。
「このピリピ2章の6節から8節のメッセージは強烈だよね。この聖句が心と体に浸み込んでいたら、上を目指すことは考えられないことかもしれないね。」
「この十字架の恵みは、重力みたいなものだと思うな。重力は僕たちが生きていく上で欠かせないものでしょ。重力が無かったら、僕たちは地面にしっかりと足を下ろすことができないで、ふわふわとどこかへ漂って行ってしまうよ。空気も重力があるから地球上にとどまっていて、僕たちは空気を吸って生きていられるんだよ。水も重力があるから海や湖や地面から蒸発した水蒸気が雨粒になって落ちて来るんだよ。この水も、僕たちには欠かせないからね。」
 ドリンクで喉を潤して、ノンは続けた。
「重力が僕たちに欠かせないのと同じで、十字架の恵みも僕たちに欠かせないよね。イエス様が自らを低くして十字架の死に従ったから、僕たちの罪は赦された。そうして僕たちに平安がもたらされ、癒された。」
「イザヤ書53章だね。」
 ジュンが言って、聖句をまた読み上げた。

イザヤ53:3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

「ありがとう、ジュン。この平安は素晴らしいよね。でも僕たちは、十字架の恵みの重力に縛られてばかりいると、イザヤ書40章31節[前掲(連載18)]の鷲のように天高く昇って行くことはできないと思うんだ。人類が地球の重力を脱してロケットで宇宙に行くようになったように、時には十字架の恵みの重力から離れることも必要じゃないかな。」

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連載19(続編5)変貌山の体験は1世紀の特例か?

2024-12-23 06:53:01 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(5)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

第1章 響かない福音
変貌山の体験は1世紀の特例か?

 第12回浜松国際ピアノコンクールの入賞者披露演奏会で最後に演奏したのは優勝者のNo.74鈴木愛美だった。繊細な音が後方の4階まで届いて来る。2,000名を超える大ホールの観客全員の耳がピアノの音色に釘付けになっている。日常とはまったく異なる空間に置かれている幸福感に、エリもノンもジュンも浸っていた。
 演奏が終わり、舞台の袖に引き揚げた後も鳴り止まない拍手に促されて演奏者は再び舞台の中央に戻り、深々と頭を下げた。これが2度繰り返された後、今度は演奏者全員が舞台の袖から出て来たので拍手は一層大きくなり、カーテンコールが繰り返された。こうして11月8日から25日に掛けて行われたコンクールが幕を閉じた。
 午後9時にホールを出た三人は、静岡に帰るべく新幹線の改札に向かった。三人とも演奏会の余韻にそれぞれ浸っていた。まだ互いに感想を語り合う段階ではなく、もうしばらく余韻に浸っていたかった。21:35浜松発・22:01静岡着のこだま号に乗った後も、周囲の乗客への配慮もあって、互いにほとんど話さずに過ごした。やはりまだ一人で余韻に浸っていたかったのだ。
 コンクールで優勝した鈴木愛美は2002年生まれの22歳で、2001年生まれの三人とほぼ同世代だ。優勝者は再来年3月までの間に世界各地で約20回の演奏の機会――オーケストラとの共演とリサイタルがほぼ半々――が与えられる。多くの経験を積むことにより、優勝者は世界に向けて大きく羽ばたいて行くことができるのだ。
 今回のコンクールには世界47ヶ国1地域から638名が応募したとのことだ。応募者は音源と映像をアップロードする。それを審査委員が聴いて審査して、25ヶ国1地域の94名が出場資格を得た。
 出場者638名から94名に選ばれるだけでも大変なことだ。まして、1次~3次の予選を勝ち抜いて本選の6名に残り、さらに1位になることがどれほど大変なことか。静岡に向かう新幹線の中でエリはそのことを考えていた。エリは宇宙飛行士になりたいと思っている。NASAの宇宙飛行士の募集は数年に1度しか行われず、しかも2万人近くが応募して、そのうちの10名程度しか合格しないそうだ。つまり合格率は0.1%以下だ。数字上は浜松国際ピアノコンクールで勝ち抜くよりも難しいということになる。それでもエリは、次にNASAが宇宙飛行士を募集する時には応募したいと思っている。形だけの応募ではなく、合格するつもりで臨みたいと思っている。NASAは月や火星への有人飛行を目指している。単なる探査のためではなく、将来的には居住地とすることも目指していると聞く。エリの祖先のE.W.クラークは150年前に静岡で最初に聖書や理化学を教えたり、フロリダで農園を始めたり、開拓者精神に富んだ人だった。自分がその血を受け継いでいることを宇宙飛行士に応募する際にはアピールポイントの一つになるかもしれない。
 ノンは、大ホールの音響の良さの秘密を知りたいと思い、新幹線の車内ではずっとスマホで調べていた。2千人を超える聴衆が入っている大きなホールの一番後ろの方まで、どうしてピアノの音があんなにクリアに届くのだろうか。鍵盤を激しく叩いた時の大きな音なら不思議ではないが、繊細で微妙なタッチの音までが4階席にしっかりと届いていた。このことにノンは驚き。音響設計に関する解説を興味津々で読みふけっていた。
 ジュンは中ホールで感じたことと大ホールで感じたこととの違いについて考えていた。大ホールでは1階席のチケットが取れなくて4階席に座った。その4階席からはホール全体を俯瞰することができた。ピアノとピアニストだけでなく、1階席の観客をも見下ろすことができた。この高い所から見下ろす感覚について、宇宙飛行士にあこがれるエリと『荘子』の大鵬を愛するノンとで、語り合ってみたいと思っていた。
 こだま号が静岡駅に近づいて「間もなく静岡です」の車内放送が流れた時、ジュンはエリとノンに提案した。
「駅の近くの店に入って、三人で話がしたいな。明日も皆で会うけど、演奏会の感動の余韻が醒めないうちに分かち合いたいんだけどな。」
 エリとノンはすぐに反応した。
「ワタシも同じことを思ってたよ。」
「僕も。」
「じゃ、決まりだね。」


国際宇宙ステーションと地球と天の川(NASAホームページより)

 改札を出て三人は駅に近い店に入った。ドリンクと簡単な食べ物を注文すると、まずジュンは二人に謝った。
「きょうは4階席のチケットしか取れなくて、ごめんね。」
「大丈夫だよ。会場でも話したけど、国際宇宙ステーションから地球を見下ろしているような感覚で良かったよ。」
「僕もだよ。大鵬の気分だったし、あと羽田に着陸する前の飛行機からの夜景も思い出したな。」


羽田着陸前の飛行機からの夜景(2024年10月7日 筆者撮影)

「ありがとう。そう言ってもらえて安心したよ。私も中ホールの1階と大ホールの4階とで違う気分を味わえて良かったよ。ふとイザヤ書40章の聖句が思い浮かんだよ。」
 ジュンはそう言ってスマホの聖書を見ながらイザヤ書40章31節の聖句を小声で読み上げた。

イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

 ノンが言った。
「この鷲って、『荘子』の大鵬みたいだね。」
「うん、私もそう思う。よく言われることだけど、新しく得る力とは聖霊の力だと思うんだよね。主を待ち望む者は聖霊の力を受けて、鷲が上昇気流に乗って天高く舞い上がるように私たちも神様に近い高い所まで昇って行くことができるんだよね。」
 エリが大きくうなずいて言った。
「神様に近い高い所に昇るというと、それは傲慢だと嫌う人がいるよね。バベルの塔の時代の人々は、そういう思い上がりのために神様に罰せられたと言って。でも、聖霊を受けていないバベルの塔の時代の人と、聖霊を受けるようになって以降の人とはぜんぜん違うと思うんだよね。」
「僕も同感だよ。聖霊が上に所に昇らせてくれるのだから、それは神様が高い所に連れて行ってくれるということだよね。バベルの塔を造ろうとした人々は自力で高い所に行こうとしたから、神様が阻止したんだ。」
「神様が人を高い所へ連れて行った例が、他にもあるよ。」
 ジュンがそう言ってスマホの聖書を見ていると、エリが聞いた。
「エゼキエル書かな?確か40章の始めの方に、エゼキエルが非常に高い山の上に降ろされたという箇所があるよね。」
「うん、それもあるよね。でも、もっと良く知られている箇所があるよ。イエス様が高い山の上で神の姿に変貌したという記事だよ。」
 そう言ってジュンはマタイの福音書17章の1節と2節を読み上げた。

マタイ17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

「ナルホド!この変貌山の記事はマルコの福音書とルカの福音書にもあるから、エゼキエル書よりも、よく知られているね。」
「うん。ペテロとヤコブとヨハネはイエス様に連れられて高い山に登り、神としてのイエス様の姿を見たんだよ。下界では人間としてのイエス様の姿を見ていたけど、神様に近い高い所に連れられて行ったことで、神様の姿を見ることができたんだよ、そして、これは21世紀の私たちも経験できることだと私は思っているんだよ。」
「でも、イエス様と一緒にいた1世紀のペテロたちとワタシたちとは違うよね。どうして21世紀のワタシたちがペテロたちと同じ経験ができるの?」
「私たちもイエス様を信じて聖霊を受けるなら、心の目で神様を見ることができるようになるでしょ。」
「心の目って、霊的な目のこと?」
「うん、そうだよ。聖霊の力を受けて鷲のように高い所に昇ると、神様としてのイエス様の姿が心の目で見えるようになるんだよ。だから、21世紀の私たちでも神様としてのイエス様の姿を見ることができるんだよ。」
「そうかー。ワタシがモヤモヤしていたことが、晴れてクリアになった気がするよ。サンキュー、ジュン。」
「どういたしまして。でも、エリは何にモヤモヤしていたの?」
「21世紀になってから、国際宇宙ステーションにはいつも人がいる状態になったでしょ。1世紀の人たちは高い所に行くと言えば高い山に登るくらいしかなかったけど、20世紀以降は飛行機やロケットで山よりも高い所へ行くことができるようになったよね。しかも、21世紀になってからはSNSを通じて誰もが手軽に国際宇宙ステーションからの地球の画像を見ることができるようになったでしょ。NASAや宇宙飛行士たちが毎日のようにSNSで発信してくれているからね。そういう21世紀を生きる私たちは、20世紀までとは違う聖書の読み方があるんじゃないかと、前から思っていたんだ。でも、もしかしたらそれはバベルの塔を造った人たちのような思い上がりじゃないかという気もして、何となくモヤモヤしていたんだ。でもジュンがイザヤ書とマタイの福音書を引用して説明してくれて、それが思い上がりじゃないと分かってスッキリしたよ。自力じゃなくて、神様が高い所へ連れて行って下さるんだからね。」
「お役に立てて、うれしいな。」
「科学の発達に伴って聖書のことばが届きにくくなり、福音が以前よりも響かなくなっているよね。でも、科学によって人類は高い所からの視座を新たに得たのだから、むしろ福音が響きやすくなっていると思うんだよね。だから21世紀のワタシたちは、高い所からの視座を意識した聖書の読み方をもっと取り入れるべきだと思うな。これが思い上がりじゃないと分かってスッキリしたよ。ありがとう、ジュン。」

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連載18(続編4)再会

2024-12-16 11:26:01 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(4)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

再会
 2週間後の11月25日の月曜日、ジュンは再びアクトシティを訪れた。きょうは浜松国際ピアノコンクールの入賞者披露演奏会をエリとノンとの三人で聴くことになっている。コンクールの1次・2次・3次の予選は中ホールで行われ、本選は大ホールで行われた。きょうの演奏会も大ホールで行われることになっている。2週間前は中ホールの入口の前にあった94名の参加者の写真が、大ホールの入口へ上がる階段前に移されていた。そして1次予選の時にはなかった花が、予選通過者に添えられていた。1次予選通過者は24名、2次の通過者は12名、3次予選から本選に進めたのは6名だ。本選に進んだ6名には三つの花が添えられている。


コンクール最終日の94名の写真。予選通過者には花が添えられている。(2024年11月25日 筆者撮影)

 参加者の写真を眺めていたジュンが横を見ると、いつの間にかエリとノンが隣にいた。
「わー、久しぶりだね!」
「ハロー。」
「お久しぶり。」
 三人は挨拶を交わした。そして、ノンが説明した。
「偶然、エリと新幹線の改札を出たところで会ったんだよ。」
 三人が会うのは昨年の12月以来、約1年ぶりだ。三人で改めてコンクール参加者の写真を眺めた。花がない参加者と花が添えられている参加者の写真を見てエリが言った。
「第2次予選に進めるのが24名だけなんて、随分と厳しいね。3次はそのまた半分、本選はさらに半分。コンクール参加者は、どんな心境で演奏に臨むんだろうか?」
 ジュンが答えた。
「恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を読むと良いよ。この浜松国際ピアノコンクールの参加者のピアニストたちがモデルの小説だからね。日本語の勉強にもなると思ってエリにプレゼントするつもりで買ってあるから、静岡に戻ったら受け取ってほしいな。」
「サンキュー、ジュン。うれしいよ。ノンにもらった『宇宙からの帰還』も2度読んだけど、そのピアニストの本も読むようにするよ。楽しみだな~。」
 三人が話していると周りの人々が大ホール入口への階段を上り始めた。開場したようだ。エリとノンとジュンも入口に向かった。三人の席は4階席だ。チケットはジュンがネットで予約した。4階までは、階段を延々と上らなければならない。ノンが言った。
「僕たちは若いから良いけど、お年寄りにはこの階段はきついだろうね。」
 ジュンが苦笑しながら答えた。
「エレベーターもあるから、大丈夫だよ。私もエレベーターにすれば良かった・・・。図書館ではずっと座って仕事をしていることが多いから、私には少しきついよ~。エリは大丈夫?」
「ワタシはフォーレスト・ヒルズの上り坂をいつも急ぎ足で上っているから、大丈夫だよ。」
「そっかー。私も図書館への行き帰りは自転車じゃなくて歩くようにしようかな。」
「僕も研究室にこもっていることが多いから、もっと体を動かすようにしたほうが良さそうだね。」
「ハハハ、ワタシたちは何だか年寄りみたいな会話をしているね。」
「ごめんねー。私がエレベーターにすれば良かったなんて言ったから。」
 話している間に三人は4階席のフロアに着いた。4階からステージを見下ろすとライトを浴びたヤマハ、カワイ、スタインウェイの3台のピアノが置かれているのが見えた。


アクトシティ大ホールの4階席付近からステージを見下ろす(2024年11月25日 筆者撮影)

 エリが言った。
「国際宇宙ステーションから地球を見下ろしているような感じがするなー。」
「僕も大鵬が下界を見下ろしている光景を思い出したよ。」
「タイホウ?」
「『荘子』の最初に出て来る巨大な鳥だよ。」
「あーっ、前にノンが話していた中国の古い本のことだね。北にいる巨大な魚が鳥に変身して天高く上り、南を目指して飛ぶと言っていたね。」
「そう、その鳥が大鵬だよ。」
 ジュンも話に加わった。
「ノンから『荘子』の話を聞いて、私も市立図書館で借りて<内篇>を読んだよ。話がものすごく大きいのがいいよねー。」
「でしょー。エリにも読んでもらいたいから、『荘子』の<内篇>をプレゼントするよ。」
「サンキュー、ノン。読まなきゃならない本がまた増えたね。ジュンのピアニストの本の後で読むようにするよ。」
 そうして演奏会が始まった。2週間前に中ホールで聴いた時とはまた違う感動をジュンは覚えた。中ホールでは1階席で聴いていたため、ピアノの音が天井から降りて来るように感じた。そうして体全体が音に包まれた。今回は大ホールの4階席だ。音が下から上へ立ち昇って来ることを感じる。そして、このピアノの音の上昇気流に身を委ねているような感覚だ。ジュンはふと、イザヤ書40章の聖句が心に浮かんで来た。

イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

ワシやタカは上昇気流に乗って天高くまで舞い上がる。主を待ち望む者も同様に聖霊の力を新しく得て高く昇り、天の神に近づいて行く。国際宇宙ステーションを愛するエリも『荘子』の大鵬を愛するノンもイザヤ40章31節のワシを愛する自分も、みな天高くに昇って行くことを夢想する同類だなとジュンは思いながら、演奏に聴き入っていた。

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連載17(続編3)浜松国際ピアノコンクール

2024-12-16 09:10:53 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(3)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

浜松国際ピアノコンクール
 11月前半の月曜日、ジュンは沓谷(くつのや)の自宅から自転車で静岡駅に向かった。静岡学問所の学生であった順三から6代目のジュンの自宅の近くには蓮永寺がある。かつて蓮永寺にはE.W.クラークの宿舎があった。蓮永寺の裏には谷津山があり、山はクラークの散歩道になっていた。ジュンは谷津山のふもと沿いのカーブの多い細道を抜けて駅に向かった。
 ジュンは大岩にある市立の中央図書館に勤めている。ジュンは紙の本が大好きだ。本の著者たちは執筆に莫大なエネルギーを注ぎ込む。本とはそうしたエネルギーの塊りだとジュンは思う。本は声を発するわけではないので沈黙しているが、ジュンは無言の声を時おり感じることがある。忙しくしていると、その声を感じることはない。しかし、ふと我に返ると聞こえて来る気がする。無言の声を発する本の代表は聖書だ。しかし、聖書でなくても本が自分に語り掛けて来るのを感じて手に取ることがある。そのような本からは多くの心の糧が得られる。そういう本との出会いをジュンは大切にしている。それゆえ本に囲まれて仕事ができることを、とても感謝に思っている。
 浜松へは新幹線を利用するつもりだ。きょうは午前10時半から午後8時半まで1日中多くの演奏を聴く。コンディションを整えるために、時間が掛かる在来線は利用しないことにした。静岡駅から浜松駅までは、こだま号で30分ほどだ。浜松に着くまでには安倍川、大井川、天竜川の三つの一級河川を渡る。新幹線は河口付近を走るので、川幅がとても広い。沿線は田畑が広がっている地域も多い。短い時間だがジュンは車窓の景色を楽しんだ。
 天竜川を渡ると「間もなく浜松駅に到着します」という車内アナウンスが流れて、右側の窓の外にアクトシティのビルが見えて来た。ジュンはゆっくりと降り口のドアに向かった。午前10時前、ジュンは浜松駅のホームに降り立った。


新幹線とアクトシティ浜松(2024年11月11日 筆者撮影)

 2024年11月8日~25日に、第12回浜松国際ピアノコンクールがアクトシティの中ホールと大ホールで開催された。この日、ジュンはコンクールの第1次予選の演奏を聴くために浜松に来た。改札を出てアクトシティに近づくと、コンクールの大きなポスターがビルの壁面に掲げてあるのが見えた。


ビルの壁面のポスター(2024年11月11日 筆者撮影)

 階段を降りて地下にある中ホールの入口に来ると、長い行列ができていた。午前10時の開場を待っていた人たちだ。入場は既に始まっていた。列の後方に「最後尾」の札を掲げている人がいたので、ジュンはそこに並んだ。会場への入口にはコンクールの出場者の写真が並んでいる。予備審査を通過して出場資格を得た94名の写真がある。このうちの7名は出場を辞退したとのことで、第1次予選は87名で行われていた。第1次予選は5日間の日程で行われ、24名が第2次予選に進むことができる。


出場資格を得た94名の顔写真(2024年11月11日 筆者撮影)

 この日は第1次予選の3日目だった。1次予選は自由席だ。まだ1次予選で平日でもあるためか、一般客用の1階席には空席が多くあった。ジュンは演奏者が近くから見える前方の席を確保してからロビーの売店でブログラムを買い求めた。ちなみに2階席は審査委員用だ。開演時刻の10時半の少し前に11名の審査委員たちが談笑しながら2階席に入って来て座った。

 そして午前10時半、この日の最初の演奏者が舞台に現れた。No.60のホセ・ナバロ=シルバーシュタイン、29歳のドイツ人だ。プログラムを見ると31歳や32歳の者も散見される。3年に一度開催される浜松国際ピアノコンクールの年齢制限は、いつも通りなら30歳以下だ。しかし、2021年の前回のコンクールが新型コロナウイルスの影響で中止になったため、今回は特例で年齢制限が33歳に引き上げられていた。


コンクールのプログラム

 演奏が始まった途端、ジュンは中ホールの音響の良さに驚いた。ピアノの近くの席に座っているのに音がピアノの方から聴こえて来るのではない。音が天井から降りて来るようにして体全体を包み込む。ピアノの音がホール全体に響き渡っているのだ。鍵盤を軽くタッチしただけの時でも十分な音量が耳に届き、鍵盤が激しく叩かれた時には大音量がホール全体に充満する。そして曲の終りでは右ペダルが踏まれている限り、弦の音が緩やかに減衰しながら響き続ける。こんなに音響の良いホールで音楽を聴いたのは初めてだ。ジュンは感激した。
 これまでにジュンは単独のピアニストのピアノ・コンサートなら何度も聴きに行ったことがある。しかし、コンクールの演奏を聴くのは初めてだった。それゆえ、演奏者の交代時にはピアノが入れ替わる様子も興味深かった。演奏者はヤマハ、カワイ、スタインウェイの3つのメーカーのピアノのどれかを選ぶことになっている。2人連続で同じメーカーのピアノが使われる場合もあったが、ほとんどの場合は入れ替わる。調律師が手際よくピアノを入れ替えるため、あまり時間を掛けずに次の演奏者に交代できていた。この手際の良さを、さすがプロの仕事だなとジュンは感心しながら見ていた。


アクトシティ中ホールに置かれたShigeru Kawai(2024年11月11日 筆者撮影)

 ホールの音響が良いので、メーカーによる響き方の違いも良く分かった。ネット配信された音を自宅で聴く時には、ホールほどには違いが分からない。それゆえ音の響きをホールで実際に聴くことができて、ジュンは感動した。そして思った。
「ピアノと聖書は良く似ている。」
 ピアノのハンマーが弦を叩く音は、ホール全体に響き渡る。鍵盤が同時に押される和音だけでなく、時間遅れで鍵盤が押された音も次々と重なって行く。ピアニストの右手は時に左手と交差して左指のさらに低音の鍵盤をも弾き、低音と高音とが重ねられて行く。この重厚な音の重なりは、まさに聖書だ。ピアノの88の鍵盤は、聖書の66書と言えそうだ。旧約聖書には創世記~マラキ書の39書が、新約聖書にはマタイの福音書~ヨハネの黙示録の27書があり、聖書全体で66書が重なり合っている。ヤマハやカワイ、スタインウェイやベヒシュタインなどのピアノの違いは新改訳や新共同訳、聖書協会共同訳や口語訳などの違いと言えるだろうか。そして豊かな音の響きをピアノから紡ぎ出して弾くのがピアニストであり、豊かな神のことばの響きを聖書から紡ぎ出して語るのが牧師だ。このことのためにピアニストの卵は音楽学校に通い、牧師の卵は聖書学校に通う。そして卒業後は両者ともさらに修錬を重ねる。
 ピアノは鍵盤を叩けば誰でも音が出せる楽器なので、初心者でも楽しめる。聖書もページをめくりさえすれば、そこに神のことばが書かれているので、やはり初心者でも楽しめる。そういう点でもピアノと聖書は似ていると思う。ピアノに向かう時、人は日常を離れることができる。様々な労苦から一時的に離れて心身を音楽にゆだねることができる。聖書に向かう時も、人は心身が軽くなることを感じる。日常生活の重荷から解き放たれて、湯がたっぷりと満たされた浴槽に浸っているような幸福感を感じることができる。
「ピアノと聖書は似ている。」
 この新たな発見を、ジュンは友人たちと早く分かち合いたいと思った。アメリカのエリと札幌のノンとは時おりWeb会議で歓談を楽しんでいる。でも、やはり実際に会って話すほうが遥かに親近感が湧く。コンクール最終日の11月25日の入賞者披露演奏会は、三人で一緒に聴くことになっている。再会の時まで、あともう少しだ。

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連載16(続編2)羽田~新千歳便

2024-12-11 15:05:52 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(2)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

羽田~新千歳便
 2024年10月、東京での用事を終えたノンはモノレールで浜松町駅から羽田空港に向かった。窓の外には東京タワーが見える。これから飛行機で札幌に戻るところだ。
 東京に来てJR山手線や東急・東横線などに乗ると、ノンはいつも人の多さに圧倒される。札幌も人は多いが、東京は段違いに多い。札幌では少し郊外に出れば広々とした大地が心を癒してくれるが、たまにしか東京に来ないノンには心が休まる場がない。羽田に向かうモノレールで東京タワーを眺める時が、唯一ホッとする時間と言えるかもしれない。
 東京の人の多さは大志を抱くことを妨げる、最近のノンはそう考えている。これだけ人が多いと、他人にできないことを自分が成し遂げたいなどと考える自分が愚かに思えて来る。そうして知らず知らずの間に委縮してしまう。大きなことを考え、大志を抱くことなど恥ずかしいことだと、つい思ってしまう。逆に札幌にいる時は伸び伸びと過ごし、自然と大きなことを考えるようになる。札幌の風土が自分には合っているとノンは感じている。


下北半島の東側の突端の尻屋崎(2024年10月5日 筆者撮影)

 飛行機の窓から下北半島の東側の突端の尻屋崎が見えて来た。あともう少しで北海道だ。国内線の飛行機に乗る時、ノンは窓側の席を予約するのが常だ。地上の様子を眺めるのが好きだからだ。飛行機の窓から地上を見おろす時、大空を飛翔する大鵬の心境になる。大鵬はノンの愛読書『荘子』の冒頭に登場する巨大な鳥だ。

 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。[『荘子』(森三樹三郎 訳、中公文庫)]

 大鵬が飛翔する時、九万里の高さまで上昇するとのことだ。

 鵬が南のはての海に移ろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。[同上]

 古代中国の1里が0.5kmだとすると、九万里は45,000kmだ。静止衛星の高度が約36,000kmとのことなので、大鵬は気象衛星「ひまわり」よりも高い所を飛んでいることになる。ちなみに国際宇宙ステーションの高度は約400km、羽田~新千歳便の高度は約10kmほどだそうだ。
 ノンは『荘子』の冒頭の場面を読む度に、その壮大さにうっとりとする。『荘子』を読み始めたきっかけは、湯川秀樹の著書にたびたび登場して興味を持ったからだ。物理学者の湯川秀樹は中間子の存在を予言して日本人で最初にノーベル賞を受賞者した。ノンは自分もいつかノーベル賞級の大きな仕事をして世界に向かって大鵬のように羽ばたきたいという大志を抱いている。東京にいたら、こんな大それた大志を抱くことなど決してなかったであろう。
 新千歳空港に着いた時、まだ夕刻前だったのでノンは北大の研究室に向かうことにした。ノンが所属する研究室は工学部棟にある。空港から札幌駅までJRの快速「エアポート」に乗り、駅から工学部まで歩くことにした。荷物がある時は地下鉄で北12条駅まで乗ってから工学部に向かったほうが楽であるが、きょうは北大のキャンパス内を歩きたい気分だ。




北大の正門[上]・中央ローン「下](2024年10月5日 筆者撮影)

 正門から北大構内に入ると、小川が流れる中央ローンが見える。ここは北大生だけでなく、札幌市民の憩いの場でもある。そして、中央ローンの端にはクラーク像が建っている。北大に入学したばかりの頃のノンは、W.S.クラークにそれほど興味を持っていなかった。しかし、自分の祖先の信次が明治初期の静岡学問所の学生でE.W.クラークから教えを受けていたことを知って以来、W.S.クラークに関心を持つようになった。北大や羊ヶ丘展望台のW.S.クラークの銅像には、大勢の観光客がほとんど絶えることなく来て記念写真を撮っている。一方、静岡にE.W.クラークの銅像はない。静岡出身のノンは、E.W.クラーク像も早く静岡に建つことを願っている。




北大のクラーク像「上]・メインストリート[下](2024年10月5日 筆者撮影)

 工学部へ行くには北大構内を南北に走るメインストリートを北上する。入学以来、このメインストリートを何度通ったことだろう。ノンは大学院の1年生だ。北大に入学してから4年半が経ったから、もう千回以上は通っているだろうか。北大キャンパスを南北に貫くこの道を歩くことが日常の一部になっている。ノンの心身は広大な北大キャンパスと一つになって馴染んでいた。このことが大志を育む要因にもなっているのだろう。北大に来ることは生まれた時から決まっていたように感じている。高校生の時は、他の大学を目指していた時もあった。しかし、いつしか北大を目指すようになっていた。そこには神様の導きがあった。今のノンはそんな風に思っている。


工学部棟への入口(2024年10月5日 筆者撮影)

 ノンは毎日のほとんどを工学部棟の研究室で過ごしている。賃貸のワンルームの部屋には深夜に寝に帰るだけで、早朝にまた研究室に戻る。時には研究室に泊まることもある。日曜日も午前中に教会の礼拝に出席した後は研究室に戻ることも少なくない。それゆえ研究室が自分の「家」のような気がする。東京から我が家に帰ったノンはまた、研究の日々に戻った。
 ノンが次に飛行機に乗るのは11月下旬の予定だ。静岡でエリとジュンに会うことになっていて、休暇の許可も研究室からもらっている。静岡では、三人で浜松国際ピアノコンクールの入賞者披露演奏会を聴くことになっている。このピアノコンクールの歴代の優勝者の多くは世界で活躍するピアニストとして羽ばたいて行った。それゆえ世界に向けて羽ばたきたいという大志を抱いた若いピアニストたちが浜松に集う。このコンクールの入賞者の演奏を現地で聴くことで、ノンもまた自分の大志の実現へのエネルギーをもらいたいと願っている。

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『福音の新発見』目次・参考文献

2024-12-11 13:26:30 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(連載15~)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

【目次】(案)
序章 日常からの離陸
 ケネディ宇宙センター
 羽田~新千歳便
 浜松国際ピアノコンクール
 再会

第1章 響かない福音
 変貌山の体験は1世紀の特例か?
 十字架の恵みの重力
 福音が響くためには…
 もつれ合う天動説と地動説

第2章 福音の新発見
 もつれ合う旧約と新約
 旧約と新約がもつれ合う福音書
 天動説から地動説への巣立ち
 預言者のことば=イエスのことば(1)
 預言者のことば=イエスのことば(2)
 預言者のことば=イエスのことば(3)
 預言者のことば=イエスのことば(4)
 献金箱に隠れたイエス
 イエスの公的な言動を記した旧約聖書
 バビロン捕囚からエルサレム復興まで
 「夫が五人」の謎解き
 「ニコデモ」の謎解き
 「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」の謎解き
 「まさにイスラエル人です」の謎解き

第3章 福音の奥義
 神様は豊かなお方
 三位立体の書
 イエスを信じる=聖霊を受ける
 ヨハネ4章のもう一つの読み方・その1
 ヨハネ4章のもう一つの読み方・その2
 ヨハネ4章のもう一つの読み方・その3
 旧約の時代と新約の時代の間を自由に移動するイエス
 愛弟子は私たち自身
 ヨハネも私たち自身
 すべてを手放した十字架のイエス

第4章 平和への道
 戦災に涙するイエス
 父・子・聖霊の重厚な愛
 永遠への招き
 恵みの高き嶺

終章 祈り



【参考文献】(順次追加します)
・スコット・マクナイト『福音の再発見――なぜ救われた人たちが教会を去ってしまうのか(新装改訂版)』(中村佐知 訳)、キリスト新聞社、2020年。
・E・W・クラーク顕彰事業実行委員会編『エドワード・ウォレン・クラークと明治の静岡/日本/アメリカ』(E.W.クラーク来静150周年記念シンポジウム・パンフレット)、2021年。
・『第12回浜松国際ピアノコンクール公式プログラム』浜松国際ピアノコンクール事務局、2024年。
・エドワード・ウォレン・クラーク『日本滞在記』(飯田宏 訳)、講談社、1967年。
・エドワード・ウォレン・クラーク『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』(E・W・クラーク顕彰事業実行委員会 訳)、静岡新聞社、2023年。
・ジョン・エム・マキ『W・S・クラーク その栄光と挫折(新装版)』(高久真一 訳)、北海道大学出版会、2006年。
・恩田陸『蜜蜂と遠雷』幻冬舎、2016年。
・小島聡『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』ヨベル新書、2017年。
・荘子『荘子 内篇』(森三樹三郎 訳註)、中公文庫、1974年。
・立花隆『宇宙からの帰還』中公文庫、1985年。
・立花隆『宇宙を語るⅠ――宇宙飛行士との対話』中公文庫、2007年。

【参照・引用サイト】
・聖書理解の【天動説】から【地動説】への移行が平和をつくる:S.KOJIMAブログ
 https://blog.goo.ne.jp/numazu-c/e/eb98e8e4a38f0b73aed11929b22b5a6b
・グーグルマップ
 https://www.google.com/maps/
・ファルコン・ヘビー・ロケットの写真:NASAホームページ
 https://www.nasa.gov/news-release/liftoff-nasas-europa-clipper-sails-toward-ocean-moon-of-jupiter/
・国際宇宙ステーションと地球と天の川の写真:NASAホームページ
 https://www.nasa.gov/image-article/milky-way-time-lapse/
・浜松国際ピアノコンクール
 https://www.hipic.jp/
・アクトシティ浜松
 https://www.actcity.jp/
・NASAの宇宙飛行士募集:ビジネスインサイダー ホームページ
 https://www.businessinsider.jp/post-283903
・その他、多くの項目でGoogle、ChatGPT、Wikipediaを参照した。
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連載15(続編1)ケネディ宇宙センター

2024-12-09 14:19:02 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(1)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献


序章 日常からの離陸
ケネディ宇宙センター

 ニューヨーク市のクイーンズ区に「フォーレスト・ヒルズ」と呼ばれる一帯がある。訳すと「森の丘」だ。しかし、かつてここが森であったことを証しするものは何もない。様々な建物が立ち並び、縦横に走る道路の両端には縦列駐車の車が延々と並ぶ。その一方で「丘」はそのまま残っていて、道路の多くは緩やかな坂道になっている。


エリが住むフォーレスト・ヒルズのアパート(Googleのストリートビューより)

 E.W.クラークの6代目の子孫にあたるエリは、このフォーレスト・ヒルズの住人だ。エリは6階建てのレンガ造りのアパートの5階に住んでいる。このアパートは1960年代には既に存在したと聞くので、建てられてから少なくとも60年は経過している。アメリカの東海岸は西海岸や日本と違って地震は滅多に起きない。それゆえであろうか、築年数が100年前後の建物も少なくない。


エリのアパートの向かいにある公園と小学校(Googleのストリートビューより)

 アパートの向い側には公園と小学校がある。エリは、この小学校の卒業生だ。この学校の校舎もレンガ造りだ。1951年に建てられたので築73年になる。今23歳のエリはこの地区からマンハッタンにある大学院に地下鉄で通っている。最寄りの63ドライブ駅は坂を上がって1kmほどの所にある。大した距離ではないが、遅刻しそうになって急ぐ時は、登り坂なので少しきつい思いをする。


エリが卒業したパブリック・スクール175(Googleのストリートビューより)

 2024年10月、エリは63ドライブ駅からジャマイカ駅に向かった。JFK国際空港からフロリダ州のオーランド行きの飛行機に乗るためだ。ジャマイカ駅はマンハッタンとは反対方向にある。まず63ドライブ駅から2駅先のフォーレスト・ヒルズ駅まで各駅停車で行き、そこで急行に乗り換える。そしてジャマイカ駅でエアトレインに乗り換えて空港に向かう。


地下鉄63ドライブ駅への降り口(Googleのストリートビューより)

 オーランドでは、ケネディ宇宙センターから打ち上げられるロケットを見ることにしている。エリは年に1回はロケットの打ち上げを見に行く。初めて打ち上げを見たのは10歳の頃だった。フロリダにはかつてE.W.クラークが経営していた農園「Shidzuoka(静岡)」があった。その農園の跡地を両親と一緒に訪ねた後でスペース・シャトルの打ち上げを見たのだ。それ以来、ロケットに夢中になってしまった。中学生の時までは親にせがんでフロリダに連れて行ってもらったが、高校生になってからは友人たちと見に行くようになり、一人の時もある。きょうはエリ一人だ。
 オーランドにはウォルト・ディズニー・ワールドやユニバーサル・オーランド・リゾートなどのテーマパークもある。そのため、世界中から多くの人々が集まる。この日、エリは空港の近くのホテルに泊まり、翌日はレンタカーでロケットの打ち上げが見られる海岸まで行くことにしている。
 翌日、ロケット発射台の方角が見渡せる海岸に着くと、既に多くの人々が集まっていた。皆それぞれ思い思いの方法で時間を過ごしながら打ち上げの時を待っている。エリは読書をしながら過ごした。立花隆の『宇宙からの帰還』を読んでいて、今は2度目を読んでいる。日本語が中上級レベルのエリにとって、上級レベルのこの本はまだ少し難しいが、日本語の勉強のつもりで読んでいて、2度目の今は1度目よりも内容が良く理解できるようになったと感じている。
 3年前、エリは親戚からE.W.クラーク来静150周年記念シンポジウムのことを聞いた。2021年の12月に、このシンポジウムが静岡で開催されるとのことだった。エリはまだ日本を訪れたことがなかったので、このシンポジウム開催を機に日本へ行こうと思った。そうして日本語の勉強を始めた。残念ながら新型コロナウイルスの関係で日本行きを見合わせたが、日本語の勉強は継続していた。そして昨年12月の「大志の丘150周年」では念願の訪日が実現してノンとジュンにも会うことができた。ノンは静岡学問所の学生であった信次の子孫で、ジュンは順三の子孫だ。聖書の事などの難しい話題は英語で話したが、それ以外はなるべく日本語で話すようにしたことで上達し、アメリカに戻ってからも日本語の学習に励んでいる。『宇宙からの帰還』は、静岡でノンからもらったものだ。
 今回の打ち上げはファルコン・ヘビー・ロケットだ。スペースX社のファルコン・ロケットは国際宇宙ステーションへの宇宙飛行士の輸送も担っている。20世紀末に運用が開始された国際宇宙ステーションは、2000年11月からは人が常に滞在している。つまりエリとノンとジュンが2001年に生まれた時には、絶えず宇宙に人がいる時代になっていた。そして2020年代の今は国際宇宙ステーションの公式アカウントが船内活動や地球の様子の画像をX(旧ツイッター)やインスタグラムなどのSNSで毎日欠かさず発信している。1960年代~90年代には一般の者が宇宙からの映像を見ることができたのはロケットが打ち上げられた時だけで、しかもテレビで見られるだけだった。しかし21世紀には国際宇宙ステーションとSNSによって宇宙がずっと身近な存在になった。エリもノンもジュンも国際宇宙ステーションから送られる画像を見ながら子供時代を過ごした。
 そういうわけで21世紀生まれのエリは、聖書も20世紀までとは異なる読み方があるのではないかと考えている。祖先のE.W.クラークは19世紀後半の1871年の12月17日に静岡で最初のバイブル・クラスを開いた。クラスには静岡学問所の英学の教師たちと学生たちが参加して、聖書の教えを熱心に学んだ。乾いたスポンジが水を吸い込むように聖書のことばを吸収して彼らの魂は潤された。しかし21世紀の今、アメリカ人も日本人も聖書のことばへの飢え渇きは希薄になってしまった。聖書の魅力を周囲の人々と分かち合えないことにクラーク6世のエリはもどかしさを覚えている。1ヶ月半後の11月の下旬には静岡でまたノンとジュンと再会することになっている。その時には、この問題を三人で話し合いたいと思っている。この件は三人のWeb会議でも時おり話題になる。しかし、やはり実際に顔を合わせて、もっと深い議論をしたいと望んでいる。エリは11月下旬を待ち遠しく思っている。


2024年10月にケネディ宇宙センターから打ち上げられたファルコン・ヘビー・ロケット(NASAホームページより)

 発射時刻までのカウントダウンがゼロになった。大量の水蒸気に包まれた発射台からロケットが静かに上昇を始めて、徐々に加速して行く。ロケットの後方から噴射される煙の筋を残しながらロケットは空の彼方に消えて行った。後に残された煙は地面に近い所ほど大きく広がっている。わずか数分のこのロケット発射を見るためにわざわざニューヨークからフロリダまで出掛けて来る。それはエリが、いつか自分も宇宙に行きたいという大志を抱いているからだ。ロケットの発射の見学はこの気持ちを鼓舞し、励ましてくれる。高く上がったロケットの方向を見上げながら、大志の実現をエリは祈り続けていた。

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連載14(最終回)終章 150年後の大志の丘

2024-10-30 08:38:00 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(14)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

終章 150年後の大志の丘
 そして150年後の2023年12月、三人の青年たちが賎機山の頂に立っていた。クラーク6世のエリ、信次6世のノン、順三6世のジュンだ。偶然だが、三人とも2001年生まれだ。三人は2021年12月に静岡のグランシップで開催された「クラーク来静150周年記念シンポジウム」で会うことにしていたが、アメリカに住んでいるエリはコロナが収束していない日本への渡航を見合わせた。それで三人は、2年後の「大志の丘150周年」の機会には是非とも静岡で会おうと約束していたのだ。ノンとジュンがエリと対面で実際に会うのは初めてだった。この2023年12月にはクラーク著『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』も静岡新聞社から翻訳出版されて、クラークの静岡での働きが再認識され始めていた。明治初期の静岡で青年たちが大志を抱いていたことは、三人の6世たちの励みになっている。
 賎機山の山頂には「静岡市戦禍犠牲者慰霊塔」と「B29墜落搭乗者慰霊碑」が建っている。1945年6月19日の深夜から20日未明にかけて123機のB29が静岡市を爆撃した。この空襲によって静岡市の中心部は焦土と化し。死者1,952名以上,負傷者5,000名以上、焼失戸数26,891戸の戦災に遭った。それ以前にも静岡では三菱重工業の発動機製作所や住友軽金属プロペラ製造所などへの爆撃によって260名以上が死亡していた。クラークが58歳で亡くなった1907年頃まで、日米関係は良好であったが、その後は悪化に転じていたのだ。そして1941年12月に日本軍の真珠湾攻撃により日米開戦に至る。1871年12月にクラークが来静してから70年後に、日米関係は最悪の状態に陥った。
 日本の多くの市街地がB29による大量の焼夷弾の投下によって焼かれ、静岡も1945年の6月19~20日の大空襲では上記の甚大な被害を被った。その際、2機のB29が空中衝突して両機の搭乗員23名全員が墜落死した。賎機山の「B29墜落搭乗者慰霊碑」は、この23名のアメリカ兵のために建てられた。終戦後に日米関係は再び良好な状態に戻ったのだ。しかし、沖縄を中心とした在日米軍基地の問題などが依然として残されていて、対等な関係にはない。広島・長崎への原爆投下を正当化する世論もアメリカには根強くある。核兵器を配備することで核戦争を抑止することができるという核抑止論を根拠に核保有を続ける国や、日本のように核の傘の下にある国も多く存在して、核兵器廃絶への道を険しいものにしている。順三6世のジュンは、核兵器の廃絶によって平和への道をつくる働きに携わっている。
 核兵器の問題以外にも21世紀の現代にはクラークの時代には存在しなかった問題が様々にある。たとえば激甚な気象災害をもたらす気候変動の問題や、AIの負の側面の問題などだ。1870年にアメリカのロックフェラーがスタンダード石油会社を創立したことから始まる石油事業の本格化は化石燃料の使用を加速させた。石炭と石油の大量使用は大気中の二酸化酸素の濃度を増大させて、これが温暖化の主要な要因とされる。海水温が上昇したことで雨雲に大量の水蒸気が供給されて大雨が降りやすくなった。台風も勢力を増す傾向にある。2022年の9月には静岡市も台風15号によって土砂災害、河川の氾濫による浸水、長時間の停電と長期間の断水によって大きな被害に遭った。信次6世のノンは気候変動の問題に大きな関心を寄せていて、研究者を目指している。
 クラークが51歳の時の1900年、物理学者のプランクがエネルギーの量子仮説を唱えたことで量子力学の扉が開かれた。その少し前の1895年には陰極線の研究をしていたレントゲンがX線を発見した。そしてX線を発生させる陰極線の正体が荷電粒子の電子であることをトムソンが明らかにしたのが1897年だ。電子の発見によって化学の研究が加速した。また1919年にはラザフォードが陽子を、1932年にはチャドウィックが中性子を発見した。原子の構造が明らかになり、物質の研究が進んで1947~1948年にショックレー、バーディ-ン、ブラッテンによって半導体素子のトランジスタが発明されたことで通信・計算の技術が飛躍的に進んだ。ハードウェアと共にソフトウェアも進化して21世紀にはAI(人工知能)が身近な存在になった。それに伴ってAIの負の側面も深刻化しつつある。クラーク6世のエリは、このAIの問題を憂慮している。
「ノンとジュンは『2001年宇宙の旅』を見たことがある?」
 エリに聞かれた二人はうなずいた。1968年に公開されたこの映画をノンはネット配信で、ジュンは映画館で見たことがある。2001年は自分が生まれた年なので、タイトルに引かれて二人とも見ていた。エリは続けた。
「コンピュータのHALが宇宙飛行士を殺す場面があるでしょ?あの場面を見て、創世記3章の蛇とエバの会話を思い出したよ。」
 ノンとジュンも聖書を読んでいることをエリは知っていた。
「私たちはAIが人を殺すような社会にならないことを願っていて、AIに携わる技術者や研究者もそうならないように、様々に努力しているよ。でも、実はもう殺されているのかもしれないよ。」
 エリが何を言いたいのか、ノンとジュンは次のことばを待った。エリはスマホを取り出して、旧約聖書の創世記3章を朗読した。

創世記3:1 さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」

 ここまで読んでエリは言った。
「アダムとエバは園の中央にある木の実を食べたけれど、すぐには死ななかった。つまり、蛇が言った通りだった。でも実は、肉体は死ななかったけれど、魂は死んでしまったんだよ。そうして魂が死んだ結果、二人の心は神から離れてしまった。」
「AIの問題も、魂の死の問題だとエリは言いたいの?」
「そうだよ、ノン。ジュンはどう思う?」
「つまり、こういうこと?AIはまだ『2001年宇宙の旅』のHALのような殺人はしていない。しかし、創世記3章で蛇がアダムとエバの魂を殺したように、AIはすでに人の魂を殺しているのかもしれない。エリはそう考えているということ?」
「ジュン、その通りだよ。AIが人の魂に与えているダメージは相当に深刻だと私は考えているよ。」
 確かにその通りかもしれないと、ノンとジュンも思った。札幌に住んでいるノンは静岡や東京との行き来のために鉄道や飛行機をよく利用している。ノンは本来、沿線や地上の景色を窓からのんびりと眺めることが好きなほうだ。しかし、最近は移動中にスマホやノートPCの画面を見ていることのほうが多い。調べ物をする時にはAIが素早く答を出してくれるので重宝している。すぐに答を求めるようになり、不思議な存在である神様のことにゆっくりと思いを巡らすゆとりを失っている。AIは人間からゆとりを奪うことに加担していると、エリの話を聞いてノンは思った。
 静岡に住んでいるジュンは広島と長崎の平和公園で平和のための祈りを長くささげた経験がある。しかし、最近はゆっくりと祈る時間を持つことが少なくなっていると、やはりエリの話を聞いて思った。自分の魂も深刻なダメージを受けているかもしれないとジュンも思った。祈ることとは、神と魂の交流を持つことだ。魂が生きているなら神の導きの声を祈りの中で聞くことができる。魂が死んだ状態で祈っても、人間からの願い事の一方通行になってしまう。
 エリは言った。
「核兵器の問題も気候変動の問題もAIの問題も、どれも創造主から与えられた地上の管理の働きを適切に行えていないからだよ。蛇に惑わされてエデンの園の管理をしくじって以来、ずっとそれが続いているんだと思うよ。イエス・キリストが地上に遣わされたことで神と人間の関係は回復へ向かった筈なんだけど、蛇が執拗に反撃を続けているから、完全な回復になかなか至らないんだよね。蛇の反撃の中でもAIの問題は最も手ごわいものではないかな。」
「私たちはもっとゆったりとした時間を持って、万物の創造主に思いを巡らさないといけないね。」
 そうジュンが言うと、ノンも続いた。
「神様はビッグバンによって宇宙を創造し、宇宙が膨張する過程で様々な物質が生成された。それらが凝集して太陽や地球ができ、地上には生命が誕生した。神様の創造の手の業は本当にすごいよね。」
 150年前のクラークは、科学を学ぶことは聖書を学ぶことと同じであり、どちらも神の働きを知ることだと信次や順三たちに教えていた。その教えは6世たちにも引き継がれていた。クラークが不思議に思っていた万有引力は、アインシュタインの一般相対性理論によって秘密が解き明かされた。クラークの死後の1910年代のことだ。アインシュタインによれば、離れている月と地球が互いに引力を及ぼし合うのは、重力によって時空が歪んでいるからだ。そして、一般相対性理論の発表から100年後の2015年には、重力波がアメリカとヨーロッパの重力波望遠鏡で観測された。ブラックホールの合体によって13億光年の彼方で発生した重力のさざ波が、13億年という途方もない時間を掛けて地球に到達して観測されたのだ。この宇宙の壮大さ、そして重力による時空の歪みも、まさに神の手の業によるものだ。万物の創造主の神秘的な働きに思いを巡らす時、エリはうっとりとした心地になる。
「私たちは創造主から託された地上の管理の働きを蛇に妨害されないように、しっかりと行わなければならない。そのためには神を畏れ、神の創造の手の業にゆっくりと思いを巡らす時間をもっと多く持たなければならないと思うな。」
「本当にそうだね。」
 ノンとジュンも同意した。そして、ノンが言った。
「キリスト教って、天国へ行って幸せになるための宗教だと思っている人が多いような気がするけど、ちょっと違うと思うな。イエスが弟子たちに『御国が来ますように』(マタイ6:10)と祈るように教えたことからも分かるように、いつか天と地は一つになるんだよ。そのことはヨハネの黙示録21章にも書いてあるよ。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 だから、天が降って来る時に備えて、私たちは地上を良くする働きにもっと熱心になる必要があると思うよ。そのためには神様が天地を創造した創世記1章の非常に良かった時にもっと目を向けるべきだよね。アポロ8号の乗組員が創世記1章の最初の10節を朗読している音声をYoutube (https://www.youtube.com/watch?v=njpWalYduU4)で聴いたことがあるけど、あれは素晴らしいことだったと思うな。」
 ノンが話したYoutubeの音声とは、1968年の12月24日――すなわち蓮永寺でのクリスマス・イブのバイブル・クラスから97年後――に月の周回軌道からアポロ8号のクルー(乗組員)のアンダース、ラヴェル、ボーマンの3名が地球に向けて発信したクリスマス・メッセージのことだ。

・ビル・アンダース:
「我々は間もなく月でサンライズ(日の出)の時を迎えます。アポロ8号のクルーより地球の皆さんにメッセージをお伝えします。」

「はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。」

・ジム・ラヴェル:
「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。神は仰せられた。『大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。』神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」

・フランク・ボーマン:
「神は仰せられた。『天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。』すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。」

「最後にアポロ8号のクルーからグッド・ナイト、グッド・ラック、メリー・クリスマス。良き地球のすべての皆さんに、神様の祝福がありますように。」(参照サイト:Wikipedia「アポロ8号での創世記の朗読」)

 ノンの話を聞いてジュンが言った。
「月の周回軌道からの『地球の出(Earthrise)』の有名な写真も、確かアポロ8号のクルーが撮ったんだよね。」
「その通り!この写真だね。」
 ノンはスマホに保存してあった「地球の出」の写真をエリとジュンに見せた。


月の周回軌道からアポロ8号の乗組員が撮った「地球の出(Earthrise)」の写真(NASAホームページより)

 この地球を様々な災いから守り、良くしていかなければならない。そのための働きをしたいという志を、丘の上の三人はそれぞれ静かに抱いた。
それから三人は互いの将来のために丘の上で祈り合った。祈りの後、ジュンが言った。
「それぞれ専門があるけど、できる範囲で静岡学問所に関することを調べて、分かったことを残して行く活動を、私たちの世代もする必要があると思うんだけど。」
 ノンも賛成した。
「そうだね。そうした取り組みも必要だね。何てったって、静岡学問所は当時の国内最高の教育機関だったんだからね。私も大吉さんが建てた学問所の校舎や実験室、それからクラーク邸について、静岡の親戚に資料がないか調べてみるよ。」
「ありがとう、ノン。1945年の戦災で資料の多くが失われたと聞いているけれど、探せば残っているものがまだあるかもしれない。このままだと、いま残っている資料さえも失われてしまうと思うんだ。」
「私もクラークについての資料がもっとないか、アメリカで探してみることにするよ。」
「サンキュー、エリ。クラーク先生のことももっと知りたいから、新しい資料が見つかるといいな。SNSのクループで報告し合うようにしようね。」
 ノンが続いた。
「SNSだけでなく、またこの丘に一緒に登れると良いな。エリがまた日本に来てくれるとうれしいんだけど。」
「もちろんだよ、ノン。また日本に来るよ。」
「じゃ、決まりだね。次に会える時を楽しみにしているよ。」
 次にこの丘の上に立つ時には、お互いどのような道を歩んでいるだろうか。三人は丘の下に広がる静岡市街をバックにスマホで記念の自撮りをした。そして「静岡市戦禍犠牲者慰霊塔」と「B29墜落搭乗者慰霊碑」の前でもう一度黙祷をささげてから丘を下り、それぞれの場所に向かった。

【謝辞】
 1904年のクラークの著作『Katz Awa, “The Bismarck of Japan” Or, the Story of a Noble Life』(邦題:『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』静岡新聞社、2023年)の翻訳グループの皆さんにはブログ掲載前の原稿を読んでいただき、様々な助言やコメントをいただきました。深く感謝いたします。ブログ掲載に当たって参考にさせていただきましたが、筆者の力不足で十分に反映できていない点があることを、ご容赦いただければと思います。
 原稿執筆中には静岡朝祷会のメンバーの皆さんが祈って下さり、大変に励まされました。また、知人・友人・家族の助言とコメントにも大きな力をいただきました。併せて深く感謝いたします。

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