大志の丘
バイブル・クラスはクラークが東京出張などで静岡を離れた時以外は毎週のように開かれていた。蓮永寺とクラーク邸で開かれたバイブル・クラスは2年間で100回に及んだ。最後のバイブル・クラスの後、クラークは準備しておいたカメラで記念の集合写真を撮った。
記念撮影の後、クラークは信次と順三に声を掛けた。
「賎機山に三人で登る話が、そのままになってしまっていたね。これから一緒にどう?」
信次は自分の提案をクラークが覚えていてくれたことをうれしく思った。
「本当ですか?ぜひお願いします。いいよね?順三。」
「もちろん!先生、ありがとうございます。」
賎機山への登り口は浅間(せんげん)神社の奥にある。静岡浅間神社もまた徳川家康との縁が深い。今川義元の人質として駿府にいた竹千代の元服式はこの神社で天文24年(1555)に行われた。14歳の時で、松平元信の名が義元から与えられた。その後、元信の名は元康に改められ、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が死んだのを機に元康は駿府を離れた。隠退後に駿府に戻った家康は浅間神社を手厚く保護した。
クラーク邸から浅間神社までは徒歩で15分ほどの距離だ。賎機山に登る前、三人は神社の前の茶店に入って安倍川餅を食べた。安倍川餅はクラークの好物だ。
「アメリカにはこういう食べ物がないから初めて食べた時は不思議な感じだったよ。でも今ではとても気に入っているよ。東京にも、こういう店があると良いのだけど。」
きな粉をまぶした餅と餡を絡めた餅の二種類の安倍川餅を載せた皿をクラークは手に取って言った。まもなくクラークは静岡を離れる。その前にクラークと共に過ごす時間が与えられたことを信次と順三は心から感謝に思った。
賎機山は標高170メートルほどの低山だ。ゆっくり登っても山頂まで30分掛からない。登る途中、信次は静岡の「シズ」は賎機山から取られたものであることをクラークに説明した。
ちなみに、21世紀の現代の静岡市文化財課による「静岡」の名前の由来の公式見解は次の通りだ。
『静岡の由来
明治二年(1869)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山(むこうやま)黄村(こうそん)先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った
ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす
昭和五十四年四月一日 静岡市』
という碑が静岡市役所本館前に設置されています。
この由来碑は昭和54年に設置されたものですが、昭和60年以降の静岡県史編纂事業による調査において、静岡の名称についての新資料(国立公文書館所蔵 公文録)が確認されました。その資料は、『府中藩が明治政府に3つの名称案「静岡」、「静(しず)」、「静城(しずき)」を上申し、明治政府が「静岡」を採用』したことがわかる資料でした。この候補の考案に、向山黄村が深く関わったと考えられています。平成28年5月 文化財課
明治二年(1869)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山(むこうやま)黄村(こうそん)先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った
ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす
昭和五十四年四月一日 静岡市』
という碑が静岡市役所本館前に設置されています。
この由来碑は昭和54年に設置されたものですが、昭和60年以降の静岡県史編纂事業による調査において、静岡の名称についての新資料(国立公文書館所蔵 公文録)が確認されました。その資料は、『府中藩が明治政府に3つの名称案「静岡」、「静(しず)」、「静城(しずき)」を上申し、明治政府が「静岡」を採用』したことがわかる資料でした。この候補の考案に、向山黄村が深く関わったと考えられています。平成28年5月 文化財課

静岡市役所本館前の「静岡の由来」の碑(2024年9月5日 筆者撮影)
「静岡」の命名に深く関わったとされる向山黄村も旧幕臣の一人であり、当時は静岡学問所のトップであった。この向山もまた学問所の廃校後には東京に戻っている。藩が三つの案を上申して明治政府が「静岡」を採用したとされることからは、明治政府と藩との上下関係がはっきりと見て取れる。全国の藩校が廃校となる中、クラークの文部省への意見書が顧みられなかったことは当然であった。藩主たちが明治政府の廃藩置県の政策に抵抗しなかったのは、どの藩の財政も苦しかったからであるとされる。財政を国が担ってくれるなら、藩主たちは金策の苦労から解放される。こうして県の財政は明治政府によって賄われることになり、中央集権化が確立された。学制発布後もクラークは1年以上なお静岡に居続けたが、その頑張りも遂に限界に来ていたのであった。
賎機山はクラーク邸から近いのでクラークも何度も登っていた。しかし、賎機山が静岡の名前の由来になっているとは知らなかった。
「信次、ありがとう。信次は賎機山が好きなんだね。」
「はい。私の家は賎機山のすぐ近くにありますから、幼い頃からこの山が遊び場になっていました。」
「ミスター中村の家も賎機山のすぐ近くにあったね。そこで『西国立志編』と『自由之理』が翻訳されて出版されたのだね。」
クラークは中村正直と過ごした日々のことを思い出した。静岡を離れるのは残念だが、東京でまた中村に会えるのは楽しみなことだ。東京転任を前向きに考えることができて、信次と順三を誘って賎機山に来て良かったとクラークは思っていた。

賎機山の山頂付近から東側の谷津山方面を望む(2024年9月18日 筆者撮影)
山頂に着くと三人は富士山が見える東側と安倍川が見える西側の両方の眺望を楽しんだ。東側には谷津山もある。クラークは三人で谷津山に登った時のことを思い出していた。
「順三は海外に留学したいと、話していたね。その気持ちは今でも変わらないの?」
「はい、留学したい気持ちがますます強まっています。私は中村先生の送別のバイブル・クラスで読まれたヨハネの福音書8章32節がずっと心に響いています。」
ヨハネ8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
「真理を知るためには、様々なことを広く学ぶ必要があると私は感じています。聖書を学ぶだけでなく、数学、物理学、化学、生物学などをもっと深く学びたいです。それには海外で学ぶのが一番ではないかという思いが、どんどん強まっています。」
順三のことばにクラークは深くうなずいた。
「聖書には『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』(マタイ4:4他)と書いてある。『数学のことば』も『物理学のことば』も『化学のことば』も『生物学のことば』もどれも皆、『神の口から出る一つ一つのことば』だからね。」
「はい。クラーク先生がそのように言っていたと、下条さんから聞いたことがあります。」
「そうなんだね。もしラトガース大学への留学を希望するなら、手伝うことができると思うよ。他の海外の大学のことも、東京には多くの外国人教師がいるから、聞いてみてあげられると思うよ。手紙で連絡を取り合うようにしよう。」
「うれしいです。よろしくお願いします。」
そしてクラークは信次のほうを向いた。
「信次はこれからのことを、どう考えているのかな?」
「僕はいま、農学に興味を持っています。」
「農学?それはまた、どうしてかな?」
「もともと生物に興味を持っていましたが、順三の家の本屋に農学の本が置いてあるのを見て、関心を持つようになりました。」
「農学も、これからの日本には必要な学問だね。」
「はい。そして最近、学問所の杉山親先生と吉見義次先生がレーベの『農学提要』の翻訳を始めていることを耳にしたので、両先生に農学のことを聞きに行きました。先生方の話を聞いて、ますます興味を持つようになりました。」
「農学と言えば、東京にいる友人のグリフィスからの手紙によれば、北海道の開拓使が札幌に農学校を作る準備をしているようだね。」
蝦夷地は明治2年(1869)から北海道と呼ばれるようになっていた。北海道の開拓は北方のロシアの南下に対抗する上で明治政府にとって極めて重要な政策であり、開拓使が設けられた。そして、北海道の開拓には学問の力が重要であるとして、開拓使は文部省とは別の独自の教育政策を進めており、多くの留学生を海外に送り出していた。明治4年(1871)の岩倉使節団と共に渡米した津田梅子や山川捨松ら5名の女子も開拓使が派遣した留学生であった。帰国した津田梅子は女子英学塾(現:津田塾大学)の創設など女子教育の充実のために尽力し、山川捨松も津田を支援した。大山厳と結婚した捨松は「鹿鳴館の華」としての側面が有名であるが、アメリカで看護婦の資格を取得していた捨松は日本初の看護婦学校の設立にも尽力した。必要な資金を調達するためにチャリティー・バザーを3日間にわたって開き、多額の収益を上げた。そして、その資金を基に2年後には実際に開学に漕ぎ着けている。また日清・日露戦争の際には彼女自身も看護婦として戦傷者を看護した。開拓使の教育政策では札幌農学校の開校と発展のみが評価されがちだ。しかし、津田梅子や山川捨松らの留学生の派遣もまた大きな成果と言えよう。
クラークから新しい農学校の設立の動きを聞いた信次は興奮気味に聞き返した。
「本当ですか?農学を学べる学校が北海道に新しく作られるのですね?」
「そう聞いているよ。開校はまだ先のことのようだけれど、準備が進められているみたいだよ。東京ではなく、地方の札幌に新しい学校が作られる意義は大きいかもしれないね。」
「クラーク先生、東京に行ったら、その札幌の農学校について、手紙でもっと教えていただけませんか。」
「もちろんだよ。信次にも手紙を書くようにするよ。」
実は開拓使の高等教育機関設置の動きはクラーク着任とほぼ同時期の明治5年(1872)の1月には黒田清隆によって既に始められていた。黒田は北海道に学校を設けるまでの間はまず東京に仮学校を設けることにして、化学、機械学、植物学、数学の教師各1名と医師2名をアメリカから招くことにした。そして同年3月、東京芝の増上寺境内に「開拓使仮学校」の看板が立てられた。生徒募集の標札が各地に立てられた時には、入学志願者が門前に殺到したと言われている。[蝦名賢造『札幌農学校 日本近代精神の源流』(新評論 1991)p.23-24]
それから三人は、互いの将来のために丘の上で祈り合った。
「信次と順三が大きな志を抱いていることを聞いて、とてもうれしく思うよ。静岡で働くことができて本当に良かった。これからもその志を抱き続けて生きて行けるよう、祈っているよ。」
「ありがとうございます。僕たちも先生のために祈っています。」
こうしてクラークの静岡での2年間の生活が、幕を閉じた。