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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

友と共に神を賛美した礼拝

2025-02-27 06:29:57 | 折々のつぶやき
 2月23日と25日にFacebookへ下記2件の記事を投稿しました。

【2025年2月23日】
 今朝は川崎に向かっています。午前は以前住んでいた辺りをブラブラした後で出身教会の礼拝に出席、午後はミューザ川崎で浜松国際ピアノコンクール優勝者の鈴木愛美さんのコンサートがあるので、聴きに行きます。寒波のためか新幹線はやや遅れ気味ですが、大きな遅れではないので感謝です。



【2025年2月25日】
 一昨日の2月23日(日)に川崎へ行き、午前は出身教会の礼拝に出席、午後はミューザ川崎での鈴木愛美さん(昨年の浜松国際ピアノコンクール優勝者)のコンサートを聴いて来ました。

 浜松国際ピアノコンクールのことは恩田陸『蜜蜂と遠雷』で知り、強い関心を持ちましたが、あくまでも小説やテレビ取材や映画の中だけのことであり、自分で聴きに行こうとは思っていませんでした。それが、友人がチケットを買って聴きに行くつもりだという話を聞き、ナルホドと思って僕も聴きに行くことにしました。その友人とは昨年の11月11日の第1次予選3日目を共に聴き、浜松の駅ビルで共に食事もしました。その彼が2月23日のミューザ川崎の演奏会のチケットも買ったと言うので、ナルホドと思って僕も買い、共に聴くことにしていました。

 この友人と初めて会ったのは20年前の2005年1月8日の東工大での映画『チルソクの夏』上映会と佐々部清監督講演会の懇親会の時で、それ以降、彼とは何度会ったか数え切れません。広島で偶然にバッタリ会ったこともあります。40代で知り合った友人と学生時代の友人のような付き合いができたことが楽しくて仕方がありませんでした。彼は僕が姫路にいた時にも会いに来てくれました。

 さて2月23日の2日前に、僕は彼に「ミューザ川崎、明後日ですね。楽しみです☺」というLINEメッセージを送りました。しかし、既読にならなかったので23日の午前、川崎に着いた頃に別のチル友(『チルソクの夏』で知り合った友人)さんに彼へのメッセージが既読にならないことを知らせると、そのチル友さんは半月も前から彼とは音信不通であることが分かりました。そのチル友さんから音信不通の彼の自宅に一緒に行かないかと誘われたので、コンサート後に一緒に行くことになりました。そういうわけでコンサートのピアノ演奏中は音信不通の彼のことが心配で音楽を楽しむどころではありませんでした。そして、川崎駅から電車を乗り継いで1時間ほどの所にある自宅へ行きましたが、その日は音信不通の原因は分かりませんでした。

 そうして僕は23日の夜に静岡に戻りましたが、チル友さんは昨日と今日の25日も引き続き音信不通の彼の自宅を訪ね、その他にも調べてくれました。そして、彼が昨日の24日に亡くなっていたことが分かり、その後、LINEトークが既読になり、彼の親戚から葬儀日程の連絡が入りました。

 2020年3月31日の佐々部清監督の訃報も突然でしたが、彼との別れも突然でした。彼からの最後のLINEメッセージは、浜松国際ピアノコンクールを「3年後も聴きましょう!」でした。それは叶わないことになりましたから、残念でなりません。

 しかし一昨日の23日のことを思い返すと、僕が彼のことを思っていたのはピアノコンサートの時だけではなく、教会での礼拝の時も彼のことを思っていました。僕は彼のことを思いながら賛美歌を歌い、祈り、聖書のメッセージを聴いていました。説教ではサムエル記第二6章の、ダビデが神の箱をエルサレムに運び入れた時のことを記した箇所が開かれました。

サムエル記第二6:14 ダビデは、主の箱の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。

 出身教会での礼拝は約1年ぶりでした。懐かしい会堂に久し振りで入ることは心躍ることです。その喜びに浸る僕の心の中には彼がいました。つまり、僕は彼と一緒に神様を心一杯賛美し、礼拝することができました。そのことを、とても感謝に思っています。







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「『八日目の蝉』と神の愛」

2025-02-21 08:18:00 | 折々のつぶやき
2025年2月21日静岡朝祷会奨励
「『八日目の蝉』と神の愛」
ヨハネ3:14~16

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 先週2月15日(土)の午後に、NHK-BSで映画『八日目の蝉』を放送していました。2011年公開の映画で当時とても話題になりましたので、私もその時に観ていますが、再びBSで観て感動を新たにしました。暗く重いシーンが多く続く映画ですが、最後の最後に明るい未来が見えて、魂が洗われるような思いがする、そんな映画です。
 あらすじをごく簡単に紹介すると、主人公は大学生で井上真央さんが演じています。彼女は生後すぐの赤ちゃんの時に誘拐されて4歳の時まで実の母親とは異なる別の女性に育てられていました。誘拐犯が逮捕されたことで彼女は実の母親の所に戻りますが、彼女がどんな子守り歌を聞いて育ったのかが実の母親には分からない等のことから、親子関係をうまく築けないまま大人になります。そうして彼女は妻子ある男性と不倫関係を持って妊娠します。彼女は、この子を産んで育てようと思いますが、気まずい関係だった実の母親から深い愛情が注がれた経験が無いため、自分のお腹の子に愛情を注ぐことができるか自信がありません。でも、なぜか産みたいという気持ちだけは持ち続けています。
 そういう中で彼女は、かつて育ての親と共に暮らしていた小豆島を訪れます。そうして、この小豆島においては育ての親――永作博美さんが演じています――から、たっぷりと愛情を注がれていたことを段々と思い出して行きます。この島には写真館があって幼かった彼女と育ての親はここで記念写真を撮っていました。その時のネガフィルムがまだ残っていたので、写真館の店主が暗室で写真を現像してくれます。現像液に浸された印画紙に当時の二人の姿が浮かび上がり、彼女は自分がたっぷりと愛情を注がれていた時のことをハッキリと思い出しました。そして、自分もお腹の子にたっぷりと愛情を注ぎたいという明るい希望を見出して、映画はここで終わります(原作はまだその先がありますが…)。

 この映画を観て、親から愛情をたっぷりと注がれた経験を持つことの大切さについて、改めて考えさせられました。親の愛を自覚していなくても潜在的には記憶していて、何かのきっかけでそれを思い出す場へと導かれて行き、その記憶を取り戻すということが確かにあるんだと思います。映画ではヒロインが小豆島へと導かれて行きました。
 ルカの福音書15章の放蕩息子も同様ですね。食べる物に困った放蕩息子は、我に返って父親のことを思い出します。ルカ15章のその場面をお読みします。

ルカ15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 こうして、放蕩息子は自分に対する父の愛情の深さを知ります。幼い頃に受けた父からの愛を潜在的に記憶していて、その愛をハッキリと思い出しました。この父の愛とは言うまでもなく神様の愛のことです。
 そして、聖書で神様の愛を伝える聖句として最も有名なのがヨハネの福音書3章16節ではないかと思います。新改訳2017でお読みします。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3:16は「聖書の中の聖書」とも呼ばれていて、聖書のメッセージがこの聖句の中に凝縮されていると言われます。このヨハネ3:16は単独で引用されることが多いと思いますが、3:16単独よりも3:14から読むことで、メッセージはより一層鮮明になると思います。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 14節の「モーセが荒野で蛇を上げた」とは、民数記21章の出来事を示します。その箇所をお読みします。

民数記21:4 (イスラエルの)民は、途中で我慢ができなくなり、
5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
6 そこでは民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
7 民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるように祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8 するとはモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 神様は目に見えませんから、荒野にいたイスラエルの民は神様から簡単に離れてしまい、不平不満を言うことを繰り返していました。彼らは本当に幼い信仰しか持っていない幼子でした。体は大人でも心は幼子でした。その幼子たちに神様は愛情をたっぷりと注いで約束の地のカナンへ導こうとしていました。目に見えるものしか信じることができない彼らに神様はモーセに命じて青銅の蛇を作らせて、それを仰ぎ見れば生きるようにして下さいました。そうしてイスラエルの民は神様に立ち返りましたが、それ以降も神様から離れることを繰り返しました。
 それゆえ神様は御子を地上に遣わし、目に見える形での「人の子」としてヨセフとマリアの子としました。そうして最後は御子イエス・キリストを十字架に付けました。この十字架が目に見える形で私たちに与えられていますから、私たちは神様の深い愛を知ることができます。
 モーセの時代のイスラエルの民は、信仰が幼い頃の私たち自身であると言えるでしょう。神様は目に見えませんから、私たちもまた神様から離れていました。しかし、神様はそんな私たちを深く愛して下さっていました。私たちは幼い頃に受けていた神様の愛を記憶していませんが潜在的には覚えていて、何かのきっかけで思い出す方向へと導かれるようになり、遂に十字架によって記憶を取り戻します。私自身が出身教会の高津教会へ導かれた経緯を思い起こしても、そのようであったと思います。
 映画『八日目の蝉』では、ヒロインが幼い頃に誘拐犯の母と過ごした小豆島へと導かれて行き、写真館の暗室に入り、現像液に浸された印画紙から浮かび上がった母と自分との記念写真を見て、母の愛の記憶を取り戻しました。そうして、その母の愛が今度は自分のお腹の中の子へと受け継がれて行きます。

 『八日目の蝉』というタイトルが何を意味するのか、人によって様々な解釈があるようですが、聖書的に解釈するなら、「永遠の命」と言えるのではないでしょうか。蝉は七日間の命しかないと言われています。しかし、八日目の蝉には寿命を超えた命が与えられています。寿命を超えた命とは母の愛であり、母の愛は世代を超えて受け継がれて行きます。
 神様の愛もまた、聖書によって世代を超えて受け継がれて行きます。そして、御子イエス・キリストを信じるなら、永遠の命が与えられます。寿命を超えた永遠の命が約束されて、そのことで神様の平安に包まれて日々を過ごすことができるようになります。
 神様はすべての人を愛して下さっています。イエス様を信じない人のことも、まだイエス様を知らない人のことも、神様は愛しています。十字架によって一人でも多くの方が神様の愛を思い出すことができるように、お祈りしたいと思います。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
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連載34(続編20)「ニコデモ」の謎解き

2025-02-10 10:14:06 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(20)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

「ニコデモ」の謎解き
 ヨハネ4章のイエスがサマリアの女に言った「あなたには夫が五人いました」は、「アハブ王以前の北王国の歴代の王たち」であるという説にエリも賛成してくれたことで、ノンのテンションがまた一段と上がった。
「ヨハネの福音書って、高い所から俯瞰して読むと新しい発見がたくさんある書だから、つい興奮しちゃうね。でも、僕はちょっとお腹がすいたな。」
 エリも言った。
「ワタシも何か食べたいな。このカフェで食べる?カレーとかがあるみたいだね。」
 ジュンが提案した。
「だいぶ長い時間ここにいるから、場所を変えない?近くの新静岡セノバのフードコートなら、いろいろ選べるよ。話の続きもそこでできると思うし。どう?」
 ノンとエリも賛成したので三人は新静岡セノバ3階のフードコートに移動することにした。

 新静岡セノバのフードコートではラーメン、讃岐うどん、パスタ、オムライス、韓国料理、ハンバーガー、タコ焼きの店があり、アイスクリームの店もある。
 エリは讃岐うどんとタコ焼き、ノンは韓国料理、ジュンはパスタを選んだ。
 エリが言った。
「タコ焼きは三人で食べよう。」
 ジュンが感心して言った。
「エリがタコ焼きを知っていたなんて、意外だな~。」
「去年日本でたまたま食べておいしかったから、今年も食べたいと思っていたんだよ。フードコートにあってラッキーだったよ。」
「静岡おでんはどう?食べたことある?」
「静岡おでんは、まだ食べたことないんだよね。」
 すると、ノンがすぐに反応した。
「じゃ、今夜は静岡おでんを食べようよ。」
「オッケー。」
「いいね~。」
 エリとジュンがすぐに賛成したので、今夜は静岡おでんで決まりだ。

「じゃ、そろそろヨハネの福音書の話の続きをしようか。1章から3章までが残っているけど、どうする?4章に近い3章から見て行こうか?」
 エリが提案すると、ノンが応じた。
「うん。じゃ、3章から見て行こう。3章は14節でイエス様が『モーセが荒野で蛇を上げた』と言っているから、14節は民数記の時代で決まりだね。」

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

民数記21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 エリは、二つの聖句を見比べて言った。
「うん。ヨハネ3:14の背後に民数記21:9があることは誰の目にも明らかで否定のしようがないね。じゃ、15節以降はどうだろうか?」
 ジュンが22節を見ながら言った。
「22節に『イエスは弟子たちとユダヤの地に行き』と書いてあるね。これって、もしかしたらモーセの後にリーダーになったヨシュアがヨルダン川を渡った時のことを示しているんじゃないかな?」

ヨハネ3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

 ノンがうなずいた。
「なるほど~。ヨハネ10章はバビロン捕囚のことを『ヨルダンの川向こう』(ヨハネ10:40)で示していたけど、ここではヨシュア記3章のヨルダン渡河の出来事を『イエスは弟子たちとユダヤの地に行き』で示しているという訳だね。」

ヨシュア3:17 主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた

 エリもうなずいた。
「確かに。ヨハネ3:22はヨシュアの時代のヨルダン渡河の出来事の可能性が高いね。でも次のヨハネ4章はもう列王記第一の時代だから、ヨハネ3章の22~36節の短い区間にヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記第一、サムエル記第二が詰まっていることになるね。それで良いのかな?」
 三人は考え込んだ。
 ノンの意見はこうだ。
「ダビデ王は聖書の中でもかなり重要な人物だからサムエル記のことが触れられていないのは、少し変な気がするね。」
 するとジュンが言った。
「この30節がダビデと関係があるんじゃないかな?」

ヨハネ3:30 「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 ノンが言った。
「これは、バプテスマのヨハネのことばだよね。このことばがダビデと関係あるの?」
「何となく、そんな気がするんだけど…。」
 エリが聖書の引照を調べながら言った。
「バプテスマのヨハネは祭司のザカリヤの息子だから、レビ族の家系だよね。」

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

アビヤの組の引照には歴代誌第一24:10とあるな…。歴代誌第一の24章は『アロンの子らの組分け』。アロンはモーセの兄だからアビヤは確かにレビ族だね。だからザカリヤの息子のバプテスマのヨハネもレビ族だね。」

Ⅰ歴代誌24:1 アロンの子らの組分け
10 第八はアビヤに、

 ノンがハッと気付いて言った。
「あっ、そうか!サウル王やダビデ王の時代の前はサムエルがイスラエルを治めていたんだよね。確かサムエルはレビ族だったよね。」
 エリが答えた。
「うん。サムエル記第一1章には、このように書いてあるよ。」

Ⅰサムエル1:1 エフライムの山地ラマタイム出身のツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。

「サムエルは、このエルカナの息子なんだけど、エルカナに付いている引照の歴代誌第一6:27を見ると、エルカナケハテ族で、系図を遡るとケハテ族レビ族と分かるよ。だからノンが言う通り、サムエルはレビ族だよ。」

Ⅰ歴代6:1 レビの子は、ゲルション、ケハテ、メラリ。
・・・・・
22 ケハテ族は、その子アミナダブ、その子コラ、その子アシル、
・・・・・
27 その子エリアブ、その子エロハム、その子エルカナ

 エリの系図の説明を聞いて、ノンが言った。

「つまりヨハネ3:30でバプテスマのヨハネがイエス様を見ながら言った『あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません』」は、イスラエルを治める者の家系がレビ族からユダ族のダビデの家系に移った、そういうこと?」
 エリがうなずいた。
「そういうことじゃないかな。」
 ジュンは大喜びだ。
「わ~、じゃ私がヨハネ3:30はダビデと関係あるんじゃない?と言ったのは、その通りだったということだね!」
「うん、そうみたいだね。」
「うん、うん。サムエルの時代からダビデの時代への移行が『あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません』ということで良いんじゃないかな。」
 ジュンのテンションが上がった。
「ここまで分かると、ニコデモも分かるね。ニコデモはヨハネの福音書にしか登場しない人で、私にとっては謎の人物だったけど、もう分かるね。」

ヨハネ3:1 さて、パリサイ人の一人で、あの方は盛んになり、私は衰えなければなりませんという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

 ノンが言った。
「うん。ヨハネ3:14が民数記の時代だったから、ニコデモの登場は『モーセの律法の授与』を表しているんだろうね。」「
 エリもうなずきながら言った。
「そうだね。ニコデモはパリサイ人だから、ここは『モーセの律法の授与』で間違いないだろうね。」
 ジュンは感動していた。
「ヨハネの福音書は私にとって謎だらけの難解な書だったけど、きょう三人で話して随分と分かるようになったよ。うれしいな~。」

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連載33(続編19)「夫が五人」の謎解き

2025-02-06 04:27:16 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(19)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

「夫が五人」の謎解き
 ヨハネの福音書は11章54節で「イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず」と記すことで、以後は預言者を通して神のことばが語られることがなくなったことを示している。つまり、ここで旧約聖書の記述が閉じられた。このことをエリ、ノブ、ジュンの3人は互いに確認し合った。
エリが言った。
「これでヨハネの福音書の4章から11章までを大まかに見たことになるけど、この後は、どこを見ようか。1~3章を見ることにする?」
 するとノブが言った。
「1~3章を見る前に、まだ4章の始めの方で気になる箇所があるんだけど…」
 ジュンが聞いた。
「どこ?」
「うん、一つは4章6節。ここにイエス様が【疲れ】ていたことが書かれているでしょ。」

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

「この『イエスは旅の疲れから』が、妙に気になるんだよね。」
 ジュンが言った。
「確かに…、そう言われると何だか気になるね。さっき見たヨハネ11:35の『イエスは涙を流された』の背後には『エルサレムの滅亡』があったから、この『イエスは旅の疲れから』の背後にも何かがありそうな気がするね。」
 ノブが続けた。
「うん、それから、もっと気になるのが、イエス様の『あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない』ということばだよ。これって、メチャクチャ気にならない?」

ヨハネ4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

 ジュンが言った。
「ここは、サマリアの女の不幸な境遇のことが語られることが多いけど、『夫が五人』は多すぎるような気もするね。」
「でしょ~!」
 エリも言った。
「確かに気になるね。じゃ、まず『イエスは旅の疲れから』から検討しようよ。」
 そう言って、エリはまず4章~6章の流れを復習した。
「ヨハネ4章のイエス様は北王国の預言者エリヤで、6章のイエス様はエリシャだったね[連載27(続編13)]。そうすると、ヨハネ4章でイエス様が疲れていたのはサマリアの女と会う前だから、エリヤが登場する前の北王国の状況を示しているのかもしれないな…」
 ノンがうなずいた。
「なるほど…。ダビデの息子のソロモン王が死んだ後、イスラエルの王国は北王国と南王国の2つに分裂した。ソロモン王の不信仰が原因だったけど、分裂後の北王国は、さらにヒドイことになったんだよね。北王国の人々が南のエルサレム神殿に行けないように初代王のヤロブアムがしたことで、不信仰がどんどん増して行った。そうしてアハブ王の時代には最悪の状態になって、それで天の神様は預言者エリヤを遣わしたんだよね。」
 ジュンもうなずいた。
「そうすると、ヨハネ4:6の『イエスは旅の疲れから』は天の神様が北王国の不信仰を心配していたことを示しているのかもしれないね。イスラエルの王国が南北に分裂して北王国の不信仰が加速していた。神様が心配するのも当然だよね。そして、最悪のアハブ王の時にエリヤが遣わされた…。ヨハネ4章は、そういう筋書きなのかな…?」
 ここで、ノンがハッと気付いて言った。
「そっかー、分かった、分かった!じゃ、ヨハネ4:18の『あなたには夫が五人いました』は、アハブ王の前の北王国の王様たちのことを指しているんじゃない?」
「オ~!」
「ワ~!」
 エリとジュンが同時に歓声を上げた。そして、エリが列王記第一を開いて北王国の歴代の王たちを調べ始めた。
「えっと~、初代がヤロブアム、次がナダブ、バアシャ、エラ、ジムリ、オムリ、そうしてオムリの子がアハブ王だね。」
 エリは今あげた王を数えた。
「一、二、三、四、五、六.あれ、ヤロブアムからオムリまで六人いるよ。『夫が五人』と数が合わないね。」
 ノンが残念がった。
「そうか~、『夫が五人』はアハブ王の前の北王国の王たちだと思ったけど、見込み違いだったか~。残念!」
「待って!」
 ジュンが言った。
「ここにジムリのことが書いてあるよ。」

Ⅰ列王16:15 ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが七日間ティルツァで王となった。そのとき、兵はペリシテ人のギベトンに対して陣を敷いていた。
16 陣を敷いていたこの兵は、「ジムリが謀反を起こして王を打ち殺した」と言われるのを聞いた。すると、全イスラエルはその日、その陣営で軍の長オムリをイスラエルの王とした。
17 オムリは全イスラエルとともにギベトンから上って来て、ティルツァを包囲した。
18 ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿に入り、自ら王宮に火を放って死んだ。

ジムリが王だったのは七日間だけで、しかも全イスラエルはジムリを王としては認めていなかったから、ジムリはカウントしなくても良いんじゃない?」
 残念がっていたノンがまた元気になった。
「ホントだ~!ジムリをカウントしなければ『夫が五人』と数が合うね!エリはどう思う?」
 エリは慎重だった。
「ウ~ン、都合よく解釈し過ぎているような気がするな…。じゃ、18節の続きの『今一緒にいるのは夫ではない』は、どう解釈するの?」
 ノンは少し考えて言った。
「それは…。サマリアの女は列王記第一17章のやもめだよね。やもめだから、今一緒にいるのは夫ではないとか、かな?」

Ⅰ列王17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 ジュンは別のことを言った。
「ツァレファテは北王国に含まれないから、アハブ王は夫ではないということかもしれないよ。」
 ノンが言った。
「あ~、確かに。そっちかもしれないね、ジュン。」
 ノンがまたエリに聞いた。
「ね~、エリ。『夫が五人』は、アハブ王の前の五人の王たちということで良いんじゃない?」
「ハハハ、ワタシたちは聖書学者じゃないからね。それでも良いかもしれないね。じゃ、ワタシも『夫が五人』は、アハブ王の前の北王国の歴代の王たちという説に一票入れるよ。」
「やったー!」

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連載32(続編18)バビロン捕囚からエルサレム復興まで

2025-02-03 04:45:44 | クラーク先生と静岡学問所の学生たち
福音の新発見(18)
~続・クラーク先生と静岡学問所の学生たち~

目次・参考文献

バビロン捕囚からエルサレム復興まで
 エリがまた提案した。
「せっかくだからヨハネ10~11章も、もう少し詳しく見てみたいな。まだまだ面白いことが分かりそうな気がするよ。」
 ノンが応じた。
「うん、そうしよう。律法の書が見つかったヨシヤ王の時代の後は、また不信仰な悪い時代に逆戻りしちゃったんだよね。」
 明るかったジュンの表情が曇った。
「天のイエス様のため息が聞こえて来るような気がするね。イスラエルの王たちは、どうしてこんなにも不信仰なんだろうね。」
「僕もそう思うよ。天の神様は預言者エレミヤを通して王たちに不信仰を改めるように何度も警告したのにね。たとえばエレミヤ7章とか。」

エレミヤ7:1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。
2 「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。
3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
4 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。
5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。

 ジュンが言った。
「それなのに南王国の王たちが不信仰を改めなかったので、天の神様は南王国を滅ぼすことにして、外国人の略奪隊をエルサレムに送ったんだよね。」

Ⅱ列王24:2 主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

 ジュンのことばを聞いて、エリが言った。
「あっ、そうか!だからヨハネ10章1節のイエス様のことばは、エレミヤの叫びなんだね。」

ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 ジュンが言った。
「うん、うん。エルサレムは門を閉めて防御を固めていたけど、外国人の略奪隊は門から入らずに城壁を乗り越えて囲いの中に侵入して略奪したんだね。」
 ノンも言った。
「この列王記第二24章2節にあるエホヤキム王というのも、とんでもなく不信仰な悪王だったみたいだね。エレミヤを通して語られた神のことばを口述した巻物をエホヤキム王は暖炉の火ですべて燃やしてしまったとエレミヤ36章には書いてあるからね。」

36:1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなことばがあった。
2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。
3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記した。

21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした

 このエレミヤ36章の記述を読んで、エリが言った。
「そうか!じゃ、ヨハネ10章のイエス様が冬の日に『聖書が廃棄されることはあり得ない』と言ったのは、エホヤキム王が暖炉の火で巻物を燃やしてしまったことを指しているんだね!」

ヨハネ10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。
23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。

34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。
35 神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、

 ジュンのテンションがまた上がった。
「すご~い。前から私はこのイエス様の『聖書が廃棄されることはあり得ない』が気になっていたんだよね。この『廃棄』ということばに唐突感を覚えていたんだけで、そっか~、これはエホヤキム王の『巻物焼き尽くし事件』のことを指していたんだね。」

 エリが言った。
「そうして、さっきノンとジュンが言ったように、南王国の人々はヨルダンの川向こうのバビロンに捕囚として引かれて行ったんだね[連載28]」。

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

 エリは続けた。
「『預言者のことば=イエス様のことば』だから、ここはエゼキエルだね。」

エゼキエル1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
2 それはエホヤキン王が捕囚となってから五年目の時であった。

 ノブのテンションも再び上がって来た。
「ヨハネ11章でラザロが病気で死んだことは明らかにエルサレムの滅亡のことだけど、イエス様はラザロが死ぬまで川向こうにとどまっていたよね。これって、

『バビロン捕囚→エルサレム滅亡』

の順番としっかり合致しているね。」
 ジュンが聞いた。
「史実は『エルサレム滅亡→バビロン捕囚』じゃなくて、『バビロン捕囚→エルサレム滅亡』ということだね?」
「うん、そうだよ。列王記第二は、バビロン捕囚は24章に、書いてあって、エルサレム滅亡は25章に書いているからね。」

バビロン捕囚
Ⅱ列王24:11 バビロンの王ネブカドネツァルが都にやって来たとき、彼の家来たちは都を包囲していた。
12 ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。
13 バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。主が告げられたとおりであった。
14 彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。
15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。
16 バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。

エルサレム滅亡
Ⅱ列王25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
9 主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。
10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。

 ノンは続けた。
「ラザロが病気で死にそうだと聞いたイエス様だったけど、すぐにはユダヤに戻らなかった。」

ヨハネ11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。

「そうして、ラザロが死んでからイエス様はユダヤに戻ったんだよ。」

ヨハネ11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

 ジュンは感動していた。
「そうか~。ヨハネ11章のイエス様がすぐにラザロの家に行かなかったのは、エルサレムはまだ滅亡していなかったからなんだね。ヨハネの福音書って、本当に芸が細かいね。」
 エリのテンションも上がった。
「う~ん、そうなんだね。だから、イエス様は『霊に憤りを覚えたんだね。やっと分かったよ。』

ヨハネ11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。

 ノンは何度もうなずきながら言った。
「僕もやっと分かったよ。天の父とイエス様はエレミヤを通して南王国の王たちに不信仰を改めるように何度も警告したのに従わなかった。それで結局はエルサレムを滅ぼさざるを得なかった。『霊に憤りを覚え』は、そういう時空を超えた憤りのことを示しているんだね。」
 ジュンは目に涙を浮かべながら言った。
「神殿が焼け落ち、城壁も壊されてエルサレムが廃墟になってしまったことは、天の父とイエス様にとっても本当につらいことだったんだね。それでイエス様は涙を流したんだろうね。」

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

 エリも何度もうなずいた。
「そうして、エズラの時代に神殿が再建され、ネヘミヤの時代に城壁が修復されて、エルサレムは復興した。それがラザロの復活だね。」

ヨハネ11:43 イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 ノンが言った。
「エルサレムが復興したことは素晴らしいことだったけど、旧約聖書の最後のマラキ書は、人々がまた不信仰に陥っていることを記しているよね。」

マラキ1:1 宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。
2 「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 ため息をついて、ノンは続けた。
「ハー、ひどいね。エルサレムの人々は形式的には律法を守るようにはなったけど、天の神様の愛がぜんぜん分かっていなかったということだね。そうして、ヨハネの福音書は、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせずと書いて旧約聖書がマラキ書で終わったことを示している。」

ヨハネ11:54 イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

 ジュンもため息をついた。
「神様の愛は聖霊が与えられなければ、分からないということだね。イエス・キリストが天から遣わされて父のことを弟子たちに教えた。そうして十字架で死んで復活した。そのイエス様を信じて聖霊が与えられて、ようやく神様の愛が分かるようになるということだね。」

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