イエス・キリスト=聖書の神のことば(4)
~ツバメの巣から「永遠」への巣立ち~
ヨハネ12:28 「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
1.ツバメやハトの子たちの巣立ち
今年も静岡市内の何箇所かでツバメの子育てを見ることができました。お椀ほどのサイズのツバメの巣は、生まれたばかりの小さなヒナたちにとっては十分な大きさですが、成長すると狭くなって入りきれなくなり、やがて巣立って行きます。お椀サイズの小さな空間から大空という無限の空間への巣立ちです。
以前、川崎市の高津区に住んでいた頃のことですが、東急・高津駅の構内の巣から飛び立ったツバメの子が、私の肩に「降りた」ことがありました。巣立ったばかりで十分な飛翔力がなかったために私の肩に「落ちた」と言ったほうが良いかもしれません。巣立ったばかりの鳥はまだ十分に飛ぶことができません。でも、やがて大空を自由自在に飛ぶことができるようになります。
前任の教会で子育てをしていたキジハトの子たちも同様でした。巣立ったばかりの時は、危なっかしい飛び方で、高く飛ぶことができませんでした。下に落ちたために私が拾いに行って巣に戻してあげたこともあります。巣の外にはカラスやネコなどもいて、様々な危険があります。でも、親は巣立ちを促します。そうしてツバメやハトの子たちは親の期待に応えて、勇気を振り絞って巣から飛び立って行きます。
2.「永遠」への巣立ちを促すヨハネ12:28
鳥の巣立ちについて書いたのは、ヨハネの福音書の時空間がマタイ・マルコ・ルカのそれとは大きく異なるからです。マタイ・マルコ・ルカのイエスは30歳の頃にほぼ限定されています(幼少時も含まれますが大半は30歳頃です)。従って空間もガリラヤ地方とユダヤ地方に限られています。言わば、お椀サイズのツバメの巣のようなものです。一方、ヨハネの福音書は、
ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
で始まり、イエス自身も
ヨハネ8:58 「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」
と言っています。つまり、イエスは天地創造の前から天の父と共に「永遠」の時空の中にいます。
ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の書として読んでも構わないでしょう。しかし、それはもしかしたら巣の中で成長中のツバメの子の読み方かもしれません。やがてツバメの子は親に促されて、小さな巣から大空に向かって飛び立ちます。ヨハネの福音書の読者も天の父が巣立ちを促していますから、小さな時空から「永遠」に向かって飛び立つべきではないかと思います
ヨハネの福音書の記事の進行が旧約聖書の進行と時代順に重なっていること、またイエスの言動が旧約聖書の預言者たちの言動と重なっていることに私が最初に気付いたのは2011年の6月です。ヨハネ12:28がきっかけでした。
ヨハネ12:28 「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
この、天の父の「わたしはすでに栄光を現した」とは、どの出来事を指すのか。以前の私はイエスの地上生涯の中の出来事と思っていました。しかし、もしかしたら旧約の時代の出来事、具体的には「出エジプトの出来事」ではないかと、ふと思いました。2011年の6月のことでした。そうして、ヨハネの福音書の進行が旧約聖書の進行と重なっているのではないかと思い、直ちに検証を始めました。
3.基準点のヨハネ3:14(モーセ)、準基準点の4:7(エリヤ)と6:9(エリシャ)
検証の【基準点】にしたのがヨハネ3:14です。
ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」
これが民数記21:9と重なっていることは誰の目にも明らかで、疑いようがありません。
民数記21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。
預言者モーセは聖霊を受けていました。つまり、モーセの内にはイエスがいました。ヨハネの福音書と旧約聖書との重なりの検証は、この疑いようのないヨハネ3:14が【基準点】になります。
次いで、【準基準点】になるのがヨハネ4:7とヨハネ6:9です。ヨハネ4章でイエスはサマリアの女に、
ヨハネ4:7「わたしに水を飲ませてください。」
と言いました。これは、北王国の預言者エリヤからツァレファテの女へのことば、
Ⅰ列王記17:10「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
と重なっています。つまり、預言者エリヤの内にはイエスがいました。そして、もう一つの【準基準点】はヨハネ6:9です。ヨハネ6章でイエスが五千人を満腹にした記事は、列王記第二4章で北王国の預言者エリシャが百人を満腹にした記事と重なることが、「大麦のパン」(ヨハネ6:9とⅡ列王記4:42)から分かります。つまり、預言者エリシャの内にはイエスがいました。
これらヨハネ3章の【基準点】とヨハネ4章と6章の【準基準点】から、ヨハネ1~2章とヨハネ7~11章が旧約聖書の記事とどこで重なっているかもまた、ジグソーパズルのピースが嵌まるように定まって行きます。【基準点】と【準基準点】から分かるように、ヨハネの福音書は旧約聖書が時代順に重なっているからです。たとえばヨハネ1章のイエスがナタナエルを見て、
ヨハネ1:47 「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
と言ったのは創世記32章の神の人とヤコブとの会話、
創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
と重なっていることが分かります。また、
ヨハネ10:1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」
は滅亡寸前の南王国での預言者エレミヤの叫びであること、そして
ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。
のイエスはバビロンへ捕囚として引かれて行った預言者エゼキエルであることが分かります。聖霊を受けた預言者のエレミヤとエゼキエルの内にも、やはりイエスがいました。
これらの重なりの全体像が見えるようになった最初のきっかけはヨハネ12:28でした。ツバメの親が子どもたちに巣立ちを促すのと同じ様に、ヨハネ12:28は天の父からの読者への「永遠」への巣立ちの促しであると思います。
重なりの全体像は、拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書 2017)を参照していただけたらと思います。(つづく)