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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

原子・分子を驚異的な速さで理解した静岡学問所の学生たち

2024-07-02 06:42:53 | 二人のクラーク先生

静岡のクラーク先生と札幌のクラーク先生(2)

~化学・物理と聖書を中心に~

静岡のクラーク先生の化学教育への熱い想い

 既述の通り、クラーク先生が教師を務めていた静岡学問所には立派な実験室がありました。写真を再掲します。

 ここに写っている試薬や器具類はクラーク先生がアメリカで購入して静岡に船便で送ったものと、静岡学問所が彼に買い与えたものの両方があると思われます。親友のW.E.グリフィスに宛てて書いた手紙にはクラーク先生自身がニューヨークで実験用の資材を購入して日本に送付する手続きをしたことが書かれています。また、クラーク先生の著書には静岡学問所について次のように書かれています。

 当局は頗る気持ちよく科学器具や物理機械を与えてくれたので、物理、化学の諸原理と問題を、学生の前で例証することができた。実験は少々危険なものがあったが、日本人は夢中になって喜び、最も危険な実験にも平気で立ち向った。[E.W.クラーク著『日本滞在記』(飯田宏訳、講談社)p.46]

 静岡学問所の学生たちは実験だけでなく理論の習得にも熱心に取り組み、クラーク先生を大いに喜ばせ喜ばせました。1872年6月27日付のNew-York Evangelist紙に掲載されたクラークの友人宛の手紙(4月12日、静岡)で彼は次のように書いています。

 君にはいつか火曜か木曜か金曜の午後、2時から4時までの間、私の教室に足を踏み入れてもらいたいものだ。そうして、何人かの私の生徒が、バーカーの『理論化学』[George F. Barker, A Text Book of Elementary Chemistry: Theoretical and Inorganic, 1870]の原理を明晰至極に、ただもう単刀直入に解説する、なんとも素晴らしい様子に耳を傾けて欲しい。この本を修得するのに私は懸命に勉強して何ヶ月もかかったのに、この日本人たちの何人かは驚異的な速さで把握してしまう。毎日私は、長くてしばしばとても難解な学課を黒板に(一枚か二枚の非常に大きなものがあるのだ)書き連ねて、その後で全部を2時間かけて説明する。そのすぐ次の授業で、多くの学生は全体をすらすらと復唱してみせるのだ。彼らは私の実験を全部絵にも描いて、素晴らしく理解している。私は力が漲(みなぎ)る思いで、一生懸命に働いている。ここにいられることの特権をありがたく思っていて、最善を尽くしたいという思いが強く湧く。今我が家に4人の学生を同居させているが、彼らは急速に進歩している。[今野喜和人訳(『翻訳の文化/文化の翻訳』第18号 静岡大学人文社会科学部翻訳文化研究会 2023年3月 p.71)]

 このバーカーの化学の教科書については、本ブログの2024年2月20日の記事でも取り上げて紹介しています。原子・分子について静岡学問所の一部の学生が「驚異的な速さで把握してしまう」とは、まさに驚異です。原子・分子については何も知らなかったであろう学生たちが、なぜそんなに速く理解できたのでしょうか?このことにも興味が尽きません。

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開成学校に感心した札幌のクラーク先生

2024-06-26 06:04:46 | 二人のクラーク先生

静岡のクラーク先生と札幌のクラーク先生

~化学・物理と聖書を中心に~

(お断り:最初にアップした記事を少し書き替えました)

はじめに

 これから時おり、静岡学問所のE.W.クラーク先生と札幌農学校のW.S.クラーク先生について考えることにします。二人のクラーク先生は互いに似ている面が多くあります。両先生について考えることで、片方の先生を見ていただけでは気付かなかったことが分かるようになることを期待しています。取り上げる内容は、化学と物理、そして聖書が中心になると思います。本ブログの記事が二人のクラーク先生への理解が深まることに少しでも役立てるとしたら、それは私の専門に近い分野ではないかと思うからです。

 札幌のクラーク先生は言うまでもなく全国的に知られた存在で、北大構内には目立つ所に胸像があるだけでなく「クラーク会館」もあります。北大生には短く「クラ館」と呼ばれて親しまれているこの会館の書店や食堂を、私も学生時代には良く利用していました。一方、静岡のクラーク先生はほとんど無名で顕彰もされていません。

 昨年の12月にクラーク著『勝安房<日本のビスマルク>――高潔な人生の物語』(E・W・クラーク顕彰事業実行委員会 訳、静岡新聞社)が出版されたのを機会に、静岡のクラークも知られる存在になることを願っています。

1.開成学校に感心した札幌のクラーク先生

 静岡のクラーク先生も札幌のクラーク先生も共にアメリカ東部の出身です。来日時には先ずフィラデルフィア発・シカゴ乗り換えの大陸横断鉄道でサンフランシスコまで行き、そこから汽船のグレイト・リパブリック号に乗って横浜を目指しました。札幌のクラーク先生の伝記には次のように記されています。

 6月1日、彼らは汽船グレイト・リパブリック号に乗船、金門湾口を通って太平洋に出る。この船は途中横浜に寄港するだけの、サンフランシスコ・香港航路の木造外輪汽船で、長さ386フィート、積載量4,300トン、150人収容の特別二等室と1,200人分の普通船室とを備えていた。[ジョン・エム・マキ著『W・S・クラーク その栄光と挫折』(高久真一訳、北海道大学出版会)p.164]

 一方、静岡のクラーク先生は札幌のクラーク先生よりも4年半早い1871年9月30日にサンフランシスコを出港しました。静岡のクラーク先生もやはりグレイト・リパブリック号に乗船していたことに、不思議なつながりを感じます。両先生は互いに会ったことはありませんでしたが、大相撲の小錦と曙のような関係が次の記述から見えて来ます。横浜に着いた札幌のクラーク先生は北海道に行く前に東京にしばらく滞在したのですが、その折に開成学校(東京大学の前身)を訪ねています。かつてグリフィスと静岡のクラーク先生が化学の教師をしていた学校です(なお、引用文中の下線は本ブログの筆者が付したものです)。

 東京では見物と公式の会合で忙殺され、仕事が何一つできそうもないというクラークの心配をよそに、彼らは札幌への出発までに相当な量の仕事をこなしている。彼らは、今の青山に当たる所にあった開拓使直轄の広大な官園〔試験農場のこと〕を見学したり、開成学校という、1872年に開学し、東京大学の前身に当たる学校を訪ね、そこの自然科学関係の施設や図書館、植物園を見て回った。ここで彼らは学校付設の工場を見学し、道具や器具類の製造を初め、授業で使うための化学薬品などもそこで作っているのにすっかり感心した。

(中略)

 彼らの印象では、日本は近代化に必要な物や技術を導入する上で驚くべき長足の進歩を遂げていた。三人が実際にその目で確かめた一般的な西洋化の高い水準から判断して、札幌は東京とは違うにしても、札幌にいる役人も東京の役人同様、良いものをどんどん受け入れるだろうと思った。[前掲書p.173-174]

 開成学校で札幌のクラーク先生たちが感心した「驚くべき長足の進歩」に、静岡のクラーク先生も関与していたことは間違いないでしょう。なぜなら静岡のクラーク先生がいた静岡学問所には下の写真のような立派な実験室があったからです。クラーク先生は約2年間を静岡で過ごした後に、東京の開成学校に転任しました。

早稲田大学図書館所蔵『静岡風景写真』(クラーク撮影)より

 この写真を眺めて感じたことなども時おり書きたいと思います。

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