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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

連載13 大志の丘

2024-10-30 06:38:14 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(13)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

大志の丘
 バイブル・クラスはクラークが東京出張などで静岡を離れた時以外は毎週のように開かれていた。蓮永寺とクラーク邸で開かれたバイブル・クラスは2年間で100回に及んだ。最後のバイブル・クラスの後、クラークは準備しておいたカメラで記念の集合写真を撮った。
 記念撮影の後、クラークは信次と順三に声を掛けた。
「賎機山に三人で登る話が、そのままになってしまっていたね。これから一緒にどう?」
 信次は自分の提案をクラークが覚えていてくれたことをうれしく思った。
「本当ですか?ぜひお願いします。いいよね?順三。」
「もちろん!先生、ありがとうございます。」
 賎機山への登り口は浅間(せんげん)神社の奥にある。静岡浅間神社もまた徳川家康との縁が深い。今川義元の人質として駿府にいた竹千代の元服式はこの神社で天文24年(1555)に行われた。14歳の時で、松平元信の名が義元から与えられた。その後、元信の名は元康に改められ、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が死んだのを機に元康は駿府を離れた。隠退後に駿府に戻った家康は浅間神社を手厚く保護した。
クラーク邸から浅間神社までは徒歩で15分ほどの距離だ。賎機山に登る前、三人は神社の前の茶店に入って安倍川餅を食べた。安倍川餅はクラークの好物だ。
「アメリカにはこういう食べ物がないから初めて食べた時は不思議な感じだったよ。でも今ではとても気に入っているよ。東京にも、こういう店があると良いのだけど。」
 きな粉をまぶした餅と餡を絡めた餅の二種類の安倍川餅を載せた皿をクラークは手に取って言った。まもなくクラークは静岡を離れる。その前にクラークと共に過ごす時間が与えられたことを信次と順三は心から感謝に思った。
 賎機山は標高170メートルほどの低山だ。ゆっくり登っても山頂まで30分掛からない。登る途中、信次は静岡の「シズ」は賎機山から取られたものであることをクラークに説明した。
 ちなみに、21世紀の現代の静岡市文化財課による「静岡」の名前の由来の公式見解は次の通りだ。

『静岡の由来
明治二年(1869)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山(むこうやま)黄村(こうそん)先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った
ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす
昭和五十四年四月一日 静岡市』

という碑が静岡市役所本館前に設置されています。

 この由来碑は昭和54年に設置されたものですが、昭和60年以降の静岡県史編纂事業による調査において、静岡の名称についての新資料(国立公文書館所蔵 公文録)が確認されました。その資料は、『府中藩が明治政府に3つの名称案「静岡」、「静(しず)」、「静城(しずき)」を上申し、明治政府が「静岡」を採用』したことがわかる資料でした。この候補の考案に、向山黄村が深く関わったと考えられています。平成28年5月 文化財課


静岡市役所本館前の「静岡の由来」の碑(2024年9月5日 筆者撮影)

 「静岡」の命名に深く関わったとされる向山黄村も旧幕臣の一人であり、当時は静岡学問所のトップであった。この向山もまた学問所の廃校後には東京に戻っている。藩が三つの案を上申して明治政府が「静岡」を採用したとされることからは、明治政府と藩との上下関係がはっきりと見て取れる。全国の藩校が廃校となる中、クラークの文部省への意見書が顧みられなかったことは当然であった。藩主たちが明治政府の廃藩置県の政策に抵抗しなかったのは、どの藩の財政も苦しかったからであるとされる。財政を国が担ってくれるなら、藩主たちは金策の苦労から解放される。こうして県の財政は明治政府によって賄われることになり、中央集権化が確立された。学制発布後もクラークは1年以上なお静岡に居続けたが、その頑張りも遂に限界に来ていたのであった。

 賎機山はクラーク邸から近いのでクラークも何度も登っていた。しかし、賎機山が静岡の名前の由来になっているとは知らなかった。
「信次、ありがとう。信次は賎機山が好きなんだね。」
「はい。私の家は賎機山のすぐ近くにありますから、幼い頃からこの山が遊び場になっていました。」
「ミスター中村の家も賎機山のすぐ近くにあったね。そこで『西国立志編』と『自由之理』が翻訳されて出版されたのだね。」
 クラークは中村正直と過ごした日々のことを思い出した。静岡を離れるのは残念だが、東京でまた中村に会えるのは楽しみなことだ。東京転任を前向きに考えることができて、信次と順三を誘って賎機山に来て良かったとクラークは思っていた。


賎機山の山頂付近から東側の谷津山方面を望む(2024年9月18日 筆者撮影)

 山頂に着くと三人は富士山が見える東側と安倍川が見える西側の両方の眺望を楽しんだ。東側には谷津山もある。クラークは三人で谷津山に登った時のことを思い出していた。
「順三は海外に留学したいと、話していたね。その気持ちは今でも変わらないの?」
「はい、留学したい気持ちがますます強まっています。私は中村先生の送別のバイブル・クラスで読まれたヨハネの福音書8章32節がずっと心に響いています。」

ヨハネ8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

「真理を知るためには、様々なことを広く学ぶ必要があると私は感じています。聖書を学ぶだけでなく、数学、物理学、化学、生物学などをもっと深く学びたいです。それには海外で学ぶのが一番ではないかという思いが、どんどん強まっています。」
 順三のことばにクラークは深くうなずいた。
「聖書には『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』(マタイ4:4他)と書いてある。『数学のことば』も『物理学のことば』も『化学のことば』も『生物学のことば』もどれも皆、『神の口から出る一つ一つのことば』だからね。」
「はい。クラーク先生がそのように言っていたと、下条さんから聞いたことがあります。」
「そうなんだね。もしラトガース大学への留学を希望するなら、手伝うことができると思うよ。他の海外の大学のことも、東京には多くの外国人教師がいるから、聞いてみてあげられると思うよ。手紙で連絡を取り合うようにしよう。」
「うれしいです。よろしくお願いします。」
 そしてクラークは信次のほうを向いた。
「信次はこれからのことを、どう考えているのかな?」
「僕はいま、農学に興味を持っています。」
「農学?それはまた、どうしてかな?」
「もともと生物に興味を持っていましたが、順三の家の本屋に農学の本が置いてあるのを見て、関心を持つようになりました。」
「農学も、これからの日本には必要な学問だね。」
「はい。そして最近、学問所の杉山親先生と吉見義次先生がレーベの『農学提要』の翻訳を始めていることを耳にしたので、両先生に農学のことを聞きに行きました。先生方の話を聞いて、ますます興味を持つようになりました。」
「農学と言えば、東京にいる友人のグリフィスからの手紙によれば、北海道の開拓使が札幌に農学校を作る準備をしているようだね。」
 蝦夷地は明治2年(1869)から北海道と呼ばれるようになっていた。北海道の開拓は北方のロシアの南下に対抗する上で明治政府にとって極めて重要な政策であり、開拓使が設けられた。そして、北海道の開拓には学問の力が重要であるとして、開拓使は文部省とは別の独自の教育政策を進めており、多くの留学生を海外に送り出していた。明治4年(1871)の岩倉使節団と共に渡米した津田梅子や山川捨松ら5名の女子も開拓使が派遣した留学生であった。帰国した津田梅子は女子英学塾(現:津田塾大学)の創設など女子教育の充実のために尽力し、山川捨松も津田を支援した。大山厳と結婚した捨松は「鹿鳴館の華」としての側面が有名であるが、アメリカで看護婦の資格を取得していた捨松は日本初の看護婦学校の設立にも尽力した。必要な資金を調達するためにチャリティー・バザーを3日間にわたって開き、多額の収益を上げた。そして、その資金を基に2年後には実際に開学に漕ぎ着けている。また日清・日露戦争の際には彼女自身も看護婦として戦傷者を看護した。開拓使の教育政策では札幌農学校の開校と発展のみが評価されがちだ。しかし、津田梅子や山川捨松らの留学生の派遣もまた大きな成果と言えよう。
 クラークから新しい農学校の設立の動きを聞いた信次は興奮気味に聞き返した。
「本当ですか?農学を学べる学校が北海道に新しく作られるのですね?」
「そう聞いているよ。開校はまだ先のことのようだけれど、準備が進められているみたいだよ。東京ではなく、地方の札幌に新しい学校が作られる意義は大きいかもしれないね。」
「クラーク先生、東京に行ったら、その札幌の農学校について、手紙でもっと教えていただけませんか。」
「もちろんだよ。信次にも手紙を書くようにするよ。」
 実は開拓使の高等教育機関設置の動きはクラーク着任とほぼ同時期の明治5年(1872)の1月には黒田清隆によって既に始められていた。黒田は北海道に学校を設けるまでの間はまず東京に仮学校を設けることにして、化学、機械学、植物学、数学の教師各1名と医師2名をアメリカから招くことにした。そして同年3月、東京芝の増上寺境内に「開拓使仮学校」の看板が立てられた。生徒募集の標札が各地に立てられた時には、入学志願者が門前に殺到したと言われている。[蝦名賢造『札幌農学校 日本近代精神の源流』(新評論 1991)p.23-24]
 それから三人は、互いの将来のために丘の上で祈り合った。
「信次と順三が大きな志を抱いていることを聞いて、とてもうれしく思うよ。静岡で働くことができて本当に良かった。これからもその志を抱き続けて生きて行けるよう、祈っているよ。」
「ありがとうございます。僕たちも先生のために祈っています。」
 こうしてクラークの静岡での2年間の生活が、幕を閉じた。

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連載12 クラークの涙

2024-10-30 05:38:16 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(12)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

クラークの涙
 文部省へのクラークの意見は採用されることなく、静岡学問所の存続への道は完全に閉ざされた。そして、クラークもまた静岡を離れて東京の開成学校で教えることになった。
クラークは、静岡がオックスフォードやケンブリッジになることを望んでいた。しかし、その願いは果たせなかった。クラークは涙を流した。そして、地方を大切にしない日本の将来を心配した。クラークが文部省への意見書に書いたように、日本は「身体を壮健にしようと望みながら、手足も体幹も弱くして、その代わりに心臓だけを強化」していた。
 静岡を離れる前の最後のバイブル・クラスは1873年12月にクラーク邸で開かれた。蓮永寺で最初のバイブル・クラスが開かれてから、ちょうど2年後のことであった。この最後のバイブル・クラスで、クラークはルカの福音書19章を開くことにした。

ルカ19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に 積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

「イエスと弟子たちの旅も、いよいよ終わりの時が近づいていました。この日はパーム・サンデー(しゅろの聖日)と呼ばれる日曜日でした。次の木曜日に最後の晩餐の時を迎え、金曜日に十字架に付けられてイエスは死にました。」
 クラークと静岡の学生たちとの日々も、いよいよ終わりの時が近づいていた。
「神の御子イエス・キリストには未来のことがすべて見えていました。エルサレムを見てイエスが泣いたのは紀元30年頃のことです。この時のエルサレムは、ローマ帝国の支配下にあったものの、平和は保たれていました。しかし、ローマの支配に不満を抱いていたユダヤ人たちが紀元66年に反乱を起こしました。ユダヤ戦争です。そして4年後の紀元70年にエルサレムはローマ軍の攻撃によって焦土と化し、エルサレムの神殿も焼失しました。イエスが44節で嘆いたように、エルサレムの人々は地にたたきつけられ、建物も粉々に破壊されて瓦礫と化しました。」
 蓮永寺でのバイブル・クラスの時のように、クラークの口調は熱を帯びて来た。クラークは上着を脱いだ。
「イエスはもちろん、自分が十字架に付けられて死ぬことも知っていました。それゆえ最後の晩餐の後には悶え苦しみます。ルカ22章も一緒に見てみましょう。」

ルカ22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
43 すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。
44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

「十字架刑は、激しい苦痛に悶え苦しみながら少しずつ衰弱して死に至る非常に残酷な死刑です。イエスはできることなら十字架に掛かりたくはありませんでした。それゆえ42節で『この杯をわたしから取り去ってください』と天の父に祈りました。しかし同時にイエスは、自分が十字架に掛からなければ神に背いている人間の罪は赦されず、神と人間との関係が回復することはないこともまた知っていました。『わたしの願いではなく、みこころがなりますように』と祈ったのは、そのためです。イエスは苦しみ悶え、汗が血のしずくのように地に落ちました。」
 クラークの額からも汗が流れ出ていた。
「そうしてイエスは十字架に掛かったわけですが、神と人間との関係が急速に回復するわけではないこともまた、知っていました。宣教の働きは弟子たちに託されて進んで行きます。その歩みは非常にゆっくりとしたものでした。フランシスコ・ザビエルによって日本にキリストの教えが伝わったのは1549年です。しかし、江戸時代には宣教が禁止されていました。そして、ようやく1873年の今年2月に、日本でのキリスト教の禁教令が廃止になりました。」
 クラークは撤去されたキリスト教禁止の高札を記念にもらい受けていた。
「十字架の苦しみを受けても宣教はゆっくりとしか進まないことをイエスは知っていました。ユダヤ人の多くがキリストの教えを受け入れないことも知っていました。そうしてユダヤ戦争が始まり、エルサレムは廃墟になってしまいます。十字架の苦しみを目前に控えて、このことはイエスにとって本当につらく悲しいことでした。それゆえ、イエスはエルサレムを見て泣きました。」
 コップの水をクラークは飲み干した。
「私はイエスと違って、未来のことは分かりません。でも、東京を強くすることに力を注ぎ、そのためには地方が弱くなっても構わないという政策を進めている日本のことが、とても心配です。この静岡のことも、とても心配です。」
 日本の将来、そして静岡の将来を心配したクラークであったが、約70年後の1944~1945年に母国のアメリカがB29爆撃機による空襲で日本の都市の多くを焼き尽くすことになろうとは、まったく想像していなかっただろう。当時、空を飛ぶ飛行機はまったくの夢物語であった。アメリカのライト兄弟がエンジンを搭載した飛行機で有人動力飛行に成功したのは、この時からちょうど30年後の1903年12月であった。そうして1914~1918年の第一次世界大戦では早くも戦闘機が投入されるようになり、1939~1945年の第二次世界大戦では輸送機も含めた多くの軍用機が戦争遂行上の大きな役割を担うようになった。21世紀の現代においても戦火が絶えることはない。このことをイエスは深く悲しみ、涙を流していることであろう。


静岡平和資料館をつくる会『静岡・清水空襲の記録――2350余人へのレクイエム――』(2005年)の裏表紙
静岡空襲(1945年6月19~20日)の翌日、B29偵察機から撮影した焼け跡の写真の上に、現在(2005年)の地図を重ねたもの。黄色が現在の地図。中央の方形が駿府城後。白くなっている箇所が焼けたところ。(写真:米国立公文書館蔵、写真提供&加工:工藤洋三氏)

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連載11 文部省への異議申し立て

2024-10-30 04:24:36 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(11)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

文部省への異議申し立て
 中村正直が東京に移った後も、静岡学問所の教授と学生たちの東京への転出は続いた。そして通訳の下条魁郎もまた東京に移ることになった。こんな理不尽なことが許されて良いものであろうか?クラークはペンを執って文部省への意見書を書いた。

【地方の学校を支援するよう勧める提言】
 今日、教育の利益をただ東京だけに集中し、一つにしてしまおうとすることは、地方の学校にとって不利益となり、大いに気力を削ぐことになります。日本全国各地の教育のために、ここに意見を申し上げます。あらゆる事柄を東京に集中させようとすることは、日本国全体の利益を大いに損ない、各地方でそれぞれ押し進めている事業をやがては圧迫していくことになります。
 日本国家の中心(つまり東京)を強く健やかにするために、地方の利益を奪ってしまうことは理に適っていません。それは喩えるなら、身体を壮健にしようと望みながら、手足も体幹も弱くして、その代わりに心臓だけを強化しようと望んでいることと同じで、不合理なことです。
 国のそれぞれの自治体が互いに思いやり支え合っていくことで、国家の恒久的存続に努めることは、どの国家のどの国民にとっても重要なことです。失礼を承知で申し上げれば、今日の日本政治の方向性は間違っていると私は考えます。それはまた、日本にとって不幸な結果に至るということです。パリの人がパリの町を盛んにしようと願うことによって、フランス人全体が不幸となってしまった事例は、近年の内戦において明白となっています〔訳者の中村氏・今野氏注――普仏戦争(1870~1871年)に伴う第二帝政の崩壊を指す〕。その当時フランス国民は嘆いて、「フランスを破壊したのはパリ市であった」と互いに言いました。今まさにそのパリ市民の姿勢を、東京に見る思いです。
 そもそも現在の状況を考えると、東京は大都会であるために、様々な教育のための学校を設置し、人々の知的水準を向上することにおいて、最もこの地が相応しいとして、特に注意が向けられているようです。しかし試しに海外の先進国がそれぞれ高等教育を構えている地を一通り挙げてみれば、正しい判断を行う人々の確実な意見に基づいて高等教育機関を置くことを選んだ土地は、大都会は適当でないどころか、むしろ避けるべきであることがお分かりになるでしょう。
 例を挙げるなら、イギリスで最も有名な学校は、ロンドンおよびマンチェスターにはなくて、オックスフォードおよびケンブリッジといった小都市に存在しています。ドイツ語圏でも、ハイデルベルク、ボン、バーゼルなどの学校所在地は、どこも極めて小さな都市に過ぎません。アメリカにおいても、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.のような大都市には有名校はなく、バーバード、イエール、プリンストンのような有名校は、どこも小都市にあります。
 有識者たちの間でも主流の考え方を踏まえると、大都会は学問をする場所に相応しくありません。なぜなら大都会には、集中力を妨げるものが甚だ多く、誘惑するものも甚だ多くて、学生たちの周りを取り囲んでいるからです。このため誰であっても学問の成果を求めて、一層の情報を集めようとする場合、何かと人で騒がしい場所や大都会の集中をかき乱す場所に期待するべきではないのです。
 この件に関して申し上げたい点は他にも多々ありますが、日本に来て教師となって経験した事柄に限定した指摘に留めたいと思います。東京だけに限らず、日本各地の教育事業を大いに奨励し促進すべきことを、私たちは体験上知っています。
 私たちが静岡において教える生徒の中には、その学問の進歩が非常に著しい者が数多くおり、特に若い者たちの鋭気と学力には殊更驚かされ、私たちも大変やりがいを感じています。年配者たちも、先に学問が進む者たちを追って次第に熟練していきます。これらのことから思うのは、この生徒たちの学びを止めずに継続させれば、その勤勉さと忍耐によって、必ず優れた成果を収めるはずだということです。これを願わずにはいられません。私たちはここから将来の静岡学校の素晴らしいビジョンを計画しており、ゆくゆくは大学院も建てるようになれば、この県の発展と人々の幸福に繋がると考えています。
 生徒がここで学問に励むことは大いにメリットがあるため、当地に留まって学問が修められるようにすることを私たちは切望する次第です。しかし私たちが最も期待する最高の生徒が、政府にすぐに登用されてしまいます。これには私たちが苦労して教えてきた熱意をくじかれ、学校全体の雰囲気が破壊されてしまいます。もしも生徒が最後まで学業を修めた上で私たちのもとを離れて要職に就くとうことになるのであれば、それについては異議を申し立てるどころか、それぞれの人材に適した場所で志を伸ばしていくことは私たちにとって光栄です。しかし現在はそうではなく、生徒たちの学業がまだ出発点に過ぎない中、勉学に励む様子を見れば、長く当県の学校に留まって学問を修めるに違いないと私たちは思っておりました。ところが多くの生徒が次々に引き抜かれています。これは生徒とたち自身にとっても私たち自身にとっても大損害であると考えます。
 そもそもここに一つの道理があります。このように最高の生徒が離れ去っていくことは極めて残念でありますが、これによって地方の学校をますます優遇して援助しなければならないことがお分かり頂けたことでしょう。なぜなら、政府が当県の生徒を引き抜いて東京の人員不足を補てんしようという、その行為自体を考えてみれば、全国各地の学校に配慮し、優秀な青年を養い、将来の登用に充てるべきである道理がますます明白になるからです。
 地方の学校への配慮と援助を勧める理由は、学校への支援があるからこそ、若い生徒が数多く生まれ、学習に励むことが慣習となり、生涯にわたって役立つ才能の養成も可能だからです。もし初めから学校教育が無ければ、今の生徒たちは生徒とならずに怠惰な人間となり、精神の修養を受けることはなかったであろうと思います。
 私たちが日本の学生を教える実際の経験から言えることは、現在の生徒たちがこれからも既に学んできたことに集中できるなら、日本の将来にとって有望な生徒が得られるはずだということです。そのようなわけで、若者たちに知識を与え、その働きを充実させていくために費用を惜しむ必要はありません。こうした若者たちによって日本の将来のますますの発展は実現するのです。
 私たちは重ねて申し上げます。日本の希望は若者たちにあります。今日の若者は将来必ず日本のために大きな働きを担います。よって全国の学問を好む幼い者から身分の低い者にも、教育を受けるのに十分な機会を与えるべきだと考えます。
 1872年9月 静岡県在住 クラーク(アメリカ)
[現代語訳:中村恵太・今野喜和人『エドワード・ウォレン・クラークと明治の鈴岡/日本/アメリカ』(クラーク来静150周年記念シンポジウム・パンフレット)p.21-22]

 簡潔に書くつもりであったが、書き始めると静岡への溢れる思いを止めることができず、いつの間にか長文になってしまっていた。クラークは静岡の風土と人々、学問所と学生たちを深く愛していた。

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『自由之理』序文テキスト

2024-10-29 06:45:34 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち

『自由之理』の序文(クラークによる手書き)国書データベースより

Introduction

  The law of nature & the law of spiritual life & growth, is harmony in diversity. And the fullest & richest development of human experience, can only be attained by granting free scope to the varied impulses of individual character & individual effort.
  The progress & enlightenment of society at large, is but the sum of that of the individual; & so far as the single life fulfils the functions most plainly its own, just so far will the civil & collective life of the people be advanced.
  The time was when diversity of thought & belief was counted heresy; but the world has now reached a point in which it may discern, that those things which it once attempted to stifle & suppress, have eventually become the very main-springs of its advance.
   Liberty in its highest sense must have limitations; though men are less apt to respect its bounds than to accept its freedom. In some, there is a certain restless spirit which brooks no restraint, either from civil code or from individual conscience; & which feigns itself free in proportion as it is independent of rightful rule. But such a conception of freedom, is as far as possible from the truth: it defeats its own aims by substituting servility to self, to submission to lawful requirements. No form of bondage is more pitiable, than that of a soul taking the liberty to enslave itself; & no truer freedom is ever to be enjoyed than that of thorough submission to righteous law. And just in proportion as the "perfect law of liberty" rules in our members, just in that proportion do we rise to the standard of true freedom.
There is no word which the world has more highly prized yet more frequently mistaken, than that of "liberty".
  The men whose memories are held in most enduring esteem, are those who have emancipated mankind from the greatest evils. It is the great liberators, rather than the great conquerors, who are most worthy of honor & emulation; & it is the lives which have been blessings in their day, which have proved of most worth to history & humanity.
  The mission of the world's Messiah was one of deliverance. As foretold by the ancient prophet it was "to set at liberty." It was to unchain the captive, not from a temporal, but from a spiritual despotism. It was to open prison doors, & to let light into dark places. It was to rescue us from the thralldom of sin & Satan, & to usher us into the "glorious liberty of the children of God!"
 E. W. C.
 Shidz-u-oo ka.
 Jan. 27th 1872.
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連載10 東京一極集中の政策と中村正直の転任

2024-10-29 06:36:14 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(10)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

第三章 静岡学問所の受難と廃校
東京一極集中の政策と中村正直の転任

 クラークによって西洋の最新の理化学の授業が始められた静岡学問所は、一見すると順風満帆かのように見えていた。しかし実はクラークが着任した明治4年(1871)12月の時点で既に風前の灯火の状態にあった。同年8月の廃藩置県の政策によって事情が一変していたからだ。
静岡学問所は静岡藩の財政によって独自に運営されている藩校であった。それが廃藩置県によって県政は明治政府の下に置かれるようになった。中央集権体制となり、県独自の政策は実行できなくなった。教育も文部省の方針に従わなければならなくなった。藩校は廃止となり、文部省が発布した学制に従うこととなった。
 ただし学制が発布されたのは明治5年(1872)9月である。従ってクラークが着任してからの最初の9ヶ月間は、公立の藩校から私学へと移行する過渡期にあった。この期間中、教授陣と優秀な学生の多くが東京に引き抜かれて行った。藩校の廃止は全国に及んでいたので福井の明新館も同様であり、グリフィスは福井から東京へ向かった。グリフィスがクラーク着任の翌月の1月末に静岡に立ち寄ったのは、この時のことだ。この移行期間中は、東京の学校が充実して行く一方で、地方の高等教育は急速に衰えて行った。中村正直が東京に転任した静岡学問所の損失も甚大であった。クラークにとっても大きな痛手であり、さらには通訳の下条魁郎も東京に移ることになった。クラークは新邸の2階に下条のための寝室も準備していたので、絶望的な気分になった。

 中村正直が静岡を去って東京に移ったのは明治5年(1972)8月であった。中村が静岡で出席する最後のバイブル・クラスの日、クラークはヨハネの福音書8章31~32節を開いた。中村に贈る送別の聖句だ。蓮永寺の居室でクラークは聖書を朗読した。

ヨハネ8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

「私が初めてミスター中村に会ったのは8ヶ月前でした。その頃、彼はジョン・スチュアート・ミルの『自由之理』を翻訳していました。彼は、その少し前にもサミュエル・スマイルズの『西国立志編』を翻訳して出版していました。次々と洋書を翻訳出版するミスター中村の勤勉さに、私は大変に感銘を受けました。そして『自由之理』のための序文(英語のテキストはこちら)を書かせてもらいました。」


『自由之理』の序文(クラークによる手書き)国書データベースより

「大変申し訳ないことに、この序文は非常に分かりづらかったと思います。キリスト教は日本では未だに禁止されていますから、公に出版されるミスター中村の本にキリスト教の神のことをあまり表立って書くわけにはいかなかったからです。ですから、きょうは先ず、この序文にキリスト教の教えを補足して、もう少し分かりやすく解説します。そして、その後にヨハネの福音書8章を一緒に見ることにしたいと思います。」
 クラークはコップの水を飲み干し、『自由之理』の序文の解説をゆっくりと語り始めた。

「被造物に対する自然法則と、霊的な生活の成長のための神の律法は大きく見れば調和しています。それゆえ人間が最も豊かに成長するためには、様々な個性を見渡せる広い視野を持つ自由な目が養われなければなりません。
社会全体の進歩や開化は、個人の進歩の総和にほかなりません。一人一人が自分の役目をしっかりと果たすなら、市民生活全体も進歩します。
かつては、思想や信仰の多様性が異端とみなされた時代もありました。しかし今や世界は、以前は抑圧して抹殺しようとしていたものが、結局は進歩の主要なバネとなったことを自由な目によって見分けられるようになりました。」

 8月の暑い時期であったが、信次も順三もクラークの話を聴くことに集中していたので暑さを忘れていた。クラークは続けた。

「最高の意味での自由には限界があります。真の自由は神によって与えられるからです。人間は神が設けた限界を超えることは決してできません。しかし、人間はその限界を意識しないために神との境界を尊重せず、単に与えられた自由を享受しがちです。神による平安を得ていない者の中には民法や人の良心を平気で踏みにじり、あたかも世の規則から自由になっているかのように振る舞う輩もいます。しかし、自由に対するそのような考え方は、真実からは遠くかけ離れています。法律に従う代わりに独りよがりの考え方に奴隷のように従えば、悲惨な結果を招くことになります。自分の魂が自分自身を奴隷にする自由、こんなに哀れな自由は他にありません。そうではなくて正しい神の教えに全面的に従うこと、このことほど真の自由を享受できる手段は他にありません。そして、『神による完全なる自由の律法』が私たちを支配するのに比例して、私たちは真の自由へと解き放たれていきます。」

 ガラス瓶から水を注ぎ、コップ一杯の水をクラークはまた全て飲み干した。
「この、『神による完全なる自由の律法』とは、旧約の時代のモーセの律法とは異なります。ここで『自由之理』を一旦離れて、エレミヤ書を開きましょう。」
 クラークは旧約聖書のエレミヤ書31章31~34節を朗読した。

エレミヤ31:31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

「神が出エジプトの時代にモーセを通して与えた律法を、イスラエルの民は守りませんでした。何度警告しても背を向け続ける民に怒った神はついにイスラエルを見放して滅ぼし、民はバビロンへ捕囚として引かれて行きました。そして捕囚からエルサレムに帰還した後は、逆にモーセの律法を厳格に守ろうとする動きが強まり、律法に縛られる人々が増えて行きました。
 もはや律法で人を救うことはできなくなりました。そこで神は人々を救うために御子イエス・キリストを地上に遣わしました。そうしてイエスを信じる者には神の霊である聖霊を注ぐようにしました。神のことばを預言者を通して間接的に伝えるのではなく、聖霊によって人々の心の内に直接伝えることにしたのです。このエレミヤ書は、そのことを預言しています。33節の『わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す』とは、神が人に聖霊を注ぎ、聖霊が神のことばを人の心に直接伝えることを指しています。私が『自由之理』の序文に書いた『神による完全なる自由の律法』とは、このように聖霊が人の心に書き記す神のことばのことを指します。」
 このクラークの説明に、中村正直は深くうなずいた。
「では、また『自由之理』の序文に戻ります。」
 クラークは聖書を置いて、『自由之理』を再び手に取った。

「世界で『自由』ほど高い価値が認められていながら、間違って捉えられていることばは他にありません。
最も長く記憶に留められて尊敬される人とは、人類を最も強大な悪から解放した人です。偉大な征服者よりも、むしろ偉大な解放者こそ、最も栄誉と称賛に値します。歴史と人類にとって最も価値があると証明されたのは、その時代に祝福された命です。
世界のメシア、すなわちイエス・キリストの使命は、人々の救済でした。旧約の時代の預言者が預言したように、それは人々を『自由にすること』でした。それは、捕らわれの身となった者をサタン(悪魔)による霊的な専制から一時的にではなく永遠に解き放つことでした。それは牢獄の扉を開き、暗い場所に光を入れることでした。それは、私たちを罪とサタンの束縛から救い出し、『神の子どもたちの輝かしい自由』へと導くものでした。」

 クラークがこれを書いたのは1872年1月27日で、序文の最後にはこの日付が入っている。この3日後に親友のグリフィスが静岡に来て一泊して行き、楽しい時を過ごしたのだった。グリフィスが東京に向けて発った後でクラークは重いホームシックに罹った。もしクラークに信仰がなかったら、ホームシックはもっと重症化していたかもしれない。自分で書いた『自由之理』の序文の日付を見てクラークは当時を懐かしく思い出し、神に守られたことを感謝した。
「では、ヨハネの福音書8章31~32節を見ることにしましょう。もう一度朗読します。」

ヨハネ8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

「このイエスのことばの『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします』をミスター中村に贈ります。ミスター中村は、このバイブル・クラスに毎週欠かさずに通い、イエスのことばにとどまりました。ですから彼は本当にイエス・キリストの弟子です。それゆえ真理を知り、自由になります。真理を知ることができるのは、先ほどのエレミヤ書31章33節で見たように、聖霊を通して神がことばを心に直接書き記して下さるからです。聖霊が注がれているミスター中村は、東京へ行っても、どこへ行っても神様がいつも心の中に居て下さり、霊的な自由を与えて下さり、守って下さいます。ですから安心して東京へ行き、神様から与えられた役割を果たして下さい。」
 この日、クラークは愛用の写真機を準備しておいた。
「皆で記念写真を撮りましょう。すぐに現像して、ミスター中村の家へ届けさせますよ。」
 中村は立ってクラークと握手をした。そして、蓮永寺の境内で皆が並んで記念写真を撮った。信次と順三も一緒だった。
 このバイブル・クラスを最後に中村正直は静岡を離れて、東京に転任して行った。

 クラスの後、信次と順三はいつものように北街道を途中の来迎院まで一緒に帰った。信次は順三に言った。
「クラーク先生は明るく振る舞っていたけど、やっぱり少し寂しそうだったね。」
「うん。クラーク先生のショックは大きいと思うな。」
「そのうち、クラーク先生も東京へ行ってしまうんじゃないだろうか。大丈夫かな、順三。」
「う~ん、まだ大丈夫じゃないかな。だって、信次のお父さんたちがクラーク先生の新しい家を城内に造り始めているんでしょ?」
「そうだよね。まだ造り始めたばかりだものね。父さんも、石造りの家ということで最初は戸惑っていたけど、今では毎日張り切って現場に向かっているよ。」
「クラーク先生も、この新しい家にはとても期待しているみたいだから、早くまた元気になってくれると良いね。」
「うん。クラーク先生が元気でいてくれないと、静岡学問所がますます寂しくなってしまうからね。」
 話している間に信次と順三は来迎院の前まで来た。二人はそこで別れて、それぞれの家に向かった。

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連載9 クラーク邸での催し

2024-10-24 10:48:54 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(9)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

クラーク邸での催し
 新邸のベッドで初めて目覚めた朝、クラークは2階の寝室から外堀の土手の上のバルコニーに出て、北東の方向を眺めた。目の前には静岡の人々が暮らす家が立ち並び、その向こうにはクラークが愛した谷津山が見えた。遠くには雪化粧した富士山もくっきりと見える。富士山に見とれていると、1階の台所の方から朝食のトーストとベーコンの香りが漂って来た。朝食は仙太郎が作ってくれていた。仙太郎は新邸の隣にある木造の家で暮らし始めていた。この仙太郎の家も大吉たちが建てたものだ。


クラーク邸の2階のバルコニー(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵
1階のように見えるが、外堀の土手の上なので2階である。手前は仙太郎か?奥の山は賎機山。

 クラークは1階に降りて台所にいる仙太郎に声を掛けた。
「グッモーニング、サム・パッチ。」
「おはようございます。この台所は広くて使いやすいですね。気に入りましたよ。」
 新邸の設計をする時、台所については仙太郎の要望を多く取り入れた。新邸では蓮永寺の宿舎よりも多くの客を食事に招きたいと考えている。大人数の場合は仙太郎を手伝う者たちも必要になるだろう。そのために広い台所にした。間もなくクリスマスだ。引っ越して来たばかりだが、クリスマス・ツリーの準備もすぐに始めなければならない。ツリーは昨年よりも大きな木を大吉に頼んで準備した。クラークはワクワクした。
 朝食を済ませるとクラークは城内を歩いて学問所に向かった。クラークの足なら5分ほどで着く。蓮永寺にいた時とは大違いだ。クラークは新鮮な心持ちで授業に臨んだ。静岡に来て初めて授業を行った時のように気合いが入り、まさに静岡の第二幕が始まったことを感じた。


クラーク邸の食堂(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

 この日、クラークは昼食時に信次と順三に新邸まで来てもらうことにした。クリスマス・ツリーの準備を手伝ってもらおうと思ったのだ。ツリーに使う木は、既に大吉が1階のダイニング・ルームに設置してくれてあった。昼休みにクラークは信次と順三を伴って新邸に戻った。クラークはまず、二人をダイニング・ルームに案内した。二人とも新邸の中に入るのは初めてだった。
「このクリスマス・ツリーに飾り物を付けてほしいんだよ。」
「・・・・・」
 初めて見る西洋風のダイニング・ルームに、二人とも驚きで言葉が出なかった。部屋の中央に立派なテーブルがあり、椅子も豪華な雰囲気を漂わせている。暖炉のマントルピースの上の置き物や壁に掛けてある絵も異国情緒をたっぷりと醸し出している。
 そしてクラークは二人を2階のバルコニーに案内した。
「わ~!」
 二人は感嘆の声を同時にあげた。小高い外堀の土手の上にあるバルコニーの見晴らしの良さは感動的であった。
「クラーク先生は富士山が好きですか?」
 信次が聞いた。
「もちろんだよ!こんなに美しい山はアメリカにもヨーロッパにも無いと思うよ。」
「ヨーロッパのアルプスはとても美しいと聞いていますが?」
 今度は順三が聞いた。
「アルプスは、雄大で美しいから好きだよ。でも、私は富士山のシルエットをとても愛しているよ。山の頂から裾に向かって延びる優美な曲線は、毎日長く眺めていても少しも見飽きることがない。富士山は見る度に新鮮な感動を与えてくれる本当に素晴らしい山だと思うよ。」
 静岡の誇りである富士山をクラークが絶賛したことを信次と順三を心の底からうれしく思った。二人は笑顔で階下のダイニング・ルームに戻り、クラークからクリスマス・ツリーの飾り付けについての説明を聞いた。ツリーに取り付ける飾り物はクラークが既にアメリカから取り寄せてあった。
 クラークはまた、最新の幻灯機をアメリカから取り寄せていた。非常に高価な物であったが、クラークは静岡学問所から多額の給与をもらっていたので、自費で購入した。クラークは自分の給料は高すぎると感じていたので、それを人々に還元したいと思っていた。そうして思い付いたのが、静岡の人々に幻灯機の映像を楽しんでもらうことだった。

 新邸でのクリスマス・パーティは土曜日の午後、新邸の前の庭で行われた。クラークは邸内に入りきれないほど大勢の人を招いたので、クリスマスの食事は屋外でふるまうことにしたのだ。食事の間、人々は交代で新邸の中を見て回った。人々は間取りだけでなく、邸内のあらゆる物に感嘆の声を上げた。じゅうたん、揺椅子、テーブル・クロス、書き物机、鏡、レースのカーテン、シャンデリア、寝台、化粧たんす、絵画、すべてがとても珍しいものであった。絵画の中にはイエス・キリストの絵もあった。女性たちは台所の料理用のかまどと煙突を見て、とても驚いた。調理器具など台所のすべてのものが彼女たちには思いもかけない新しいもので、一つ一つに感嘆の声を上げていた。


クラーク邸の居間(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

 外が薄暗くなった頃、クラークは庭に大きなシーツを張って幻灯機の上映会を催した。アメリカやヨーロッパの美しい風景の写真は静岡の人々にとっては別世界であり、スライドが切り替わるたびに歓声が上がった。運行する天体の図表も人々を大いに驚かした。そして、大地は平らではなく丸い球であることを説明したが、人々の多くは信じなかった。静岡の人々にとっては、大地が平らであることは疑いようのないことであった。静岡学問所の学生たちにとっては大地が丸い球であることは常識であったので、一般市民と学生の間のギャップの大きさをクラークは改めて感じることとなった。

 翌日のバイブル・クラスはクラークの新邸で行われた。うれしいことに、多くの出席者があった。蓮永寺でのバイブル・クラスは中村正直らの教授陣が東京の学校に引き抜かれて転任して以降は出席者が減っていたのだ。旧幕臣の子弟の学生たちの多くも東京に戻って行った。そのため、蓮永寺のバイブル・クラスはとても寂しい状況になっていた。それが、クリスマス・パーティを経て多くの出席者が与えられた。このことをクラークは心からうれしく思い、神に感謝した。
新しい出席者が増えたため、クラークは昨年のクリスマス・イブの時に開いた創世記1~3章とヨハネの福音書1章を再び説明した。そして最後に、ヨハネの福音書1章35~39節の説明を付け加えた。

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

「イエスが地上で宣教していたのは1世紀の前半の紀元30年頃です。今は19世紀後半の1872年ですから、1800年ぐらい前のことです。しかし、先ほどのヨハネ1章1~14節で話したように、イエスは神の御子であり、天地創造の前から神と共に天にいました。そして、地上での宣教を終えた後に再び天に戻りましたから、今は天にいます。イエスは永遠の中にいますから、今も天にいて私たちに語り掛けています。
すると、このヨハネ1章35~39節も1872年の現代のことであるとして読むことができます。イエスは今も生きておられるからです。ですから、35節の『二人の弟子』のうちの一人は、実は皆さんのことでもあります。これまで皆さんはイエスのことを知りませんでした。それが、ヨハネが『見よ、神の子羊』と言ってイエスを示したことでイエスの存在に気付きました。皆さんにイエスを示したヨハネとは、私クラークです。」
 そう言ってクラークは自分の胸に手を当てて、自分を示した。
「きのうのクリスマス・パーティでは、皆さんをこの新しい家の中に案内して、この部屋も見ていただきました。その時に皆さんは、このイエス・キリストの絵を見ました。そうしてイエスの存在を知りました。」
 クラークはイエスが描かれた絵画の前に行って、イエスを示した。
「きのうは大勢の人がこのイエスを見ましたが、ほとんどの人は見ただけでした。でも、皆さんはイエスに関心を持って、イエスに近づいて来ました。ですから、皆さんは37節の『イエスについて行った』弟子です。そして私クラークは『見よ、神の子羊』と皆さんに言ったヨハネです。」
 聖書を高く掲げて、クラークは続けた。
「聖書を読む時、初めのうちは誰でも聖書の中の登場人物を<他人事>として読みます。でも聖書に親しむようになると、登場人物のことが段々と<自分事>になって来ます。すると、38節の『あなたがたは何を求めているのですか』というイエスの問い掛けが、自分に向けられたことばだと感じるようになるでしょう。」
 信次と順三は、「確かにその通りだ」と感じていた。聖書の登場人物は信次と順三にとって<自分事>になっていた。
「しかし、『あなたがたは何を求めているのですか』というイエスの問い掛けに、すぐに答えられる者は少ないでしょう。心の奥底で自分は何を求めているのか、私たちはあまり考えないで生きています。おいしい物を食べたいとか、お金が欲しいなどの表面的な願望なら、すぐに答えられるでしょう。でも、奥深い魂の領域で自分が何を求めているのかは、なかなか分かりません。」
 クラークは全員に向けて語り掛けた。
「あなたがたは何を求めているのですか?」
 出席者の一人一人は、自分が何を求めているのかを自問自答した。
「この難しい問題に答えられなかったヨハネの弟子たちは『先生、どこにお泊まりですか?』と、イエスに聞き返しました。もっとイエスの話を聞きたいと思ったのでしょうね。するとイエスは『来なさい。そうすれば分かります』と彼らに言いました。」
 39節のイエスのことばを、クラークはもう一度繰り返した。
「来なさい。そうすれば分かります。」
 さらに38節と39節のイエスのことばをつなげて言った。
「『あなたがたは何を求めているのですか?来なさい。そうすれば分かります。』もし、このバイブル・クラスに来週以降も続けて来て下されば、答が少しずつ分かるようになると思います。ぜひ、来週も来て下さい。お待ちしています。」

 信次と順三は、1年前のバイブル・クラスに参加し始めた頃のことをそれぞれ思い返していた。そして、自分はこの「あなたがたは何を求めているのですか?来なさい。そうすれば分かります」というイエスのことばを聞いていたのだなと納得した。だから1年間、バイブル・クラスへの出席を続けて来られたのだ。
 信次はバイブル・クラスに出席するようになって以来、自分のためではなく、人の役に立てる者になりたいと考えるようになっていた。そのために自分は将来、どのような道を進むべきか悩むようになっていた。小さい頃は、自分も父と同じように大工になると思っていた。大工ももちろん、人の役に立つ仕事だ。しかし、西洋の建築学なども広く学んで大きな建物の設計に携わるのも良いのではないかと思うようになった。それが最近は、必ずしも建築関係にこだわらなくても良いのではないかと思うようにもなった。父の職業の延長線上に自分の将来を見るのではなく、もっとぜんぜん別の専門を進む道も有り得るのではないかと思うようになった。
 信次は幼い頃から植物や動物にも興味を持っていた。ツバメやハトの子育てを観察するのも好きだった。ハトの卵は、ウズラの卵ほどの大きさだ。つまり、ハトの子は生まれたばかりの頃はウズラの卵ほどの大きさでしかない。それが、わずか2週間で親バトに近いぐらいの大きさまで育つ。毎日見るたびに大きくなるのが分かる、驚異的な成長スピードだ。そのままのスピードで成長を続けるならワシやタカぐらいの大きさになっても良さそうなものだ。しかし、ハトの子の場合は親バトの大きさに近づくと成長速度に急ブレーキが掛かって、それ以上は大きくならない。この急成長と急ブレーキに信次は生命の神秘を強く感じていた。生物学を学んで生命の神秘について、もっと深く知りたいと信次は思うようになっていた。
ただし、これは生物に関する純然たる好奇心だ。この好奇心だけで自分の進む道を選んで良いものだろうか。この道に進むことで、どれほど人の役に立つことができるだろうか?何を学ぶことが、自分にもっともふさわしいだろうか?その答を与えてくれるのはイエスであろう。自分の命はイエスによって造られた。それゆえイエスは自分の心の奥底のことまで知り尽くしている。心の奥深くで自分は何を求めているのか?思いを巡らす信次にイエスの「あなたがたは何を求めているのですか?」の問い掛けが響いていた。

 順三もまた、イエスの「あなたがたは何を求めているのですか?」の問い掛けに、改めて思いを巡らしていた。順三は、真理を知りたいと願っていた。順三の心の中ではヨハネの福音書8章31~32節が響いていたのだ。

ヨハネ8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 順三は「真理を深く知りたい」と強く願っていた。聖書を深く学べば真理に到達するだろうか?クラークの教えを受けていた順三は、聖書だけを学んでいても真理には到達しないかもしれないと考えていた。化学の真理、物理の真理、数学の真理、様々な真理がある。聖書の真理を深く知るには、それらの真理もまた深く知る必要があるのではないか?化学や物理を学ぶことで、神がこの宇宙をどのように創造されたかが分かる。それらを知ることで、神をより深く知ることができ、真理に近づくことができるのではないか?順三はそう考えるようになっていた。
本屋の息子の順三は幼い頃から本に囲まれて育った。多くの書物に目を通すことができる環境で育ったことが、今の自分を造ったと考えている。もちろん、人には限界がある。すべての学問分野を深く学ぶことは不可能だ。それでも、できるだけ広い分野に関心を持つことが神を知り、聖書の真理に近づくために必要なことではないか、それが順三の考えであった。それゆえ海外に留学すれば日本で学ぶよりもさらに広く学べるのではないかと順三は期待していた。そして、やがては静岡に戻り、静岡の人々が広く真理に触れる場所を作りたい。静岡の人々が真理を知るための重要な役割を自分が担いたいと願っていた。

 実はヨハネ8章31~32節の聖句は、中村正直が8月に東京に転任した時の送別のバイブル・クラスでクラークが開いた箇所であった。クラークが中村に贈ったこの聖句が順三の心の中で響いていた。中村が静岡を離れて以降、教授陣の東京転任が加速して、静岡学問所は消滅の危機の中にあった。この状況を順三はクラークと同じくらいに寂しく思っていた。そんな順三に「真理はあなたがたを自由にします」のイエスのことばが心の支えになっていた。

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連載8 石造りの洋館の建築

2024-10-21 04:56:37 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(8)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

石造りの洋館の建築
 クラークは蓮永寺での暮らしにすっかり馴染んでいたが、問題が無いわけではなかった。勝海舟と大久保一翁がクラーク招へい前から懸念していた通り、クラークの命を狙う攘夷派の残党が現実に存在したのだ。クラーク自身も学問所と蓮永寺との間を往復する時に、目付きの鋭い二本差しの侍をしばしば目撃していた。しかもクラークは昼食時に宿舎に戻っていたので寺と学問所との間を1日に2往復しており、命を狙われる危険が2倍あった。
 クラークの着任から半年ほどが過ぎた頃、勝海舟はクラークの転居について大久保一翁と相談していた。
「クラーク君の宿舎の件だが、転居を考えたほうが良いかもしれませんな。」
「そうですね。勝殿もやはりそう考えていましたか。」
「実は蓮永寺から苦情が来ているのだよ。クラーク君の命を狙う者が寺の周りでウロウロしているので警備の者を何人か門の前に配置しているのだが、寺の檀家衆が境内に入りにくくなり、墓参りも躊躇するほどだと蓮永寺は言うんだよ。」
「そのことは私も聞き及んでいます。しかし、他に引き受けてくれる所を探すのは、かなり難しいでしょうね。」
「蓮永寺を口説いた時も大変だったからね。いっそのこと、新しい家を学問所の近くに建てたほうが良いのかもしれないね。」
「そうですね。候補地をいくつかクラーク君に示して、彼に選んでもらうようにしましょうか。」
 新しい館を建てるという案に大久保も賛成したので、勝はクラークに新居を建設する案を話した。そして、候補地をいくつか示した。

 勝から新居の話を聞いた時、クラークは戸惑った。蓮永寺での生活が気に入っていたからだ。寺の境内に咲く梅や桜はホームシックで沈んでいた頃のクラークの心を優しく癒してくれた。野鳥たちの鳴き声にも心が和んだ。竹林のサラサラという葉の音や寺の鐘の音にも心が洗われる思いがした。谷津山の散歩道を登った所から見える太平洋の眺めも愛していた。それゆえ、クラークは勝と大久保の提案を最初は断った。
とは言え、攘夷派に命を狙われている危険はクラーク自身も感じていた。安全な場所に居を移したほうが確かに良いのであろう。また蓮永寺での生活には慣れてはいたものの、僧たちの読経の声や木魚・銅鑼の音は相変わらず苦手だったので寺を離れるのも良いかもしれない。何より、新居を自分で設計しても良いと勝海舟から言われたことに、クラークの胸はときめいていた。


外堀の石垣の土手の上から見た北方面(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵


 クラークは勝と大久保から示された新居の候補地を見て歩いた。どの場所も魅力的であったが、一番気に入ったのが駿府城内の北西の一角であった。駿府城は一辺が約700メートのほぼ正方形の外堀に囲まれていて、外堀の内側には石垣が高く積まれていて城内から見ると土手状になっている。この石垣の土手の上に立つと見晴らしが良く、北北東の方向には富士山が見える。この土手の上からの景色がすっかり気に入ったクラークは、城内の北西の角に新居を建てることにした。


外堀の石垣の土手の上から見た西側の賎機山方面(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

「どんな家を建てようか。」
 わくわくする気持ちを抑えて、クラークは聖書を開いた。

詩篇127:1 主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。

 その通りだとクラークは思った。新居は自分が建てるのではない。神である主が建てるのだ。主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。静岡学問所で教えることになったのも、神の導きによるものであった。そうして、純朴な静岡の学生たちから自分もまた大切なことを教えられている。新居を建てることを勝海舟と大久保から提案されたことも神の導きによるものであろう。どのような家を建てるのが良いか、神の導きを求めて、クラークは聖書のサムエルのように祈った。

サムエル記第一3:10 「お話しください。しもべは聞いております。」

 すると、勝海舟が1860年に咸臨丸でサンフランシスコへ渡航した経験を話してくれた時のことがよみがえって来た。
「この航海は、これまでの人生で最高の経験だったよ。サンフランシスコでは大変なもてなしを受けて、いろいろな所を見せてもらったな。道路や造船所、砦、灯台、病院、工場、ガス灯、劇場、教会、学校、鉄道車両。どれもこれも目を見張るものばかりで、文明開化に対する考え方がすっかり変わったよ。」
 これだ!とクラークは思った。勝海舟がサンフランシスコで経験したようなことを、静岡の人たちに新居で経験してもらおう。幻灯機やオルガンを置いて、西洋の文明を体感してもらおう。すると、新居は必然的に洋館ということになる。洋館なら木造よりも石造りのほうが良いであろう。蓮永寺での半年間の暮らしでは多くの地震を経験した。木造の家では地震の揺れも大きい。地震の点からもクラークは新居を石造りにしたいと思った。しかし日本で、しかも静岡で、石造りの家を建てることは可能であろうか?クラークは勝に相談した。
「新しい家を石で造ることは可能でしょうか?」
「石材なら城内に廃材があるし、近隣から調達もできると思うよ。でも、大工は木造の家しか建てたことがないから、できるかな。いちど大工に相談してみると良いかもしれないね。学問所の校舎や実験室を建てた大工はどうだろう?」
「そういえば、私の学生の父親が学問所の校舎や実験室を建てたと話していました。その学生に話してみます。」
 信次と順三と三人で谷津山を散歩した時のことをクラークはよく覚えていた。その時、信次の父が大工であると聞いていた。クラークは信次を呼んだ。
「信次のお父さんは大工だと言っていたね。」
「はい。」
「話がしたいので、お父さんに学問所に来てもらえないかな。信次が通訳になってくれれば、いろいろ話がしやすいと思うから、信次も一緒にいてもらえるかな。」
「分かりました。父に話してみます。」
 帰宅した信次は父の大吉に言った。
「クラーク先生が父さんと会って話がしたいと言っていたよ。」
「何だい?実験室の修繕でもするのかい?」
「修繕の必要はないと思うけど…。でも実験室の建て増しとか、かもしれないね。」
「分かったよ。じゃ、明日は仕事を早めに切り上げて学問所に行くようにするよ。」
「うん。僕も一緒にいて、通訳をすることになっているよ。」
 翌日、大吉は学問所のクラークの部屋を信次の案内で訪ねた。
「大吉さん、お会いできてうれしいです。」
「ハロー。きょうは実験室のことですかね?」
「ノー。私が住む家のことです。新しく建てたいと思っています。」
「そりゃ、いいですね。俺にできることがあったら、何でも言って下さいよ。」
「サンキュー、大吉さん。実は西洋風の石造りの家を建てたいと思っています。」
「石の家ですか?そんな家を建てられる大工は静岡にいませんよ。」
「ミスター勝も、そのように言っていました。それで、大吉さんに相談してみることにしました。大吉さんに棟梁になってもらえませんか。」
「俺はできませんよ。だいたい、石の家なんか見たこともありませんからね。」
「設計は私がします。とは言え、私も建築は素人ですから、細かいことまで知っているわけではありません。」
「じゃ、ますます無理じゃないですか。俺は良くても他の大工たちは引き受けないと思いますよ。木の家なら建てられるけど、石の家なんかできませんよ。」
 この日の話し合いは、平行線のままで終わった。その夜、聖書を開いたクラークはローマ人への手紙12章に目を留めた。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 立派な実験室を建ててくれた大吉をクラークは尊敬していた。それゆえ西洋風だけにこだわらず、和風も取り入れた和洋折衷案を提案してみようかとクラークは思った。次の話し合いの時、クラークは言った。
「大吉さん、日本式も取り入れたいと思います。壁は石にしたいですが、その他は大吉さんのアイデアも取り入れて、一緒に家を造りませんか。」
「うーん、そうですか。そこまで言われると、断わりにくいね。」
「ぜひ、お願いします。」
「分かりました。棟梁を引き受けましょう。他の大工たちは、俺が説得しますよ。」
「大吉さん、サンキュー、ベリー、ベリー、マッチ。」

 翌日から二人は施工の仕方の相談を始めた。信次は授業があって通訳がいつもできるわけではなかったので、下条たちも通訳に入った。クラークはまず大吉を外堀の土手の内側の建築予定地に案内して、新邸の大きさをどの程度にするかの相談から始めた。静岡の人々を多く招くには大きい家が望ましいが、大きいと費用が掛かるし、工期も長くなる。費用は徳川家の財産によって賄われるよう勝海舟が配慮してくれた。問題は工期だ。蓮永寺の宿舎を出ると決めたからには、あまりゆっくりはできない。また、クラークは12月のクリスマスには新邸に人々を招きたいと考えていた。今は6月だから、クリスマスまであと半年だ。この工期で建築可能な大きさを大吉と話し合い、新邸は平面の寸法が東西30尺(約9メートル)、南北36尺(約10.8メートル)の2階建てとすることにした[寸法は渡辺保忠『静岡におけるE ・W ・CLARK の住宅とその影響について』日本建築学会論文報告集、第63号(1959)p.660による。下記の工法も同論文を参考にした]。


城内の北西の角に建てられたクラーク邸(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵
1階の西側と北側の壁が外堀の土手の内側に接している。右側の木造家屋は料理人・仙太郎の住居。

 この大きさでクラークが設計した新邸は東西南北の4つの側面のうち北と西の2つの側面の1階部分が外堀の土手の内側に接するように建てるという、極めて独創的なものであった。土手の高さは2階の床の高さと同じであるため、北側と西側に設けたバルコニーから富士山や賎機山方面の景色を眺めることができる。バルコニーから土手に出て外堀沿いに散歩することも可能だ。また、1階部分の2つの面は土手に隠れて見えないので石の外壁をきれいに整える必要もない。堅固な土手に2つの面が接しているため、地震の横揺れに強いというメリットも期待できる。


2階バルコニー横の土手から見た南方向に延びる西側外堀(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

 大吉が石工と大工を集めて、工事はまず敷地の整備から始められた。外堀の土手の内側の一部を切り取り、土留めのための上張りを花崗岩で施した。このための石材は城内の廃墟から運んで来た。きれいで見映えが良い石材は近隣の地方から調達することになった。
 そして、いよいよ新邸本体の建築に入るのだが、大吉の説明を聞いたクラークは驚いた。まず石壁を築いて、その上に屋根を載せると思っていたのだが大吉の説明によれば、そうではないとのことだ。
「まずは屋根から造るよ。俺たちはいつもそうしてるよ。」
 和小屋(和風小屋組み)で屋根を組んで日本瓦を葺き、その後で石壁を築くとのことだ。まさに和洋折衷の造り方であり、クラークもこの工法に同意した。屋根は1ヶ月ほどで完成して、そのあと約2ヶ月掛けて石材による壁が築かれた。
石工たちが壁を築いている間、クラークは大吉にドア、窓、階段、クローゼット、煙突などについて細かく説明した。これらの設計には、クラークはやはりグリフィスに資料の送付を依頼して助けにしていた。そして、この説明のためにクラークは精密な図面を描いて大吉に示した。洋風のドアや窓などを静岡の大工たちは見たことがなかったからだ。そして大吉たちは、この図面を基に小型の精巧な模型を作ってクラークに見せた。それらの模型が完全なことにクラークは驚嘆した。修正が必要なことは滅多になかったのだ。家康の時代から徳川家とのゆかりが深い静岡には由緒ある神社や寺の修繕に長けた腕の良い大工が多数いた。クラークは大工たちの腕前に驚いたが、大吉たちにとっては普通のことだった。


西側外堀から見たクラーク邸の2階(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

 こうしてドアや窓が取り付けられて内装工事が進められたが、大吉は煙突の取り付けには最後まで強く反対した。煙突を付けるには屋根に穴を開ける必要があるからだ。
「こんなものを取り付けると、何年か後には必ず雨漏りがするようになりますよ。」
 これが大吉の言い分であった。しかし台所のかまどと暖炉に煙突は欠かせない。
「雨漏りしたら修繕します。どうか煙突を取り付けるようにして下さい。」
クラークが懇願するので大吉はしぶしぶ煙突の取り付けに同意した。そして遂に新邸が完成した。

 蓮永寺から新邸に引越しをする日の早朝、クラークは裏山の谷津山に登った。徹夜の荷造りで疲れていたが、谷津山の散歩道を次はいつまた登れるか分からない。蓮永寺を離れる前にもう一度、どうしても登っておきたかった。山道を登りながら、ちょうど1年前にアメリカから日本に渡航して来てからのことを思い返した。静岡学問所の教師の契約書への署名を拒否したこと、蓮永寺での初めてのバイブル・クラスとクリスマス・イブ、学問所での理化学の授業、親友のグリフィスの来静、相良油田の発見、そして新邸の設計と建築。新邸を建築していたこの半年の間にも、本当にいろいろなことがあった。
日本に来てからの1年間を懐かしく振り返りながら、クラークはふと新約聖書の使徒言行録のパウロのことを思った。異邦人への伝道の使命を神から与えられたパウロは、第1次伝道旅行でアジアを巡った。そして第2次伝道旅行ではヨーロッパに導かれて、ピリピやコリントの地などで広く宣教した。そうしてキリストの教えは、やがてヨーロッパを拠点にして世界各地に広がって行った。蓮永寺の宿舎から駿府城内の新邸に導かれたクラークは、自分もパウロのように静岡での伝道の第2段階に進もうとしていることを感じた。そうして、さらにキリストの教えが広まって行くことを期待した。
 谷津山の上でクラークはいつものように呼吸を整えて心を静め、波の音が大きく聞こえるようになるのを待った。心が静まって大海と一つになる時、クラークは大志が海の水のように満ちて来ることを感じた。これからいよいよ静岡での第二幕が始まるのだ。

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連載7 相良油田の発見

2024-10-21 04:27:52 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(7)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献


相良油田の発見
 徳川慶喜との会見は、クラークが静岡に来た当初から望んでいたことであった。勝海舟や中村正直が仕えていた将軍とは、どのような人物なのか。クラークは早く会って話をしたいと思っていた。来日してからのクラークはどこへ行っても歓迎されていたため、慶喜との会見も早期に実現するだろうとクラークは楽観していた。しかし、自分は慶喜に歓迎されていないことを知り、クラークは落胆した。学問所での授業の立ち上げに忙殺されていた時には落ち込んでいる暇はなかったが、授業が軌道に乗って来ると、故郷を思って寂しく思うことも多くなり、気が滅入るようになっていた。ホームシックは洋の東西を問わず、海外滞在者のほとんどが一度は経験するものである。特に冬期は重症化しやすい。寒く、日没も早くて夜が長いためだ。クラークも例外ではなかった。
 クラークのホームシックが最も重くなったのは、1872年の1月末に親友のグリフィスが福井から東京へ向かう途中に静岡に泊まっていった直後のことであった。グリフィスは1月30日の火曜日の晩に静岡に一泊しただけで、翌31日の水曜日には東京へ向かって発って行った。久し振りの再会で、もっと何日も滞在すると思っていたクラークはガッカリした。しかし、もしグリフィスが静岡にもっと長く滞在していたら、クラークのホームシックはもっと重症化していたことだろう。友が去った後の喪失感が増すからだ。友との再会がいかに楽しいものであったかをグリフィスの姉のマーガレットに宛ててクラークは手紙を書いた。日付は2月5日になっている。

 昼食と夕食の後、私たち[クラークとグリフィス]はその晩遅くまで、静かで楽しいときを一緒に過ごし、夜更けになると祈りをささげ、床に就きました。たった二人きりだとは言え、「グリフと一緒に」祈祷をするのは、本当に、昔のままでした。その後彼を寝台に寝かせましたが、それは家の端から端まで届く大きさで、彼が来るときのために特別に作らせておいたものでした。その中で寝たのは彼が最初だったのですが、一泊しただけでした。彼は二、三日とどまるつもりだったし、もし前の土曜日にこちらへ着いていたとしたら、そうしたことでしょう。しかし、ひどい吹雪で遅れたため、水曜には出発しなければならない、と言うのです。2月3日の土曜日には江戸に着きたかったからです。私は彼を大きな寝台の柱にくくりつけておこうとも思いましたが、彼を押しとどめることはできませんでした。そのため私は一日、学校の建物や実験室、英語・中国語・日本語等の本がある書庫を見せたり、町やその周りを少しのぞいたりして、精一杯歓待しました。(刀根直樹・今野喜和人訳『翻訳の文化/文化の翻訳』第5号p.143-144、静岡大学人文学部翻訳文化研究会、2010年)

 静岡に寄るグリフィスのために、クラークは蓮永寺の宿舎に大きなベッドを新たに作らせていた。そこまで準備しておいたのにグリフィスは一泊しかしなかった。グリフィスが去った後に残された大きなベッドを見て、クラークはかつて味わったことのない寂しさに襲われた。宿舎にいると気が滅入るばかりなので、クラークは蓮永寺の裏手にある谷津山(やつやま)に登った。谷津山は標高百メートルほどの低山で、20分も歩けば太平洋を見渡せる場所に行ける。太平洋を眺めながら、この大海原の向こう側にあるアメリカを思った。故郷は遠い彼方にあるが、この海で日本とつながっていると思うと、距離はぐっと縮まることを感じる。クラークは両親や友人たちの顔の一人一人を思い浮かべて心の慰めを得た。耳を澄ますと、遠く離れた海から波の音が微かに聞こえた。この波の音は心が静まるほどに大きく聞こえるようになる。ホームシックの寂しさが和らいで行く中で、波の音が少しずつ大きくなっていくことをクラークは感じていた。


蓮永寺の梅の花(2024年2月18日 筆者撮影)

 蓮永寺の境内に咲く梅の花も、クラークのホームシックをやさしく癒した。クラークの心は静岡の風土になじみ始めていた。静岡の役人から黒っぽい液体が静岡学問所に持ち込まれたのは、そんな頃であった。
「相良(さがら)で、このような液体が発見されました。これが一体何なのか、クラーク先生に調べていただきたく、持参しました。」
 役人は瓶詰にした液体をクラークに手渡した。瓶のふたを開けて、クラークはふたの上を手の平であおぎ、鼻を近づけた。すると、揮発性の油のような刺激臭がした。そこでクラークは実験室の薬品棚からケロシン(灯油)の瓶を取り出してふたを開け、同じように手の平であおいで鼻を近づけた。
「においはケロシンに似ていますね。でも、ケロシンだけではないようです。恐らくは原油ではないでしょうか。調べて連絡するようにします。」
 クラークは、この黒っぽい液体が原油であると直感したので、書庫へ行って原油関連の記述がある文献を探した。さらに、クラークはその日のうちに東京のグリフィスに手紙を書いた。
「グリフ、きょう私の所に黒っぽい液体が届いた。恐らく原油だと思う。原油に関する文献があったら、教えてもらえないだろうか。」
今は東京にいるグリフィスは大学南校で化学の教師をしていた。大学南校にはグリフィスの他にも化学の外国人教師がいて、文献も豊富にあったため、クラークはグリフィスにアドバイスを求めたのだ。グリフィスが福井から東京に移ったことはクラークにとって、様々な面で心強いことであった。
 翌日からクラークは通訳の下条を助手にして、黒っぽい液体の分留を早速始めた。
「魁郎、恐らくこれは原油だと思う。いくつかの成分に分離できると思うから、加熱して分留してみよう。」
 分留とは、沸点の差を利用して複数の成分に分けて分離する蒸留法のことだ。加熱温度が低い時は沸点の低い成分が蒸気となって分離され、その蒸気を冷やすと凝縮して液体に戻る。加熱温度を上げることで残った液体も沸点の低い順に蒸気となり、分離されて行く。このプロセスを繰り返すことで、液体はいくつかの成分に分留される。純度を上げるためには、凝縮した液体をさらに分留すれば良い。クラークは分留した液体の密度を浮きばかりで測定した。液体は沸点が低いものほど密度が低く、粘度も低くて無色透明に近かった。逆に沸点が高いほど密度が高く、粘度が高くて黒っぽい色をしていた。クラークはこれらの結果と、グリフィスから送られた情報も合わせて、この液体が原油であることを確認した。
「やはり原油だったね、魁郎。」
「先生、この油は何かの役に立つのですか?」
「いい質問だね、魁郎。夜の灯火用の燃料として優れているのだよ。植物油や魚油よりも、ずっと明るい光で照らすことができるんだ。」
 クラークは少量の灯油に火を灯して見せた。原油の成分であるガソリン、灯油、軽油、重油等の石油は21世紀の現代ではそれぞれ用途が異なる。しかし1872年の当時、石油は専ら灯火用に用いられていた。灯火用の植物油の代替燃料として石油の価値が高まっていたのだ。当時はまだガソリン・エンジンや軽油を燃料とするディーゼル・エンジンは発明されていなかった。重油が燃料として用いられるようになるのは、さらにずっと後のことだ。それゆえ当時は灯油以外の成分の石油は廃棄されていた。
 静岡に近い相良の地で灯火の燃料となる石油が産出されるようになれば、それは視力の弱いクラークにとっても朗報であった。
「これで、夜の読書の時間をもう少し長く取れるようになるかもしれない。」
 植物油の灯りの下では、クラークは字を読むとすぐに目が疲れてしまっていた。石油ランプがあれば、それほど目は疲れないだろう。季節が春に移る中での石油発見の出来事も加わって、クラークのホームシックもいつしか癒されていた。
 
 そして緑が濃くなる5月、蓮永寺の裏山の谷津山では様々な野鳥たちのさえずりの声がクラークの心を和ませていた。中でもクラークのお気に入りはウグイスとホトトギスの鳴き声であった。アメリカでは聞いたことがない日本の鳥たちの鳴き声を聞きながら、日本の生活に慣れ親しんで行く自分をクラークは感じていた。
 ある時、クラークはホトトギスがウグイスによって育てられていることを耳にした。ホトトギスはウグイスの巣に卵を産み、子育てを全面的にウグイスに任せるというのだ。ウグイスがホトトギスの卵を温めて、誕生したヒナに食事を与えて育てるのもウグイスだ。ホトトギスのヒナは成長するとウグイスより何倍も大きくなる。<托卵(たくらん)>というホトトギスの不思議な習性のことを聞いたクラークは下条に話さずにはいられなかった。
「神様は不思議な習性の鳥を造るものだね。神様はどうしてそういう変わったことをするんだろうか?」
「ホトトギスの習性のことは、私も聞いたことがあります。確かに変な習性ですよね。ホトトギスの体はウグイスよりもずっと大きいのですよ。小さなウグイスが大きなホトトギスを育てるなんて、本当に不思議ですね。」
「でも考えてみると、私も日本人に育てられているのかもしれないね。アメリカから来たばかりの頃は、自分が日本人を育てるのだと思っていたけれど、今考えると、それは随分と傲慢な考え方だったよ。日本に来てから多くのことを日本人から新たに教わり、今もまだ教えてもらっているから、私は日本人に育てられているのだね。」
「クラーク先生、神様はそういうことを人間に教えるために、ホトトギスという不思議な鳥を造ったのかもしれませんね。」
「そうかもしれないね。私は日本に来て、本当に良かったよ。」
 クラークが特に感心していたのは静岡の若者たちの礼儀正しさと、年長者を敬う態度であった。アメリカの大学生たちには老教授を軽く見るような傾向があったが、静岡学問所の学生たちからはそのような年長者に対する蔑視は微塵も感じられなかった。皆、純朴な好青年であった。その好青年の代表が信次と順三だ。

 ある日曜日の午後、クラークは信次と順三と三人で谷津山の散歩を楽しんだ。
「クラーク先生は、谷津山をよく散歩されるんですか?」
 信次は聞いた。今では信次も順三も通訳がいなくてもクラークと英語で会話ができる。
「イエス。日曜日の午後には、よくここに来るよ。あの海の向こうにアメリカがあるから、家族や友人たちが神様から守られますように、いつも祈っているよ。」
 クラークが海の向こうにあるアメリカのことを想っていることを聞いて、順三は言った。
「クラーク先生。私は静岡学問所での学びを終えたら、アメリカかヨーロッパに留学したいと思っています。」
「それは良いね。海外に行って何を学ぶつもりかな?」
「まだ分かりません。先生方からいろいろ学びながら、ゆっくり考えたいと思います。」
「私も相談に乗るよ。」
「はい、よろしくお願いします。」
 順三が海外へ留学したいと思っていることを、信次も少し前に聞いていた。信次は静岡学問所の学びを終えた後のことはまだほとんど考えていなかった。静岡に残るのか、東京に行くのか、順三のように海外留学を希望するのか。親友の順三が早々に留学を決めていることを知り、少しあせる気持ちもあったが、信次の家は順三の家ほど裕福ではなかったので、留学することはないだろうと思っていた。
「信次は卒業後はどうしたいと考えているんだい?やっぱり海外留学をしたいのかい?」
 信次はクラークに答えた。
「私の父は大工で、家にはあまりお金がありませんから、留学はしないと思います。」
「お父さんは、どんな建物を建てているの?」
「父は学問所の校舎や実験室、それに学生の寄宿舎を建てました。」
「私の実験室は信次のお父さんが建てたんだね。素晴らしい!どうもありがとう。」
「父が一人で建てたわけではありませんが、先生が喜んで下さり、うれしいです。」
「学問所の建物を建てたのだったら、報酬はそれなりにもらっているはずだよ。それに、奨学金の制度もあるから、もし留学したいのだったら、お金の心配はあまりしなくて良いと思うよ。信次は順三と同じで成績が優秀だから。」
 選択肢から除外していた海外留学の道もあり得るかもしれないと思うと、信次は体が熱くなるのを感じた。
「信次、良かったな。」
 うれしそうに言う順三に、信次は黙ってうなずいた。そして、クラークに言った。
「先生、次は賎機山もぜひ一緒に散歩しましょう。案内しますよ。」
 信次は話をそらした。海外留学はあり得ないと思っていた信次は、留学の話が急に出て来たことに、少し戸惑っていたのだ。

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連載6 勝海舟による全面支援

2024-10-18 11:13:51 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(6)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

第二章 育まれた大志
勝海舟による全面支援

 東京にいる勝海舟は、静岡学問所でのクラークの授業が順調に立ち上がったこと、また蓮永寺でのバイブル・スタディも混乱なく行われたことを中村正直からの手紙で知り、深く安堵した。
 福井のグリフィスが推薦したクラークを静岡に招くことに決まった時、勝海舟はクラークの宿舎をどこに定めるか、大久保一翁らと直ちに相談し始めた。当時はまだ幕末の攘夷の気風が残っていたため、アメリカ人のクラークの命が狙われる危険があった。そのため、警備がしやすい宿舎が好ましい。また、クラークが生活しやいように、和室を洋室に改装することも勝は考えていた。
 勝は3年前に徳川慶喜と家達と共に多くの旧幕臣が静岡に移り住んだ時の住居の問題にも携わった。勝らの労苦によって旧幕臣とその家族らは寺院や民家に住むことができるようになった。その数は1万人を超えたとされる。この時の経験により勝は静岡の寺院や民家の状況を把握していて、クラークの宿舎は蓮永寺が良いであろうと考えた。蓮永寺には勝の母・信の墓を1年前に建てたばかりでもあり、住職とのやり取りも多かった。
 しかし、蓮永寺の側からすれば、寺の一角をアメリカ人の宿舎にするなど、受け入れ難いことであった。
「いくら勝殿の頼みであっても、アメリカ人を受け入れることは到底できません。」
 これが蓮永寺側の回答であった。それでも勝は折れなかった。江戸城無血開城の時も、旧幕臣の静岡への大量移住の際も、勝は粘り強く交渉に当たった。今回のクラークの宿舎の件でも、勝は蓮永寺と粘り強く交渉した。
「これは勝個人の頼みではない。徳川家からの依頼である。静岡学問所は学問によって徳川家を再興するために創立した学校である。この学問所には西洋の最新の理化学を教えることができる外国人教師が不可欠である。今回のアメリカ人教師の宿舎は、徳川家のためにも、どうしても必要なものだ。」
 勝海舟の説得により、蓮永寺はクラークを受け入れることにした。和室を洋室に改装することも容認した。クラークの渡日まで残された日はわずかであったので、改装の工事は直ちに始められた。
 横浜に到着したクラークが静岡学問所との契約書の署名を拒否したことを勝が知らされたのは、蓮永寺の改装工事が急ピッチで進められている、まさにその時であった。
「面倒なことになった。」
 勝はつぶやいた。静岡では学問所の実験室の建設もやはり急ピッチで進められていた。実験室を整えることはクラークが福井のグリフィスのアドバイスにより静岡学問所に要望したものであった。いわばクラーク専用の実験室だ。クラークが着任しないのならば、実験室の整備を急ぐ必要はない。クラークのために改装工事をしている蓮永寺にも申し訳が立たない。
 しかし、面倒なことには慣れている勝であった。外務卿の岩倉具視と各方面に手早く連絡を取り、契約の妨げになっていた禁教の箇条を削除させるよう動いた。そして、中村正直の要望で持たれることになったバイブル・クラスについても、クラークの宿舎で開くことができるよう勝は蓮永寺に頼んだ。蓮永寺とすれば、寺の一角を改装してアメリカ人の宿舎にするだけでも容認し難いものであった。ましてバイブル・クラスを寺で行うことは、さらに受け入れ難いことであった。
「勝殿は次から次へと難題を押し付ける。」
 これが蓮永寺側の偽らざる正直な感想であった。しかし、これも勝海舟の説得によって容認することになった。信次や順三たち、そして青年教師のクラークが静岡の地において大志を育むことができたのは、まさに勝海舟による全面的な支援があったからこそのことであった。
 勝海舟は、その他のことにおいても様々な面でクラークの静岡の学問所での仕事や蓮永寺での私生活面での相談に乗って支援した。クラークが最後の15代将軍の徳川慶喜と面談することを望んでいることも、慶喜には何度も伝えていた。しかし、クラークと慶喜との面談は遂に適わなかった。クラークに限らず、慶喜は渋沢栄一など将軍時代の一部の家臣を除いては一切会おうとしなかった。復権を狙っているなどの無用の誤解を避けるためでもあっただろう。慶喜は静岡では趣味の油絵や写真などに没頭する生活を送っていた。静岡の有名人になったクラークに会えば世間は何かと噂をすることだろう。無用の誤解を避けるため、慶喜は決してクラークに会うことはなかった。

 勝海舟を通しての、クラークからの度々の申し入れを断っていたことを慶喜も心苦しく思っていたのであろうか、ある時、――クラークが蓮永寺の宿舎を離れて駿府城内に建てた新居に移ってからのことであるが――慶喜からクラークへ大きな養魚鉢が届いた。この慶喜からの贈り物をクラークは大いに気に入り、料理人の仙太郎に言った。
「立派な鉢だね。サム・パッチ、是非これは写真に撮っておこう。」
 写真を撮る時、クラークは自身も写り込むことを好んだ。それで養魚鉢の後ろや横に立ったり座ったり、様々なポーズを試みた。しかし、どうも気に入らない。
「私はこの中に入ることにするよ。」
「それは面白いですね。」
 そうしてクラークは鉢の中に座ってポーズを取ってみたが、今一つ様にならない。
「この写真が風呂に入っているように見えるよう、細工してみようか。箱根の温泉は乳白色をしていたな。ネガフィルムに墨を塗れば、その部分の印画紙は感光せずに白いままだから、乳白色の温泉のように見えるんじゃないかな。サム・パッチ、どう思う?」
「グッド・アイデアだと思います!」
 クラークはさらに養魚鉢の背後で煙を焚き、温泉の湯気らしく見えるようにした。クラークが乳白色の温泉に浸かっているように見えるようネガフィルムに墨を入れてから印画紙に焼き付けた。こうして、こだわりの一枚ができた。クラークは家族への手紙に徳川慶喜から養魚鉢が贈られたことを記して、この写真を添えた。


徳川慶喜から贈られた養魚鉢(クラーク撮影)
クラークの曽孫のJ.T.Knox氏が今野喜和人氏に提供

 後日、この写真を撮っておいて本当に良かったと思う出来事があった。サム・パッチが水風呂ではなく温かい風呂にしようと熱湯を注いだことで、この養魚鉢が大音響とともに粉々になってしまったからだ。慶喜からの贈り物が失われたことでクラークは落胆したが、せめて写真だけでも残ったことは救いであった。仙太郎は大変なことをしてしまったことに恐縮して、まったく元気がなくなった。しょげている仙太郎を見てクラークは気の毒に思い、こう言った。
「サム・パッチ。聖書には、こう書いてあるよ。」
 そして、マタイの福音書18章21~22節を朗読した。

マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

「七回を七十倍するまで兄弟を赦すべきとイエスが言っているから、私もサム・パッチを赦すよ。」
「イエスはどうして、そんなにも人を赦すべきことを説いているのですか?」
「それは、私たちも神に赦されているからだよ。私たちは皆、創世記3章のアダムとエバのように神に背く罪を犯したことがある罪人だけれど、イエスの十字架によって罪が赦されたからだよ。」
 そして続けた。

23 「ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」

「一万タラントの負債は、莫大な金額の借金だよ。王の家来は、これを免除してもらったんだ。この莫大な負債とは、神への背きの罪のことだよ。私たちはこの大きな罪を神に赦していただいているんだ。将軍の贈り物の養魚鉢をサム・パッチが熱湯で壊したことは、これに比べると微々たる罪だよ。私は莫大な罪の負債を神から免除していただいているのだから、私もサム・パッチを赦すのは当然だよ。だから元気を出して、またおいしい料理を作って欲しいな。」
 クラークは自宅に人を招いて西洋の料理を振る舞うことが多かった。そのための料理作りは仙太郎にしかできないことであった。

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連載5 化学のことば

2024-10-14 03:56:50 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(5)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

化学のことば
 そしてこの週から、すなわち明治4年(1871)12月25日の週から、静岡学問所でのクラークによる理化学の授業がいよいよ始まった。これこそが信次と順三が望んでいたことだった。バイブル・クラスにも関心はあったが、それよりも二人は理化学の授業にはるかに期待していた。
 この日、学生たちは講義室ではなく、新築の実験室に集まるように指示されていた。実験室の棚には薬品が入ったガラス瓶などが置かれていた。空いている棚も多い。信次が順三に言った。
「薬品のガラス瓶は、まだまだこれからも増えると、父さんが言ってたよ。」
 信次の父の大吉たちがこの実験室を建てたことを、順三も知っていた。順三たちが学問所で学んでいる間にも、建築が急ピッチで進められていたからだ。
「あっという間に建物が一つ増えたから、びっくりしたよ。お父さんも大変だったでしょう?」
「うん、家に帰った時にはいつも疲れていたよ。それでも道具の手入れは、きちんとしていたよ。」
 『西国立志編』の偉人たちのように仕事に一心不乱に取り組む父親のことを、信次は尊敬していた。
「すごいね、信次のお父さんたちは。きょうからの理化学の新しい学びに間に合わせてくれて、本当にありがたいよ。」
 学生たちが実験室に続々と集まって来た。大半の学生たちはクラークとは初対面であった。
「オハヨゴゼマス。ワタシハ、クラクデス。アメリカカラ、キマシタ。」
 実験室に入って来たクラークは、蓮永寺のバイブル・クラスの初日と同じあいさつをして、場を和ませた。そして、授業の導入部を話し始めた。

「この世界には、いろいろな大きさの物がありますね。例えば、私たちが住む地球はとても大きいですね。私は地球の反対側のアメリカから日本に来ました。アメリカ西海岸のサンフランシスコから横浜まで船で約1ヶ月掛かりました。地球の直径は人の身長の1千万倍ぐらいあります。」
 そう言ってクラークは実験室の黒板にman x 10,000,000 ≈ the earth と書いた。
「しかし、宇宙にはもっと大きな物があります。たとえば太陽です。皆さん、太陽の大きさがどれくらいか分かりますか?」
 学生たちは顔を見合わせた。信次も順三も、学生たちは太陽の大きさがどれくらいか誰も答えられる者はいなかった。
「太陽の大きさは、地球の約100倍です。つまり、人の身長のおよそ10億倍ぐらいあります。」
 クラークは黒板にman x 1,000,000,000 ≈ the sunと書いた。信次も順三も、身長の10億倍がどれくらいの大きさなのか見当も付かなかった。しかし0の数が9つもあるのを見て、それがとてつもなく大きいらしいことだけは分かった。
「では、次に小さい物について考えてみましょう。私たちの周りには空気があります。この空気はあまりに小さいので、私たちの目には見えません。しかし、私たちは確かに空気の中で生活しています。」
 そう言ってクラークは深く空気を吸い込んだ後で、前の週に通訳たちに見せたようにガラス管を口にくわえて水槽の水から空気の泡をブクブクと出した。
「これが空気です。」
 クラークは黒板にairと書いた。
「空気のモレキュール(分子)は、どれくらい小さいでしょうか?」
 太陽の大きさの時と同様に、信次も順三も分子の大きさは見当も付かなかった。
「実はモレキュールの大きさは、まだ良く分かっていません。でも、空気中のモレキュールとモレキュールの間の距離がどれくらいかは、大体分かっています。」
 そしてair x 400,000,000 ≈ manと書いて、
「空気のモレキュールとモレキュールの間の距離の約4億倍が人の身長です。」
 0の数が8つもあることから、とにかく空気の分子間の距離が小さいことだけは分かる。
「空気の4/5はナイトロジェン(窒素)、1/5はオキシジェン(酸素)です。」
 次に黒板にN2、O2と書いて、
「Nはナイトロジェンのアトム(原子)、N2はナイトロジェンのモレキュールです。同様にOはオキシジェンのアトム、O2はオキシジェンのモレキュールです。アトムとモレキュールの関係は、これからの授業の中で明らかにして行きます。この化学のクラスでは、私たちの周囲にある物が、小さなアトムから出来ていることを先ず知ってもらいます。そして、アトムの組み合わせによって、いろいろなモレキュールが出来ることを一緒に学びたいと思います。」
 クラークは前の週に通訳たちに話したことよりも、さらに多くのことを学生たちに話した。通訳たちの反応を見て、もっと丁寧に話さなければならないと思い直したからだ。補足する内容も先週のうちに通訳たちに伝えた。それゆえ先週は本当に忙しかった。クリスマス・ツリーが小さくなったのも、そのせいであった。
「では、最初の実験を始めます。ここに小さなソディウム(ナトリウム)があります。このソディウムを水の中に沈めます。」
 先週と同じ操作で、クラークはナトリウムの小片を網のカゴの中に入れて水槽の水に沈めた。ナトリウムからは激しく泡が出て、気体が試験管の中に溜まって行った。
「皆さん、このガスはいったい何でしょうか?誰か分かる人はいますか?」
 誰も答える者がいなかったので、クラークは信次に聞いた。
「信次は分かりますか?」
 蓮永寺でのクリスマス・イブの食事の時にクラークは信次とも話していたので、名前を覚えていたのだ。
「お湯を沸かすと泡がブクブクと出ますから、このガスは湯気のようなものでしょうか?」
 どぎまぎしながら信次は答えた。
「なるほど!そういう考え方もありそうですね。確かに、このガスの中には湯気も含まれているでしょうね。素晴らしい答です。順三はどう考えますか?」
「でも、もしこのガスが全て湯気だとしたら、すぐにまた水に戻るのではないでしょうか?見ている限り、水に戻っている様子はありません。ですから湯気は少しだけで、このガスは他のものだと思います。」
「順三の観察も素晴らしいですね。では皆さん、このガスは何でしょうか?」
 学生たちを見渡した後でクラークは言った。
「このガスは、水から生じたハイドロジェン(水素)です。」
 そして化学式を黒板に書いた。

(H2O) 2 = (H2) 2 + O2
(H2O) 2 + Na2 = (HNaO) 2 + H2

「このH2O(エイチ・ツー・オー)は水です。水はハイドロジェン(水素)とオキシジェン(酸素)から出来ています。Hはハイドロジェンのこと、Oはオキシジェンのことで、この試験管の上部に溜まっているガスは、ハイドロジェンです。水にソディウムを入れると、ソディウム・ハイドレイト(水酸化ナトリウム)とハイドロジェンが出来ます。」
 ここで、信次がつまづいた。目に見えない原子があることは何となく知っていた。それで、水には「水の原子」があると信次は勝手に思い込んでいた。しかしクラークの説明によれば「水の原子」は存在せず、水は水素と酸素の原子から出来ているらしい。水素と酸素は気体だ。液体の水が気体の水素と酸素から出来ているとは、いったいどういうことか?
 一方、順三は水が水素と酸素から出来ていることを知っていた。家の本屋には専門書も多くあり、順三は父の許可を得て自由に立ち読みをしていた。その中には化学の専門書もあり、読んだことがあったのだ。順三も、このことを初めて知った時には、腑に落ちなかった。それゆえ分からない様子でいる信次の気持ちがよく分かった。

「さて、水素は他の方法でも作ることができます。」
 そう言ってクラークは準備してあった別の実験器具を示した。


バーカーの化学の教科書の図2

「このビンに入っている金属は亜鉛です。そして、このビンに硫酸を流し込むと水素が発生します。」
 クラークは黒板に新たな化学式を書いた。

H2(SO4) + Zn = Zn(SO4) + H2

 そしてビンの中に硫酸を注いだ。すると、ガラス管から泡が出て、試験管の中に溜まって行った。
「最初に出て来る泡のほとんどはビンの中の空気ですが、しばらく経つと水素の割合が多くなって来ます。」
 次いでクラークは塩化カルシウムを入れたガラス管を保持器に水平に取り付けて、発生した水素が中を通るようにした。水素を乾燥させるためだ。乾燥しているので水素の出口の上にベル型のガラス瓶をかぶせても内側が曇ることはない。しかし、水素の出口に火を点けて水素を燃焼させるとベルの内側が曇るようになり、やがて水がしたたり落ちて来た。


バーカーの化学の教科書の図6

「この水は、水素が空気中の酸素と反応して作られたものです。」
 先ほど黒板に書いた化学式をクラークはもう一度、指で示した。

(H2O) 2 = (H2) 2 + O2

 信次はベル型のガラスから水がしたたり落ちる様子と化学反応の式を見比べて、モヤモヤが少しずつ晴れて来るような気がした。気体の水素と酸素から液体の水が出来るのは、どうやら本当のことのようだ。実に不思議なことだが、事実として受け入れるべきことのようだ。
 順三も本で得ただけの知識が実験によって実際に見ることができたことをうれしく思った。そして、クラークによる次の化学の授業を早く受けたいと待ちきれない思いであった。

 学生たちが実験室から出た後、クラークは通訳たちと実験器具の後片付けをした。黒板に書いた化学式を消しながら、クラークはこの化学式を「化学のことば」であると改めて思った。クラークは通訳の下条に言った。
「魁郎、HやOやS、NaやZnの原子はすべて神が造ったものだよ、そして化学式は『化学のことば』だと私は思っているんだ。水や硫酸、水酸化ナトリウムなどは神が造った原子から出来ているからね。そのことを『化学のことば』で表しているんだよ。」
「なるほど。化学式は創世記1章の『光、あれ』などの神のことばとよく似ているんですね。」
 クラークの考えを下条はよく理解してくれていた。
「その通り。聖書には『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』(マタイ4:4他)と書いてある。化学式や物理の数式なども皆、『神の口から出る一つ一つのことば』だと思うんだよ。」
「物理の数式もまた『物理のことば』であり、それはすなわち『神の口から出る一つ一つのことば』というわけですね。言われてみると、確かにそうですね。ニュートンの万有引力の法則の


という数式なども、見れば見るほど味わい深くて聖書の聖句を味わう時と同じような感動を覚えます。クラーク先生から化学や物理を教わることができる静岡学問所の学生たちは幸せですね。」[F:引力、G:万有引力定数、Mおよびm:物体の質量、r:物体間の距離]
 下条魁郎という良き通訳者が与えられたことを、クラークは改めて神に感謝した。


クラークと静岡学問所の学生たち(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

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連載4 クリスマス・イブ

2024-10-14 03:06:06 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(4)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

クリスマス・イブ
 次の日曜日の12月24日。順三は1週間前と同じように江川町の家を出て北街道を蓮永寺の方角に歩き始めた。家を出て最初に通るのが鷹匠町だ。この町には今は東京に行っている勝海舟の宿舎がある。順三は江戸城無血開城の立役者の勝海舟を尊敬していた。勝は蘭学を学んでいた若い頃にオランダ語の辞書を二つ書き写したことがある。勝の家は父が無役であった。写した辞書を勝は自分用に使っていた他、もう一冊を売って金を得た。家が困窮していたためだが、このことで勝海舟はオランダ語を早く習得することができた。順三はこれを見習って英語の辞書を書き写していた。順三の家は中村の『西国立志編』が良く売れていたこともあって困窮してはいなかったが、順三は英語を早く習得したいと願っていたし、尊敬する勝海舟が若い時にしていたことを自分もしてみたかった。いま勝は東京にいるので、順三は早くまた静岡に戻って来てほしいと願っていた。そうして、勝に挨拶して話ができる日が来ることを待ち望んでいた。
 北街道を歩きながら順三は、クラークが読んで来るようにと言った創世記1~3章とヨハネの福音書1章の内容を頭の中で復唱していた。この箇所については先週、信次とも学問所で話題にしていた。順三は信次に聞いた。
「バイブル・クラスの宿題の箇所、もう読んだ?」
「うん、読んだよ。分からないところだらけなんだけど、順三は分かった?」
「僕も分からなかったよ。でも、きっとクラーク先生が丁寧に説明して下さるんじゃないかな。」
「うん、そうだね。でも、せっかく丁寧に説明してくれても、それを理解できるかな。」
「僕も自信はないけど、でも楽しみだよ。バイブルが分かるようになると、世界が広がるような気がしているよ。」
「そういえば中村正直先生も、何かそんな風なことを言っていたような気がするな。」
「バイブル・クラスの朝、信次は中村先生と一緒に蓮永寺に来たね。」
「うん、家が近いからね。途中で一緒になったんだ。いろいろ話ができてうれしかったよ。中村先生の本は、今でもよく売れてるの?」
「売れてるみたいだよ。それに静岡だけじゃなく、東京や大阪でも売れているらしいよ。」
「すごいね。そんなにすごい先生が学問所で僕たちに教えてくれているんだね。その中村先生もバイブルを学ぼうとしているのだから、僕たちも頑張らなきゃね。」
「そうだよ、信次。分からなくても良いから、僕は創世記1~3章とヨハネの福音書1章をできるだけ読み込んでおくつもりだよ。」
 その言葉の通り、順三はクラークが出した宿題の箇所を何度も繰り返し読んだ。しかし、前提となる知識が不足していたので、いろいろと分からない点があった。きょうのバイブル・クラスで、それらが分かるようになるだろうか。順三は期待していた。

 蓮永寺での第2回目のバイブル・クラスが始まると、クラークはまず、きょうの12月24日がどのような日なのか、の説明から始めた。前回と同じように、下条魁郎が通訳を務めた。
「アメリカやヨーロッパの諸国では12月24日の晩から25日に掛けて、イエス・キリストの誕生を祝います。どの家も、クリスマス・ツリーを飾ります。」
 そう言って、クラークは居室内に飾ってある小さなツリーを人々に見せた。このツリーは先週のバイブル・クラスの時にはなかった。本当なら、ツリーはもっと早くから飾るべきだが、静岡に着いたばかりのクラークは忙しくて、その余裕がなく、きょうの2回目のバイブル・クラスの前に大急ぎで準備したツリーであった。そのため小さなツリーになってしまったのは仕方のないことであった。
「アメリカでは、もっと大きなツリーを飾っています。来年は、アメリカン・サイズの大きなツリーを皆さんに見せたいと思います。」
 そして、きょうの聖書箇所について話し始めた。
「皆さん、創世記1~3章とヨハネの福音書1章を読んで来ましたか?ヨハネの福音書1章にはイエス・キリストが、どのような方であるかが書かれています。まずヨハネ1章1~3節を読みます。」

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

「2節の『この方』とは、天から地上に遣わされた神の御子イエス・キリストのことです。キリストは元々は神と共に天にいて宇宙を造りました。旧約聖書の創世記1章には、これらがことばによって造られたことが書かれています。」

創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
6 神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
7 神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。
8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
9 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。
10 神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。

 ここでクラークは一息入れた。
「生命を造ったのもキリストです。まず植物を造りました。」
 朗読は、次第に熱量を帯びて行った。

11 神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。
12 地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。
13 夕があり、朝があった。第三日。
14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。
15 また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。
16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。
17 神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、
18 また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。
19 夕があり、朝があった。第四日。

 聞く側の中村や信次、順三たちの心身も熱を帯びて来た。
「動物たちも、ことばによって造られました。」
 コップの水を一口含んでから、クラークはさらに続けた。

20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
21 神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。
22 神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。
23 夕があり、朝があった。第五日。
24 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。
25 神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。

「そして最後に人が造られました。」
 クラークは上着を脱いだ。

26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。
30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。
31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

「神が造ったものすべては『非常に良かった』と31節には書いてあります。先週のバイブル・クラスでも説明しましたが、これらの良いものを神は『ことば』を発することで造りました。そしてヨハネの福音書1章1~3節は、キリストが『ことば』であると記しています。」
 ここでクラークは聖書を机に置いた。そして、ゆっくりと言った。
「つまり、『光、あれ』などの神のことばは全てキリストのことばである、ということです。」
 そして、神とイエス・キリストとの関係を改めて説明した。
「イエスは神のことを『父』と呼んでいます。それはイエスが神の『ひとり子』だからです。またイエスは、『わたしと父は一つです』(ヨハネ10:30)と言っています。つまり父のことばは、イエスのことばであり、『光、あれ』などの天地創造の時の神のことばもまた、イエス・キリストのことばです。ヨハネ1章3節の『すべてのものは、この方によって造られた』は、このことを明らかにしています。」
 クラークは無意識のうちにワイシャツの袖をまくり上げていた。そして、ヨハネ1章4~5節を朗読した。

ヨハネ1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

「わたしたちが住むこの世には闇があります。争い事、災害、疫病、飢饉など、苦しいことがたくさんあります。この脱け出せない苦しみの中にある時、心は闇に支配されます。そうして悪いことが増幅されて行きます。皆さんも多くの苦しみを経験して来たことでしょう。」
 クラークは参加者たちを見渡した。参加者には、かつては幕臣であった者が多くいた。幕府軍が新政府軍に敗れたことで彼らは非常に困難な状況に置かれた。これから先どうやって生きて行けばよいのか。徳川家に仕え続けるべきか、それとも東京に残って新政府に仕えるべきか、そのどちらでもない選択をするのか。彼らは徳川家に仕え続ける道を選んで静岡に移住した。しかし当初は住む家も無い状態で、寺や民家の片隅に住まわせてもらうなど大変な苦労をした。
 この幕末と維新後の静岡の混乱のことは、信次も順三も覚えている。新政府軍が駿府(静岡)を通った時はとても恐ろしかった。駿府は幕府の直轄地であったため、ここが戦場になるかもしれないという恐怖に震えた。また、旧幕臣の多くが移住して来た時は静岡全体が食糧不足になった。このような困難な状況では悪事を働く者もいた。治安が悪くなり、住民の不安が増していた。これらの不安の中、信次も順三も子供ながらに人の心の内には闇があることを感じていた。前週のバイブル・クラスの時はクラークの「皆さんの心は満たされていますか?」とう問い掛けにどう答えて良いか分からずにいた二人だが、自分の心の中にも闇があり、空洞があるかもしれないと思った。
「しかし皆さん、バイブルは創世記1章31節で、『神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった』と記しています。この世界は非常に良かったのです。それなのに、どうして悪いことが起きるようになってしまったのでしょうか?分かる人はいますか?」
 クラークは再び参加者を見渡した。英学の教員たちが遠慮し合ってなかなか答えなかったので、順三はありったけの勇気を振り絞ってクラークに言った。
「エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を、人が食べてしまったからですか?」
日本語で答えたので、下条がクラークに通訳した。その間、順三の心臓は激しく鼓動して、額から汗がしたたり落ちた。順三が答えたことに信次は驚いた。教員たちも驚いて皆が一斉に順三の方を見たので、恥ずかしくて全身が汗でびっしょりになった。
「その通りです!バイブルをしっかり読んで来ましたね。素晴らしいです。」
 クラークにほめられて順三の体はますます熱くなり、額から落ちた汗のしずくがしたたり落ちた。
「創世記2章には、次のように書いてあります。」

創世記2:8 神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
9 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

「しかし、この神の命令を人は守りませんでした。狡猾な蛇が彼の妻を誘惑して善悪の知識の木の実を食べさせ、次いで夫も食べてしまいました。創世記3章にそのことが記されています。」

創世記3:1 さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

「命令を守らなかったことを二人は神に咎められました。しかし、夫も妻も罪を認めずに言い逃れをしました。それゆえ神はこの二人、すなわちアダムとエバをエデンの園から追放しました。そうして、人の心は神から離れて行き、闇に支配されるようになりました。」

 クラークのことばに聞き入る参加者たちは、幕末と維新後の動乱のことを再び思い出していた。
「それゆえイエス・キリストが人々の心を闇から解放するために、天から遣わされました。ヨハネの福音書1章に戻ります。」

ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

「神から離れていた人々は、ひとり子の御子のことも知りませんでした。そんな人々を闇から救い出すために、御子は人として地上に遣わされました。」

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

「このイエス・キリストが生まれた日をクリスマスと言い、12月24日の晩から25日に掛けて世界中のクリスチャンがお祝いをします。日本でも横浜などでは祝われていて、きょうは静岡でもクリスマスを祝うことができますから、私はとてもうれしいです。」
 順三は創世記1~3章とヨハネの福音書1章が一つにつながったことでモヤモヤが晴れて、すっきりした気分になった。
 バイブル・クラスの最後にクラークは言った。
「きょうはクリスマスの料理を用意してありますから、昼ごはんを食べて行って下さい。」
クリスマスの食事は仙太郎が料理したものだ。仙太郎は蓮永寺に住み込んでいるクラーク専属の料理人で、「サム・パッチ」と呼ばれていた。元々は船乗りで、難破した時に米船に救助されてアメリカで10年間暮らした経歴を持っていた。

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連載3 国内最高の教育機関からの招き

2024-10-14 01:49:23 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(3)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

国内最高の教育機関からの招き
 最初のバイブル・クラスを終えたクラークは疲れを覚えながらも充実感に浸っていた。そして、不思議な導きで静岡に来ることになった経緯を居室で思い返していた。そこには通訳の下条魁郎もいた。2時間あまり、ずっと通訳をしていた下条はヘトヘトになっていた。クラークは下条に礼を言った。
「魁郎、ありがとう。疲れたでしょう。」
「いいえ、大丈夫です。こちらこそ良い勉強になりました。どうもありがとうございました。」
「神様が私に通訳の魁郎を与えて下さったことを感謝しているよ。魁郎がいなければ、きょうのバイブル・クラスはできなかったよ。」
「明日からは、化学の実験の準備が始まりますね。」
「いよいよだね。静岡の学問所に招かれたことにも本当に感謝しているよ。」
「クラーク先生を静岡学問所に招いたのは、勝安房先生でしたね。」
 勝安房とは、勝海舟のことだ。
「うん。勝安房が福井にいる私の友人のグリフィスに手紙を書いて、アメリカ人の理化学の教師を紹介して欲しいと頼んだんだ。そして、グリフィスが勝に紹介したのが私だったというわけさ。」
 クラークは静岡学問所からの招きがある前から渡日の準備をアメリカで進めていた。
「私はラトガース大学で日本人留学生たちと知り合いになっていたから、日本に来たいと前から思っていたんだよ。日本であれば、どの地方でも良いと最初は思っていたけれど、国内で最高の静岡学問所で教えることができることになって、本当に感謝しているよ。」
 静岡学問所が当時の日本で最高の教育機関であったことは事実である。徳川家と旧幕臣の静岡移住に伴い、幕末の江戸にあった教育機関がそのまま静岡に移って来た形になっていたからだ。新政府に倒された徳川家は学問によって家の再興を目指していたため、静岡学問所に多額の資金を投入することをためらわなかった。そのため、豪華な教授陣がそろっていた。中村正直もその一人であった。静岡学問所の理化学の授業を充実させるためには外国人教師の雇用が必要であると勝海舟に訴えたのは、中村正直であった。そうしてクラークの招へいが実現した。

 翌日からクラークは、1週間後の25日から始まる化学の授業の準備のために忙しく働いた。クラークは、まず通訳たちに授業内容を理解してもらうことにした。彼らが理解しなければ、学生たちへの適切な通訳ができないからだ。
 クラークはラトガース大学での学生時代に、多くの日本人学生と知り合いになっていた。勝海舟や岩倉具視らの息子たちも、その中にいた。彼ら日本人留学生との交流を通じて、日本人は原子や分子のことをほとんど何も知らないことを聞かされていた。原子と分子は化学の基礎だ。それゆえ化学の授業でクラークが最初にすべきことは、原子や分子について学生たちに分かってもらうことだった。小さくて目に見えない原子や分子を分かってもらうには、どうしたら良いか。クラークは原子や分子の理論の前に実験を学生たちの前で行って見せるのが良いであろう、と考えていた。
 クラークは早速、通訳たちへの説明を始めた。
「私たちの周りには空気があります。空気は目に見えませんが、私たちは空気に囲まれていて、空気の中で生きています。」
 クラークの説明を聞く通訳たちの中には、下条魁郎もいた。化学の話は昨日のバイブルの話とはだいぶ違うが、クラークと生活を共にする下条は上手く切り替えていた。
「私たちが息を吸うと、空気が体の中に入ります。そして息を吐くと、空気は体の外に出て行きます。水の中で息を吐くと、泡が出ますね。」
 そう言ってクラークは水を入れたガラスの水槽にガラス管を差し込み、管を口にくわえて息を送り込んだ。すると空気の泡がブクブクと音を立てて管から出て来て、水面に向かって上昇した。
「このようにガラス管で息を水に送ると、泡が出ます。これが空気です。」
 通訳たちは交代でクラークが言ったことを日本語にして、互いに確認し合った。空気のことは日常の感覚で分かったが、ここから先は少しずつ難しくなっていった。
「それでは次に、この水の中に、ソディウム(ナトリウム)の塊りをほんの少し入れてみましょう。」


バーカーの化学の教科書の図1

 そう言ってクラークはナトリウムの小片を金網の小さなカゴの中に入れて、図のように水槽の水の中に沈めた。すると水中のナトリウムから気泡が激しく出た。そうしてナトリウムの表面から出た気泡は水を満たしてあった試験管の上部にどんどん溜まって行った。この図はバーカーの化学の教科書『A-TEXT-BOOK OF ELEMENTARY CHEMISTRY Theoretical and Inorganic』の第二部の最初に載っている図である。バーカーの教科書は第一部が理論編、第二部が実験編の構成になっている。クラークはこのバーカーの教科書の内容に沿って化学の授業を進める予定でいたが、順番としては実験編を最初に教えることにしていた。実験で学生たちの視覚に訴えたほうが学生の興味を引きやすいと考えたからだ。
「先ほどは空気をガラス管で送り込んだので、水の中に気泡が出来ました。しかし、このナトリウムの実験では空気を送り込んでいません。では、この気泡はどこから生じたのでしょうか?」
 クラークは通訳たちに言った。
「この『気泡はどこから生じたのでしょうか?』の問い掛けの後、学生たちには少し考える時間を与えようと思います。そして、何人かに自分の考えを述べてもらおうと思います。きょうは皆さんに教えなければならないことがたくさんありますから、説明を続けます。」
 クラークは試験管の上部に溜まっている気体を指で示しながら言った。
「このガスは、水から生じたものです。」
 そう言ってクラークは、バーカーの教科書の第二部の実験編に書かれている化学式を黒板に書いた[注:現代の化学式の表記とは異なることに注意]。

(H2O) 2 = (H2) 2 + O2
(H2O) 2 + Na2 = (HNaO) 2 + H2

「このH2O(エイチ・ツー・オー)が水です。水はハイドロジェン(水素)とオキシジェン(酸素)から出来ています。Hはハイドロジェンのこと、Oはオキシジェンのことで、この試験管の上部に溜まっているガスは、ハイドロジェンです。水にソディウムを入れると、ソディウム・ハイドレイト(水酸化ナトリウム)とハイドロジェンが出来ます。」
 通訳たちの中には、水が水素と酸素から出来ていることをすでに知っている者もいた。しかし、液体の水が気体の水素と酸素から出来ているという説明を良く理解できずに怪訝な顔をしている者もいた。
「このことを初めて聞いた人は、すぐには理解できないかもしれませんね。ですから、きょう理解できなくても構いません。しかし、来週までには分かっているようになっていてもらえると、ありがたいです。皆さんに理解してもらわないと学生たちに伝わらないからです。」
 クラークは自分自身の経験、すなわち水が水素と酸素からできていることを初めて教わった時のことを思い出していた。クラークもまた、すぐには理解できないでいた。今では当たり前のように思っていることだが、改めて考えると、水が水素と酸素からできているとはつくづく不思議なことだ。万物の創造主である神様は本当に不思議なことをする、とクラークは思った。

 クラークはキリスト教の教会の牧師の家庭で生まれ育った。幼い頃から聖書を学んでいた彼は他の大半のアメリカ人と同様に、旧約聖書の創世記1章の記述を信じていた。

創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

 このようにして神はことばによって最初に光を造った。次いで神は大空を造り、地と海を造って植物を地の上に生じさせた。そして太陽と月と星を造り、魚や鳥や動物たちを造り、最後に人間を造ったと創世記1章は記している。聖書には原子や分子に関する記述はないが、神が原子や分子を造ったとクラークは信じている。鉱物や植物や動物、さらには人間もまた、神が造った原子や分子からできているから矛盾は全くない。
 クラークにとって科学を学ぶことは、神の創造の手の業を学ぶことだった。科学の世界は深く知れば知るほど不思議なことが増えて行く。たとえば月と地球は遠く離れているのに、どうやって互いに引力を及ぼし合っているのだろうか?万有引力のことを学ぶ前のクラークは、月はただ単に空に浮かんでいるだけだと思っていた。ところが月と地球は互いに引力を及ぼし合っているそうだ。そして、もし月が地球の周りをグルグル回っていなければリンゴのように地球に落ちて来るのだそうだ。遠く離れている月と地球は、どのようにして引力を及ぼし合っているのだろうか?月にもリンゴにも同じ万有引力が働いているのは何故だろうか?神が創造したこの世界は何と不思議に満ち、何と深遠なことだろうか。クラークは神の創造の手の業をもっと深く学びたいと思い、大学で理化学を学んだ。
 クラークが大学で学んでいた1860年代、化学は大きな前進を続けていた。クラークが静岡学問所で使用した化学の教科書の著者のバーカーは1870年の出版にあたって序文に次のように書いている。

 過去10年間に、化学は著しい変革を遂げた。単に新しい化合物や反応式を発見しただけではなく、これらに法則性があることを発見したのだ。この発見によって化学という自然科学の様相は一変した。この法則性の発見の重要性はいくら評価しても評価し過ぎることはない。あらゆる元素が形成するすべての化合物を確実に予測することができるようになったのだ。今や化学は様々な事実の寄せ集めではなく、堅固な哲学に基づいた真の科学になったのだ。[拙訳]

 クラークにとっては物理学の万有引力の法則も神の偉大な創造の業であり、その法則の美しさゆえにクラークは神を賛美した。そしてバーカーが記したように化学にも法則性があることが明らかになり、このことのゆえにクラークは神をさらに賛美した。クラークにとっては理化学も聖書も、どちらも神の働きを深く知るために探究しているものであった。

 バーカーの教科書の第二部の実験編の最初の説明は水素についてだ。水素の作り方としてバーカーは水にナトリウムを入れる方法の他にも、水に鉄を入れる方法、硫酸に亜鉛を入れる方法、水酸化カリウムにマグネシウムを入れる方法を紹介している。たとえば硫酸に亜鉛を入れる方法でバーカーは

H2(SO4) + Zn = Zn(SO4) + H2

の化学式で示している。このように化学式で表記できるのは化学に法則性があるからだ。クラークは、この化学の法則を早く学生たちと分かち合いたいと願っていた。


実験室内のクラーク(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

 クラークがアメリカから静岡に発送した化学薬品等はまだ一部が届いただけであった。しかし、これから順次送られて来て整って行く筈であった。併せて、アメリカでの発注を資金の関係で見送った実験資材に関しても購入できるよう、クラークは静岡学問所と交渉した。写真は、これらの薬品や実験器具が概ね整った段階に撮られたものだ。このように実験室を様々な薬品類や器具で充実させることができたのは、静岡学問所がクラークの要請の大半に応じたからである。学問所が寄せたクラークへの期待がいかに大きかったかが良く分かる写真である。
右下には蒸気機関車の模型がある。蒸気船は既に航行していたものの、日本で蒸気機関車による鉄道が新橋~横浜間に開業したのはクラークが来日した翌年の明治5年(1872)だ。また、蒸気機関で稼働する富岡製糸場が開業したのも同じ明治5年(1872)だ。蒸気機関の導入により日本は急速に近代化して行く。

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連載2 最初のバイブルクラス

2024-10-12 04:44:14 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(2)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

第一章 クラークの理化学の授業とバイブル・クラス
最初のバイブル・クラス

 明治4年(1871)12月17日の朝は寺の鐘の音で始まった。信次と中村正直は臨済寺の鐘の音を、順三は宝台院の鐘の音を、そしてクラークは蓮永寺の鐘の音をそれぞれの地で聞いていた。
 臨済寺は徳川家康が竹千代時代の幼少期に勉学をしていた寺として知られている。今川義元の人質だった家康は、義元が桶狭間の戦いで亡くなるまでの十数年間を駿府(静岡)で過ごした。そして江戸幕府の将軍職を二代秀忠に引き継いだ後に再び駿府に戻り、この地で没した。静岡学問所は家康が晩年を過ごした駿府城内にある。
 順三の家に近い宝台院は、最後の将軍の十五代徳川慶喜が新政府軍に敗れて静岡に移った時に謹慎生活を一年余り送った寺だ。クラークが来静した頃には既に謹慎が解かれていて、慶喜は紺屋町の元代官屋敷で生活していた。
 クラークの宿舎の蓮永寺は駿府城の北東にあり、鬼門を守る。寺には家康の側室のお万の方(水戸光圀の祖母)の供養塔の他、維新後に徳川慶喜と共に静岡に移住した旧幕臣の墓が多くあり、勝海舟の母・信(のぶ)の墓もここにある。

 その朝、信次はひどく緊張していて、朝食がほとんど喉を通らなかった。新しい先生はどんな人なのか。バイブルを学んで本当に大丈夫なのか。家にいても落ち着かないので、蓮永寺へ早めに向かうことにした。臨済寺に近い信次の家から蓮永寺までは東に半里ほどだ。家を出ると、近くを中村正直が歩いていた。信次が黙礼すると中村が話し掛けて来た。信次が英学の講義に出席していることを中村は知っていた。信次が出席していた講義では、『西国立志編』の原書の『Self-Help(自助論)』を英語で学んでいた。
「君も蓮永寺に行くのかね?」
 中村は白い息を吐きながら聞いた。
「はい。アメリカ人の先生に早く会いたいのです。きょうの会に参加してもよろしいでしょうか?」
 信次も白い息を吐きながら中村に聞いた。
「もちろん構わないよ。君もバイブルを学ぶと良いよ。と言っても、私もバイブルのことをまだ深くは知らないのだがね。」
「そうなのですか?」
「そうだ。知らないからこそ、私も学びたいのだよ。」
「中村先生は横浜でアメリカ人の先生に会って来たそうですね。」
「うん。若いけれど気骨のある先生だよ。その気骨の源がバイブルにあるようだと知って、私もバイブルを学んでみたくなったのだよ。」
 クラークの「気骨」とは、来日したクラークが静岡学問所の教師に着任する際に必要な契約書への署名を拒否したことを指す。契約書に契約期間の三年間はキリスト教の宣教を禁止し、宗教上の問題について沈黙を守ることを命じる箇条が挿入されていたからだ。クラークは、この不都合な箇条が撤回されなければ承認できないとして署名しなかったのだ。当時のクラークは渡航費や学問所で行う予定の化学実験に必要な薬品や器具類の購入費、そして貨物運搬費で多額の支出をしていた。契約すれば多額の給料が保証されたが、不調に終わった場合にはたちまち困窮することになる。友人たちは署名すべきと説得し、クラークも迷ったが、「キリスト教徒が、三年間も異教徒の中に生活して、自分の心に最も密接な問題に完全な沈黙を守ることは不可能だ」として、信念を曲げなかった。そして驚くべきことに、この箇条は数日後に撤回された。
 このクラークの気骨の太さに中村正直は驚嘆した。そしてクラークの気骨の源をもっと深く知りたいと思った。当時の中村は、岩倉遣欧米使節団への参加を打診されていた。しかし、それを辞退して静岡でクラークからバイブルを学ぶ道を選んだ。中村は幕末の慶応2年(1866)から慶応4年(1868)までの約1年半、イギリスに留学していため、海外経験が既にあった。イギリス滞在中の中村はバイブルを知ることがなかった。それゆえ、岩倉使節団に参加して欧米の進んだ文明をさらに多く知ることができたとしても、その根底にある深いことを知ることは難しいであろうと考えていた。中村は静岡でスマイルズの『西国立志編』を翻訳する過程で、欧米の偉人たちの心の奥深くにはバイブルがあり、それが彼らを内側から支えていると想像していた。そして横浜でクラークに会ったことで、その想像が確信になった。それで中村はクラークにバイブルの話をして欲しいと頼み、さらに勝海舟や大久保一翁ら静岡学問所の関係者への了承を得て、静岡でのバイブル・クラスが実現した。そうして中村は蓮永寺での毎日曜日のバイブル・クラスに欠かさず出席するようになる。12月17日は、その初日であった。


蓮永寺(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

 バイブル・クラスはクラークの居室で行われた。参加者は中村たち英学の教員と、信次や順三たち数名の学生であった。冒頭でクラークは挨拶した。
「オハヨゴゼマス。ワタシハ、クラクデス。アメリカカラ、キマシタ。」
 この片言の日本語の挨拶で場は一気に和んだ。そしてクラークが笑顔で快活に話す様子に出席者たちは見入った。日本人の多くは笑顔を見せることは少なく、特に学問の場での笑顔は皆無であった。バイブル・クラスという学びの場での笑顔に信次と順三は魅せられて、すぐに話に引き込まれた。クラークの話には通訳が付いていた。
 クラークはまず、バイブルが旧約聖書と新約聖書から成ることを説明した。そして次に旧約聖書に記されていることの概略を説明した。
「旧約聖書には、神がすべてを創造したことが、まず書かれています。太陽も、月も、この地球も、地球上の植物も、動物も、そして私たち人間も、すべて神によって造られました。」
 そしてクラークは、神と人間との関係が最初はとても良好であったことを話した。それが、ある時から人間の心は神から離れて行った。そのことを神は怒りながらも忍耐強く人間に接して見捨てなかった。神はご自身が造った人間を深く愛しており、人間が神と共に歩むことができるよう、手を尽くした。しかし、旧約の時代に神と人間の関係が回復することはなかった。これらを一通り話した後で、クラークは一息入れた。
「ここまでで、何か質問はありますか?」
 すると、英学教員の一人が質問した。
「神はどうやって、天や地を造りましたか?」
 クラークは答えた。
「良い質問ですね。神はことばを発することで、天や地やいろいろなものを造りました。」
 そう言ってクラークは旧約聖書の創世記1章3節を開いて読んだ。

創世記1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。(新改訳2017、以下同じ)

 次に6節と9節も読んだ。

6 神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
9 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。

「このように、神はことばによって、天や地を造って行きました。きょうクラスが終わったら、皆さんにバイブルを配りますから、来週の日曜日までに創世記1~3章を読んで来てほしいと思います。」

 次いで、新約聖書の説明に移った。
「旧約の時代、人間の心は神から離れたままでした。時には神と共に歩んだ時代もありましたが、すぐにまた離れてしまうことの繰り返しでした。そこで神は、ひとり子を天から地上に遣わすことにしました。この方こそ、神の御子イエス・キリストです。」
 こう言ってから、新約聖書のヨハネの福音書3章16節を朗読した。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 そしてクラークは、この日のクラスの最後に新約聖書のルカの福音書4章を開いて16~21節を朗読した。

ルカ4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 朗読を終えるとクラークはガラス瓶に入れた水をコップに注いで口に含み、一息入れた。そして、ゆったりと語り始めた。旧約聖書と新約聖書の説明の時は早口であったが、ここからは間を置きながら、ゆっくりと話した。
「これは、天から地上に遣わされたイエスが、人々への宣教を開始した時の記事です。」
 最初のクラスを締め括る聖書の箇所をどこにすべきか、バイブル・クラスを始めることが決まってから、クラークはずっと考えていた。旧約聖書にするか、新約聖書にするか。分厚い聖書のどの箇所が静岡での最初のバイブル・クラスを締めくくるのにふさわしいだろうか。神に祈りつつ様々に思いを巡らして辿り着いたのが、このルカの福音書4章であった。
「会堂に入ったイエスは旧約聖書のイザヤ書の巻物を渡されました。イエスは巻物を開き、イザヤ書61章を選んで読み始めました。」
 そして18節の前半をもう一度読んだ。

18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」

 クラークは宣教を開始したイエスに自分自身を重ねていた。まだキリスト教が禁じられていた明治の日本で、聖書の教えが語られていたのは横浜などの開港地だけであった。聖書の存在すら知らない静岡の人々に神のことばを語る機会を得たことに、クラークは深い感動を覚えていた。そして、イエスと同じように神の霊が自分にも注がれていることを感じていた。体の芯から力がみなぎり、神からの励ましを受けていることをクラークは感じながら話した。
「『貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。』この『貧しい人』とは、<お金がない貧乏な人>と考えても良いかもしれません。でも、むしろ<心が満たされていない人>と考えるべきだと私は思います。旧約の時代の人々は神から心が離れていたために神の愛を知ることがなく、心が満たされていませんでした。皆さんの心は満たされていますか?」
 自分の心が満たされているのか、いないのか、40歳になる中村正直には、このクラークの問い掛けが心に深く突き刺さった。以前から自分には心の芯棒がないような気がしていた。いつも漠然とした不安が心の奥底にあった。幕臣であった頃は主君への忠誠心が自分の内側を支える堅固な芯棒となっていた。しかし、明治の世になって主君への忠誠心は堅固なものではなくなっていた。それゆえ、横浜でクラークが見せた気骨の太さに驚嘆したのだ。自分の内にはクラークのような確固たる芯棒がない。だから心が満たされないのかもしれない。このバイブル・クラスに出席を続けることで自分の中にも確固たるものが形成されるだろうか。中村はクラークの話を聞きながら、これからの毎週のバイブル・クラスに期待していた。
 一方、若い信次と順三にとっては、自分の心が満たされているかどうかは考えたこともない問題だった。夢中になって勉学に励み、その種のことには疎かった。しかし、言われてみると確かに自分は満たされていないのかもしれない。このような心の奥底の問題とは関係がない所でこれまで生きて来たことに気付かされた。そして、まだ若い青年教師のクラークがこのような深い問題を語っていることに驚いた。自分たちは理化学についてはもちろん、心の深い領域の問題についても何も知らないことを思い知らされていた。それゆえ来週もまたバイブル・クラスに参加しようと二人とも思っていた。
 バイブル・クラスの最後に、クラークは集った者たちに聖書を配り、24日までに旧約聖書の創世記1~3章と新約聖書のヨハネの福音書1章を読んでおくように伝えた。この聖書は横浜滞在中に調達したものだった。中村から要請があって静岡でのバイブル・クラスが実現しそうであったことから、横浜にいる宣教師から急きょ分けてもらったものだ。
 信次も順三も聖書を手にするのは、もちろん初めてのことであった。ずっしりと重い聖書を手にして蓮永寺の門を出た二人は、北街道(きたかいどう)を南西方向に、しばらく一緒に歩いた。北街道は東海道の北側ある街道だ。北街道と東海道は並行しており、家康が江戸に幕府を開く前の東海道は今の北街道を通っていたと言われている。
 二人はバイブル・クラスの感想をしばらく語り合った。信次は言った。
「クラーク先生って、元気な人だね。」
「うん。話を聞いていて、体の内が何だか熱くなったよ。」
「でも、イエスという人のことは、よく分からなかったよ。」
「イエスについては、来週もう少し詳しく話すと言っていたね。」
「あっ、そうだったかな。さすが順三、クラーク先生の話したことが、ぜんぶ分かっているんだね。」
 順三は首を振った。
「そんなことないよ、信次。下条さんの通訳があったから分かったんだよ。」
「確かに、下条さんの通訳がなければ分からなかったね。中村先生が話す英語とクラーク先生が話す英語は、速さがぜんぜん違うもんね。」
「うん。僕もクラーク先生の英語が早口なのには、びっくりしたよ。あんなに早口でも、下条さんは全部わかるんだね。すごいなあ、僕たちも、下条さんみたいに英語がもっと上手になれるだろうか?」
「順三なら大丈夫だよ。」
「信次も大丈夫だよ。二人で一緒に頑張ろうよ。」
 そう話している間に、二人は来迎院の辺りまで来た。北街道沿いにある来迎院もまた徳川家にゆかりが深く、家康によって開かれた寺であるとされている。来迎院から先は、二人は別の道を行く。二人は「明日また学問所で会おう」と言って、別れた。
 この最初のバイブル・クラスは、教える側のクラークにも、学ぶ側の中村や信次たちにも、双方にとって全く新しい経験だった。維新後の静岡は多くの旧幕臣が移り住んだことで、そしてクラークが招かれたことで、新しいことが次々と起きていた。

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連載1『西国立志編』の炎に迎えられたクラーク

2024-10-09 03:41:49 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘(1)
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

序章 『西国立志編』の炎に迎えられたクラーク
 その日、寺の一室は熱気に満ちていた。広い境内は師走の寒気に包まれて静まっていたが、その一室だけは講師の声が響き渡り、集った者たちが熱弁に聞き入っていた。信次(のぶじ)と順三(じゅんぞう)もその中にいて、体の芯が熱くなるのを感じていた。講師はアメリカ人のエドワード・ウォレン・クラーク、勝海舟の招きによって静岡に着いたばかりの22歳の青年教師だ。クラークは静岡学問所で化学や物理、数学などを教えることになっていた。

 寺に行くべきか、信次は前日まで迷っていた。信次は順三に打ち明けた。
「明日、蓮永寺(れんえいじ)でアメリカ人の新しい先生の話を聞く会のことだけど、実はまだどうしようか、迷ってるんだよ。化学や物理の話じゃなくて、バイブルの話だよね。僕はあまり行く気がしないんだけど。」
 蓮永寺の会へ信次を誘ったのは順三だった。10代後半の二人は静岡学問所の学友だ。
「僕は聞きに行くよ。アメリカからはるばる来た先生に早く会いたいからね。」
「そりゃあ、僕だって早く会いたいよ。でも、禁止されているキリスト教の話だろ?順三は心配じゃないの?罰せられたりしないだろうか?」
 学問所で知り合った二人は今では互いに何でも話せる仲になっていた。当時は江戸時代からのキリスト教禁止令が継続していた。それで信次は警戒していたのだ。
「うん、ちょっと心配だよね。でもたぶん大丈夫だよ。明日のバイブル・クラスは、英学の先生たちがクラーク先生に頼んで実現したものらしいからね。それに、英語の良い勉強にもなりそうだから参加しないのは、もったいないよ。」
「へえ、そうなんだ。学問所の先生たちが頼んだんだ。じゃあ、僕も参加しようかな。順三の言う通り、英語の勉強にもなりそうだしね。」
「そうしようよ。信次が一緒なら、僕も心強いよ。」
「分かった。じゃあ、僕も参加するよ。」
 二人は学問所の英学の教員に参加希望を伝えた。このバイブル・クラスは英学の教員を対象にしたものであったが、学生も若干名受け入れるとのことであった。しかし、学生の大半は禁教令が出ているキリスト教の話であることを恐れていたので、参加を希望した者はわずかであった。
「英学の先生と言えば、中村正直先生がこの間までアメリカ人の先生を迎えに、横浜まで行ってたんだよね。順三は何か聞いている?」
 中村正直の役職は漢学の教授であったが、イギリス留学の経験がある中村は英学も教えていた。
「うん。中村先生は横浜でクラーク先生としばらく一緒にいたそうだよ。そうして、いろいろ話をしている間に、明日の蓮永寺のバイブル・クラスを頼むことにしたらしいよ。」
 時は明治4年(1871)の12月であった。9月30日にサンフランシスコを出航したクラークは蒸気船グレート・リパブリック号で太平洋を渡って10月25日に横浜港に着き、しばらく横浜の山手にあるアメリカン・ミッション・ホームに滞在していた。迎えに行った中村がクラークと会ったのは、この時が初めてであった。この間、クラークは東京の勝海舟も訪ねている。当時、勝海舟は静岡と東京を行ったり来たりする生活をしており、クラークが横浜港に着いた時には東京にいた。そしてクラークは中村と共に12月1日に横浜を出発して東海道を西に向かい、静岡には6日に到着していた。宿舎は沓谷(くつのや)の蓮永寺にあり、そこでバイブル・クラスが12月17日に開かれることになった。蓮永寺は駿府城内の静岡学問所から北東へ半里ほどにあり、徳川家とも関係が深い寺だ。
 信次も順三も武家の息子ではなかったが、静岡学問所への入学が許されていた。静岡学問所は勉学の意欲がある男子については身分の貴賤に関わらず町民にも農民にも広く門戸を開くことを公示していた。そうして、二人は中村正直から英学を学んでいた。クラークはこの静岡学問所で、西洋の最新の理化学を教えることになっていた。信次も順三も西洋の新しい学問に飢えていたので、クラークが来静する話を聞いて直ちに受講を願い出た。静岡学問所は二人のような向学心に燃えた若者たちで溢れていた。
「順三は中村先生のことには、やっぱり詳しいね。」
 信次は感心しながら言った。順三の父は市蔵といい、江川町で本屋を営んでいた。本屋市蔵は学問所で使用する教科書も多く扱っていたため、教授たちの出入りが多かった。中村正直が翻訳したサミュエル・スマイルズの『西国立志編』も販売していて、中村もまた本屋市蔵に出入りしていた。順三が中村の近況を知っていたのは、そのためだ。『西国立志編』は大ベストセラーとなり、且つ大正時代まで売れ続ける超ロングセラーとなったことでも知られていて、当時としては破格の総計百万部が売れたとされる。もともと熱く燃えていた静岡学問所の学生たちの向学心の炎は『西国立志編』の燃料投下によって、さらに激しく燃え上がっていた。この書で著者のスマイルズは欧米の学者・技術者・芸術家・政治家などの事例をふんだんに挙げて、彼らの優れた業績が皆、不断の努力によって成し遂げられたことを示している。そうして物事に一心不乱に取り組む勤勉さが何よりも大切であることをスマイルズは説いた。信次も順三も『西国立志編』を夢中になって読み、強く刺激されていた。それゆえ勉学に一心不乱に励むことを少しも厭わなかった。
 信次と順三は学問所の門を出ると、「明日また蓮永寺で会おう」と言い合って、それぞれの家路についた。順三の家は宝台院方面の江川町に、信次の家は臨済寺方面の大岩にある。冬至を間近に控えて日が暮れかかっていた。上空では山に帰るカラスが鳴いていた。信次が向かう大岩は既に日が賎機山(しずはたやま)の向こう側に沈んで薄暗くなっていた。温暖といわれる静岡だが、日が陰ると急速に寒くなる。信次は歩を早めて家路を急いだ。
 信次が帰宅すると、父の大吉が道具の手入れをしていた。大吉は腕の良い大工で、かつては寺院や神社の仕事を主に請け負っていた。静岡には徳川家とのゆかりが深い寺社が多くあり、大吉は名のある寺社の住職や神職たちと親しかった。それが維新後に徳川の旧幕臣の多くが静岡に移り住んだことで、住居の仕事が多くなった。中村正直の大岩の家を建てたのも大吉であった。大吉はまた、静岡学問所の校舎や実験室、学生の寄宿舎の新築にも棟梁として携わった。そして静岡学問所が大工の息子にも門戸を開いていることを知り、信次に入学を勧めた。大吉は息子には新しいことに挑戦してほしいと思っていた。そして大吉自身もまた、後にクラークが住むことになる石造りの洋館の建築という、まったく新しい挑戦をすることになる。
 静岡学問所は明治元年(1868)の開校当初から学問への志がある者には「身分之貴賤ニ限らす(身分の貴賤にかかわらず)」入学を許すとして士族以外の庶民にも広く門戸を開いていた。しかし、信次や順三のような平民の生徒はわずかであった。徳川家が移住したばかりの頃の静岡の平民は学問への情熱が未だ十分ではなかったからであろうか。信次と順三の場合は、学問を好む住職や神職や教授たちと親交があった父親を持ったことが幸いして静岡学問所で学ぶ機会に恵まれた。

 信次は父に言った。
「明日、蓮永寺で新しいアメリカ人の先生の話があるらしいから、順三と行って来るよ。」
「俺たちが建てた学問所の建物に、火薬の材料みたいなのがいろいろと運び込まれていると聞いたけど、そのアメリカの先生は学問所で何をするつもりなんだ?」
「僕もまだ分からないよ。でも、とにかく楽しみだよ。」
「存分に学ぶといいよ。近所の中村正直先生の本も、大変な評判らしいね。」
「うん。学問所の学生はみんな読んでいるよ。」
 信次はまだ知らなかったが、中村正直が翻訳して明治4年(1871)に出版したスマイルズ著『西国立志編』は静岡の若者たちだけではなく、日本全国の若者たちの心を燃え上がらせていた。静岡発のこの書が、全国の若者の大志を奮い立たせていたのだ。札幌農学校のW・S・クラークが明治9年(1876)に来日する5年前のことである。札幌農学校の学生たちの多くも、入学以前から『西国立志編』によって鼓舞されていたことだろう。二人のクラークが来日した時には、日本の若者たちの心はすでに中村正直訳の『西国立志編』によって燃え上がっていた。つまり静岡のクラークも札幌のクラークも二人とも、『西国立志編』の炎に迎え入れられたのだ。そして、札幌のクラークが離札時に「青年よ、大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス)」と言い残したとされるのは、明治10年(1877)だ。札幌のクラークのこの有名なことばが日本人に広く浸透したのも、『西国立志編』の土壌があったからこそ、のことであろう。


静岡学問所の校舎(クラーク撮影)早稲田大学図書館所蔵

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『大志を静かに抱く丘』目次・参考文献

2024-10-04 23:26:37 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
大志を静かに抱く丘
~クラーク先生と静岡学問所の学生たち~


序章 『西国立志編』の炎に迎えられたクラーク
  
第一章 クラークの理化学の授業とバイブル・クラス
 最初のバイブル・クラス
 国内最高の教育機関からの招き
 クリスマス・イブ
 化学のことば

第二章 育まれた大志
 勝海舟による全面支援
 相良油田の発見
 石造りの洋館の建築
 クラーク邸での催し

第三章 静岡学問所の受難と廃校
 東京一極集中の政策と中村正直の転任
 文部省への異議申し立て
 クラークの涙
 大志の丘

終章 150年後の大志の丘

続編『福音の新発見』

※本稿は明治初期の静岡学問所に関する史実を基にしたフィクションです。登場人物の多くは実在した人物ですが、信次と順三、大吉は架空の人物です。また、クラークが化学の授業とバイブル・クラスで参照した本は分かっているものの、講義の細かい内容は不明であるため、筆者の想像を多く含みます。
 なお、年月日はすべて新暦を使用しています。日本の旧暦から新暦への移行はクラークが静岡滞在中の明治5年(1872)に行われましたが、クラークは来日当初の明治4年(1871)から新暦を使用していたからです。

【参考文献】
・E・W・クラーク顕彰事業実行委員会編『エドワード・ウォレン・クラークと明治の静岡/日本/アメリカ』(E.W.クラーク来静150周年記念シンポジウム・パンフレット)、2021年。
・George Frederick Barker: A TEXT-BOOK OF ELEMENTARY CHEMISTRY THEORETICAL AND INORGANIC, John P. Morton & Company, Louisville, KY, 1870.
・エドワード・ウォレン・クラーク『日本滞在記』(飯田宏 訳)、講談社、1967年。
・エドワード・ウォレン・クラーク『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』(E・W・クラーク顕彰事業実行委員会 訳)、静岡新聞社、2023年。
・サミュエル・スマイルズ『自助論(改訂新版』(竹内均 訳)、三笠書房 知的生きかた文庫、2002年。
・ジョン・エム・マキ『 W・S・クラーク その栄光と挫折(新装版)』(高久真一 訳)、北海道大学出版会、2006年。
・ジョン・スチュアート・ミル『自由論』(斉藤悦則 訳)、光文社 古典新訳文庫、2012年。
・ポール・マーシャル『わが故郷、天にあらず この世で創造的に生きる』(レラ・ギルバート 協力、島先克臣 訳)、いのちのことば社、2004年。
・石田徳行「『西国立志編』と静岡~出版事情をめぐる一試論~」(上利博規・小二田誠二 編集『駿府・静岡の芸能文化』第4巻、所収)2006年。
・蝦名賢造『札幌農学校 日本近代精神の源流』新評論、1991年。
・大島正健『クラーク先生と その弟子たち(補訂増補版)』(大島正満・大島智夫 補訂)、教文館、1993年。
・影山昇『徳川(静岡)藩における近代学校の史的考察――静岡学問所と沼津兵学校および同附属小学校を中心として――』(非売品)、1965年。
・蔵原三雪「E.W.クラークの静岡学問所付設伝習所における理化学の授業――W.E.グリフィスあて書簡から――」(『武蔵丘短期大学紀要第5巻、所収』1997年。
・小島聡『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』ヨベル新書、2017年。
・今野喜和人「E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その4)」(『翻訳の文化/文化の翻訳』第18号、静岡大学人文学部翻訳文化研究会、所収)、2023年。
・佐野真由子「日本の近代化と静岡――幕臣たちとキリスト教と」(上村敏文,・笠谷和比古 編『日本の近代化とプロテスタンティズム』教文館、所収)、2013年。
・静岡平和資料館をつくる会『静岡・清水空襲の記録――2350余人へのレクイエム――』、2005年。
・刀根直樹『仲立ちとしての「お雇い外国人」――エドワード・ウォレン・クラークと明治日本――』(東京大学大学院総合文化研究科超越文化科科学専攻(比較文学比較文化)平成25年度修士論文)、2014年。
・刀根直樹・今野喜和人「E.W.クラークのNew-York Evangelist投稿記事(その1~3)」(『翻訳の文化/文化の翻訳』第5~7号、静岡大学人文学部翻訳文化研究会、所収)、2010~2012年。
・半藤一利『それからの海舟』ちくま文庫、2008年。
・樋口雄彦『静岡学問所』静新新書、2010年。
・藤本満『ウェスレーの神学』福音文書刊行会、1990年。
・松浦玲『勝海舟』筑摩書房、2010年。
・三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書、2024年。
・山下太郎『静岡の歴史と神話――静岡学問所のはなしを中心に』吉見書店、1983年。
・渡辺保忠「静岡におけるE・W・CLARKの住宅とその影響について」(『日本建築学会論文報告集』第63号、所収)、1959年。

【引用・参照サイト】
・静岡風景写真(クラーク撮影):早稲田大学図書館所蔵
  https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_04240/ru04_04240.pdf
・相良油田について:牧之原市ホームページ
  https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/site/kanko/805.html
・和小屋(和風小屋組)について:不動産・住宅サイト SUUMO
  https://suumo.jp/article/oyakudachi/oyaku/chumon/c_knowhow/koyagumi 
・『自由之理』のクラーク手書きの序文:国書データベース
  https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300025534/15?ln=ja 
・静岡空襲について:静岡平和資料センター
  https://shizuoka-heiwa.jp/?page_id=9 
・「静岡の由来」碑について:静岡市観光交流文化局文化財課
  https://www.city.shizuoka.lg.jp/s3478/s005156.html
・「地球の出(Earthrise)」の写真:NASAホームページ
  https://science.nasa.gov/resource/image-earthrise/ 
・その他、多くの項目でWikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/)を参照した。
・また、Barkerの化学の教科書の序文と中村正直 訳『自由之理』の序文を和訳する際にはDeepL(https://www.deepl.com/ja/translator)の和訳を参考にした。
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