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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

ツバメの巣から「永遠」への旅立ち

2024-06-17 07:03:24 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

イエス・キリスト=聖書の神のことば(4)

~ツバメの巣から「永遠」への巣立ち~

ヨハネ12:28 「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

1.ツバメやハトの子たちの巣立ち

 今年も静岡市内の何箇所かでツバメの子育てを見ることができました。お椀ほどのサイズのツバメの巣は、生まれたばかりの小さなヒナたちにとっては十分な大きさですが、成長すると狭くなって入りきれなくなり、やがて巣立って行きます。お椀サイズの小さな空間から大空という無限の空間への巣立ちです。

 以前、川崎市の高津区に住んでいた頃のことですが、東急・高津駅の構内の巣から飛び立ったツバメの子が、私の肩に「降りた」ことがありました。巣立ったばかりで十分な飛翔力がなかったために私の肩に「落ちた」と言ったほうが良いかもしれません。巣立ったばかりの鳥はまだ十分に飛ぶことができません。でも、やがて大空を自由自在に飛ぶことができるようになります。

 前任の教会で子育てをしていたキジハトの子たちも同様でした。巣立ったばかりの時は、危なっかしい飛び方で、高く飛ぶことができませんでした。下に落ちたために私が拾いに行って巣に戻してあげたこともあります。巣の外にはカラスやネコなどもいて、様々な危険があります。でも、親は巣立ちを促します。そうしてツバメやハトの子たちは親の期待に応えて、勇気を振り絞って巣から飛び立って行きます。

2.「永遠」への巣立ちを促すヨハネ12:28

 鳥の巣立ちについて書いたのは、ヨハネの福音書の時空間がマタイ・マルコ・ルカのそれとは大きく異なるからです。マタイ・マルコ・ルカのイエスは30歳の頃にほぼ限定されています(幼少時も含まれますが大半は30歳頃です)。従って空間もガリラヤ地方とユダヤ地方に限られています。言わば、お椀サイズのツバメの巣のようなものです。一方、ヨハネの福音書は、

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

で始まり、イエス自身も

ヨハネ8:58 「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

と言っています。つまり、イエスは天地創造の前から天の父と共に「永遠」の時空の中にいます。

 ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の書として読んでも構わないでしょう。しかし、それはもしかしたら巣の中で成長中のツバメの子の読み方かもしれません。やがてツバメの子は親に促されて、小さな巣から大空に向かって飛び立ちます。ヨハネの福音書の読者も天の父が巣立ちを促していますから、小さな時空から「永遠」に向かって飛び立つべきではないかと思います

 ヨハネの福音書の記事の進行が旧約聖書の進行と時代順に重なっていること、またイエスの言動が旧約聖書の預言者たちの言動と重なっていることに私が最初に気付いたのは2011年の6月です。ヨハネ12:28がきっかけでした。

ヨハネ12:28 「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

 この、天の父の「わたしはすでに栄光を現した」とは、どの出来事を指すのか。以前の私はイエスの地上生涯の中の出来事と思っていました。しかし、もしかしたら旧約の時代の出来事、具体的には「出エジプトの出来事」ではないかと、ふと思いました。2011年の6月のことでした。そうして、ヨハネの福音書の進行が旧約聖書の進行と重なっているのではないかと思い、直ちに検証を始めました。

3.基準点のヨハネ3:14(モーセ)、準基準点の4:7(エリヤ)と6:9(エリシャ)

 検証の【基準点】にしたのがヨハネ3:14です。

ヨハネ3:14 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

 これが民数記21:9と重なっていることは誰の目にも明らかで、疑いようがありません。

民数記21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 預言者モーセは聖霊を受けていました。つまり、モーセの内にはイエスがいました。ヨハネの福音書と旧約聖書との重なりの検証は、この疑いようのないヨハネ3:14が【基準点】になります。

 次いで、【準基準点】になるのがヨハネ4:7とヨハネ6:9です。ヨハネ4章でイエスはサマリアの女に、

ヨハネ4:7「わたしに水を飲ませてください。」

と言いました。これは、北王国の預言者エリヤからツァレファテの女へのことば、

Ⅰ列王記17:10「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

と重なっています。つまり、預言者エリヤの内にはイエスがいました。そして、もう一つの【準基準点】はヨハネ6:9です。ヨハネ6章でイエスが五千人を満腹にした記事は、列王記第二4章で北王国の預言者エリシャが百人を満腹にした記事と重なることが、「大麦のパン」(ヨハネ6:9とⅡ列王記4:42)から分かります。つまり、預言者エリシャの内にはイエスがいました。

 これらヨハネ3章の【基準点】とヨハネ4章と6章の【準基準点】から、ヨハネ1~2章とヨハネ7~11章が旧約聖書の記事とどこで重なっているかもまた、ジグソーパズルのピースが嵌まるように定まって行きます。【基準点】と【準基準点】から分かるように、ヨハネの福音書は旧約聖書が時代順に重なっているからです。たとえばヨハネ1章のイエスがナタナエルを見て、

ヨハネ1:47 「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

と言ったのは創世記32章の神の人とヤコブとの会話、

創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

と重なっていることが分かります。また、

ヨハネ10:1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

は滅亡寸前の南王国での預言者エレミヤの叫びであること、そして

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

のイエスはバビロンへ捕囚として引かれて行った預言者エゼキエルであることが分かります。聖霊を受けた預言者のエレミヤとエゼキエルの内にも、やはりイエスがいました。

 これらの重なりの全体像が見えるようになった最初のきっかけはヨハネ12:28でした。ツバメの親が子どもたちに巣立ちを促すのと同じ様に、ヨハネ12:28は天の父からの読者への「永遠」への巣立ちの促しであると思います。

 重なりの全体像は、拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書 2017)を参照していただけたらと思います。(つづく)

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ことばにできないほどの憤りと涙

2024-06-10 10:17:45 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

イエス・キリスト=聖書の神のことば(3)

~ことばにできないほどの憤りと涙~

1.憤り、動揺し、涙を流したイエス

ヨハネ11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

35 イエスは涙を流された。(新改訳第3版)

 上記の聖句は新改訳第3版から引用しました。ヨハネの福音書を読み込んだのは新改訳第3版の時だったからです。

 ヨハネの福音書をまだ良く理解できていなかった頃、私にとって上記の11章33~35節はモヤモヤ度が極めて高い箇所でした。他にもモヤモヤする節はもちろんありましたが、この箇所には特にモヤモヤ・ザワザワを強く感じて、気になって仕方がありませんでした。

 この箇所が何故そんなにモヤモヤするのか?まずは33節の「イエスは…心の動揺を感じて」がモヤモヤします。イエスは沈みそうになった舟の中で弟子たちが悲鳴を上げていた時にも平然と眠っていました。マタイから引用します。

マタイ8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。

24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。

25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。

26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。

 このように、イエスはいつも落ち着いている印象があります。そんなイエスが「心の動揺を感じて」とは、どういうことでしょうか?その手前の「霊の憤りを覚え」(33節)もザワザワします。なぜ単に「憤りを覚え」ではなくて、「霊の憤りを覚え」なのでしょうか?「霊の憤り」とは何でしょうか?そして極めつけは35節の「イエスは涙を流された」です。イエスが死人をよみがえらせた場面はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書には複数ありますが、イエスはいつも落ち着いていました。それなのにヨハネ11章のラザロの死に限って、なぜイエスは動揺したのでしょうか?

 霊の憤りを覚え、動揺し、涙を流したイエス。この箇所からは「ラザロの死」だけでは説明し切れない何かがあり、尋常ではない何かが湧き立っていることを感じます。このモヤモヤ感、ザワザワ感の正体はいったい何なのでしょうか?

2.滅びへ向かう南王国

 このモヤモヤとザワザワの濃い霧は、ヨハネの福音書の構造が分かったことで晴れ上がって視界が開けました。前回の記事に書いたように、ヨハネの福音書のイエスの旅路は旧約聖書の舞台移動と同期しています。

 以下、前回よりも少し詳しく書きます。ヨハネの福音書1~11章と旧約聖書の各書との関係は次の通りです。

  ヨハネ1章  創世記(アブラハム・ヤコブ等)

  ヨハネ2章  出エジプト記(預言者はモーセ)

  ヨハネ3章  出エジプト記・レビ記・民数記・申命記(律法の授与と荒野放浪)、ヨシュア記・サムエル記

  ヨハネ4章  列王記の北王国のヤロブアム王~アハブ王(預言者はエリヤ)

  ヨハネ5章  列王記の南王国

  ヨハネ6章  滅びへ向かう列王記の北王国(預言者はエリシャ・ホセア等)

  ヨハネ7章  列王記の南王国のヒゼキヤ王の宗教改革(預言者はイザヤ)

  ヨハネ8章  列王記の南王国のマナセ王・アモン王の悪魔の時代(預言者は不在)

  ヨハネ9章  列王記の南王国のヨシヤ王の宗教改革(預言者はエレミヤ)

  ヨハネ10章 滅びへ向かう列王記の南王国(預言者はエレミヤ・エゼキエル等)

  ヨハネ11章 エズラ記・ネヘミヤ記のエルサレム再建(預言者はゼカリヤ・ハガイ等)

 1~11章を全て説明すると長くなるので、8章から簡単に説明します。

ヨハネ8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

 ヨハネ8章のイエスは「献金箱の近く」(20節)で「わたしは去って行きます」(21節)と言いました。これは南王国のマナセ王・アモン王の時代に【律法の書】が行方不明になっていたことに対応します。<イエス・キリスト=聖書の神のことば>ですから、神のことばが記された【律法の書】はイエス自身でした。この時代がマナセ王・アモン王の「悪魔の時代」であることは次のイエスのことばから分かります。

ヨハネ8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 この悪魔の時代に預言者たちは不在でした。マナセ王によって殺されたからです。そして、マナセの孫のヨシヤ王の時代に宮を修理している時、献金箱から律法の書が発見されました。この出来事をヨハネ9章は次のように表現しています。

ヨハネ9:5 「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、

7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

 【律法の書】に書かれた神のことばによってヨシヤ王の目は開かれ、宗教改革が進められました。しかし、ヨシヤ王以降の南王国は、再び不信仰の道を歩みます。それゆえ、神は南王国を滅ぼすことにして外国人の略奪隊をエルサレムに送ります。列王記第二24章です。

Ⅱ列王記24:1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。

2 そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

 外国人の略奪隊が城壁を乗り越えてエルサレムに侵入して南王国を滅ぼすことはエレミヤが預言していたことでした。このことをヨハネ10章は次のイエスのことばで表しています。

ヨハネ10:1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 こうしてエルサレムの人々は捕囚としてバビロンへ引かれて行きました。バビロンはエルサレムから見ると「ヨルダンの川向こう」にありますから、このバビロン捕囚の出来事をヨハネ10章は次のように表しています。

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

3.戦災の廃墟の前で涙を流すイエス

 以上のヨハネ8~10章の流れを踏まえるなら、ヨハネ11章の「ラザロの復活」が捕囚後の「エルサレムの再建」を表すことは明らかです。それゆえ、

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

の「イエスの涙」が、戦災で廃墟になったエルサレムを見ての涙であることもまた明らかです。その当時、イエスは父と共に天にいて預言者エレミヤを通して再三にわたって不信仰を改めるように警告していました。しかしエルサレムの人々の不信仰が改まらなかったために、やむをえず外国人の略奪隊を遣わして南王国を滅ぼしたのでした。このことはイエスにとって、本当に悲しいことでした。イエスの霊の憤りと動揺と涙は「ラザロの死」ではなく、エルサレムが滅亡して廃墟になってしまったことによるのです。尋常ではないイエスの動揺ぶりは、このことで説明が付きます。

 21世紀の現代でもロシア軍がウクライナに侵攻して、多くの街が廃墟になりました。この悲劇が始まって2年以上が経ちましたが、いつになったら終わるのか見通しは立っていません。イスラエル軍によるガザ地区への攻撃も終わりが見えない状況にあります。イエスはこれらの戦災の廃墟の前でも涙を流しています。

 イエスは最後の晩餐でへりくだって弟子たちの足を洗い、

ヨハネ13:34 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

と言いました。そうしてイエスはすべてを手放して十字架に付き、死にました。この「十字架の死」についてパウロは次のように記しています。

ピリピ2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 へりくだったイエスの「十字架の死」から間もなく二千年になろうとしているのに、私たちは互いに愛し合うことができずにいて、争いが絶えません。人を自分より低い者と見て攻撃し、降参することを迫って少しでも自分が優位に立とうとします。これでは、いつまで経っても平和は訪れません。

4.平和への道は「永遠への覚醒」から

 世界にはイエス・キリストを信じるクリスチャンが大勢います。それなのに、どうして互いに愛し合うことができずにいて、争いが絶えないのでしょうか?

 争い事が絶えないのは、「イエスの涙」が二千年前の出来事にしか見えていないからではないでしょうか?私が調べたヨハネの福音書の注解書の数はせいぜい百冊程度で、すべてを調べたわけではもちろんありません。しかし、調べたすべての注解書が「イエスの涙」をイエスの地上生涯の時代に限定して考察しています。本ブログのように旧約の時代の南王国の滅亡と絡めた考察を私は見たことがありません。しかし、上記で明らかにしたように「イエスの涙」が旧約の時代のエルサレムの滅亡に絡んでいることは明白です。ヨハネの福音書のイエスは時空を超えた「永遠」の中にいるからです。

 拙著の『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書)では、イエスが「永遠」の中にいることを説明し、帯には「戦災の廃墟の前で涙を流すイエス」と入れてもらいました。私たちは時空を超えた「イエスの涙」をもっと身近に感じる必要があるのではないでしょうか?上述したようにイエスは21世紀の現代のウクライナやガザ地区でも涙を流しています。もちろん原爆が投下された広島・長崎でも涙を流し、あらゆる戦災の廃墟の前でイエスは涙を流しています。私たちが「永遠」に覚醒して時空を超えた「イエスの涙」に共感するなら、私たちは互いに愛し合うことの必要を今以上に痛感する筈です。そうして世界は平和に向かいます。

5.ことばにできないほどの憤りと涙

 きょうの記事のタイトルは「ことばにできないほどの憤りと涙」にしました。「聖書の神のことば」であるイエス・キリストはことばを尽くして人々に神の愛を伝えました。しかし、ヨハネ11章のラザロの墓の前のイエスはことばにできないほどの霊の憤りを覚え、動揺し、涙を流しました。私たちは「永遠」に覚醒して、ことばにできないほどのイエスの憤りと涙に共感し、平和への道の第一歩を踏み出したいと思います。(つづく)

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聖書の舞台移動と同期するイエスの旅路

2024-06-03 12:55:30 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

イエス・キリスト=聖書の神のことば(2)

~聖書の舞台移動と同期するイエスの旅路~

1.<わたし>と<聖書の神のことば>を置き換える

 昨日の記事で示したように、ヨハネの福音書には「わたしは(が)~です」(ギリシャ語でエゴー・エイミ)というイエスのことばが多く現れます。

ヨハネ6:48 「わたしはいのちのパンです。」

ヨハネ8:12 「わたしは世の光です。」

ヨハネ10:9 「わたしは門です。」

ヨハネ10:14 「わたしは良い牧者です。」

ヨハネ11:25 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

ヨハネ15:5 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」

 この「わたしは~です」の<わたし>を<聖書の神のことば>に置き換えると、とても分かりやすくなります。

ヨハネ6:48改 「聖書の神のことばはいのちのパンです。」

ヨハネ8:12 「聖書の神のことばは世の光です。」

ヨハネ10:9 「聖書の神のことばは門です。」

ヨハネ10:14 「聖書の神のことばは良い牧者です。」

ヨハネ11:25 「聖書の神のことばはよみがえりです。いのちです。聖書の神のことばを信じる者は死んでも生きるのです。」

ヨハネ14:6 「聖書の神のことばが道であり、真理であり、いのちなのです。聖書の神のことばを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

ヨハネ15:5 「聖書の神のことばはぶどうの木、あなたがたは枝です。人が聖書の神のことばにとどまり、聖書の神のことばもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」

 このこともまた、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>であることを裏付けていると言えそうです。

2.検証2:構造が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

 これまでに本ブログでは「ヨハネの福音書のイエスの旅路は旧約聖書の舞台移動と同期している」ことを繰り返し説明して来ました。本シリーズの<イエス・キリスト=聖書の神のことば>は、この【イエスの旅路と聖書の舞台移動の同期】のことも上手く説明できそうです。下図はもう何度も本ブログに掲載した図ですが、改めて簡単に説明します。

 上図で特に注目していただきたいのが、次の二点です。

A.ヨハネ4章~7章のイエスの「北→南→北→南」の移動

B.ヨハネ7章~11章のイエスの「南→東→西」の移動

 のイエスの「北→南→北→南」の動きは旧約聖書の列王記が北王国と南王国について交互に記述していることに対応しています。例えばヨハネ4章のイエスがサマリアの女に言ったことば、

ヨハネ4:7 「わたしに水を飲ませてください。」

は北王国の預言者エリヤがツァレファテのやもめに言った次のことば、

列王記第一17:10「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

に対応しています。

 そしてヨハネ6章のイエスが「大麦のパン5つと魚2匹」で5千人を満腹にした記事は北王国の預言者エリシャが「大麦のパン20個と新穀1袋」で100人を満腹にした記事(列王記第二4章42~44節)に対応しています。

 その後、ヨハネ7章~10章のイエスは南北間の移動が無く、ずっと南に留まっています。それは北王国が滅亡して人々が捕囚としてアッシリアに引かれて行ったからです。北王国が滅びたのは人々が神のことばに耳を傾けなかったためであり、このことをヨハネの福音書は6章の終盤で次のように記しています。

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 滅亡後の北王国について聖書は何も記述しておらず、神のことばも記されていませんから、聖書の神のことばであるイエスも北にはいません。

 次にのイエスの「南→東→西」の動きは「南王国の滅亡→バビロン捕囚→エルサレムへの帰還」に対応しています。ヨハネ10章のイエスはエルサレムの人々に言いました。

ヨハネ10:1 「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 これは南王国の末期にバビロン軍などの外国人の略奪隊が城壁を乗り越えてエルサレムに侵入したことに対応しています。そうしてエルサレムの人々はバビロンに捕囚として引かれて行きました。このことをヨハネ10章はイエスの「ヨルダンの川向こう」への移動、つまり東への移動で描写しています。

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

 人々がバビロンに引かれて行った後で南王国は滅亡し、数十年後に人々はエルサレムへの帰還がペルシアのキュロス王によって許されます(エズラ記1章)。この東から西への移行のことをヨハネは11章で次のように描写しています。

ヨハネ11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

 以上のように、ヨハネの福音書のイエスの旅路は旧約聖書の舞台移動に同期しています。詳しくは拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書)を参照願います。このイエスの旅路と旧約聖書の舞台の同期も、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>で説明できるでしょう。(つづく)

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イエス・キリスト=聖書の神のことば(1)

2024-06-02 15:03:29 | イエス・キリスト=聖書の神のことば

1.はじめに

 三浦しをん『舟を編む』の「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」(文庫本p.34)という言葉に出会って<辞書と聖書の類似性>に思いを巡らしたことで、ヨハネの福音書について再び書くようにと神様から背中を押されていることを感じます。

 よく知られているように、ヨハネの福音書は

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

で始まります。

 そしてレオン・モリスはヨハネの福音書1章1~18節のプロローグについて、注解書(The New International Commentary on the New Testament)で次のように書いています。

「この書の最初の18節は、福音書全体へのプロローグとなっている。(The first eighteen verses of this Gospel form a Prologue to the whole.)」

 まさに、その通りでしょう。それゆえ、この最初の18節のプロローグを深く理解するためにはヨハネの福音書の全体を知る必要があります。このプロローグを案内役として全体を読み進め、全体を読んだらまたプロローグに立ち返ることでプロローグへの理解がさらに深まり、深まったプロローグへの理解を基にすることで全体への理解もさらに深まるという好循環の「ループ構造」になっていると言っても良いでしょう。

 そのため、プロローグの1節および14節の【ことば】、すなわち、

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

の【ことば】への理解もまたヨハネの福音書全体の理解を深めることによって、より深まります。ここで【ことば】とはイエス・キリストのことです。従って、<イエス・キリスト=ことば>という観点で福音書全体を読めば、理解は格段に深まります。しかし、従来の読み方では「イエス・キリスト=ことば」がプロローグだけは意識されるものの、それ以降はほとんど意識されていないようです。

 そこで本稿では、ヨハネの福音書全体を<イエス・キリスト=ことば>を意識しながら読むことで新しい気付きが与えられることを説明します。

2.イエス・キリスト=聖書の神のことば

 では、<イエス・キリスト=ことば>とは、どういうことでしょうか?本稿のタイトルで示したように、

<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

ということではないでしょうか。本シリーズでは、このことを検証して行きます。いま考えている検証項目としては、

検証1:聖句が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証2:構造が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証3:身を隠したイエスが示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証4:執筆年代の状況が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

検証5:プロローグとエピローグが示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

を予定していますが、途中で変わるかもしれません。気合いを入れて始めたシリーズが途中で息切れして中断することが本ブログではよくあるのですが、何とか完走できたらと思います。

3.検証1:聖句が示す<イエス・キリスト=聖書の神のことば>

 ヨハネの福音書には、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>を示す聖句がたくさんあります。たとえば、次のようなイエスのことばには、それを見ることができます。

ヨハネ8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

ヨハネ12:50 「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

 イエスによる上記のことばからは、イエスが天の父と一つの存在であり、天の父が話したことばはすべて御子イエスのことばであることを暗に示しています。御子イエスはヨセフとマリアの子として地上に生まれる前は天の父と共に天上にいました。ヨハネ12:50の「わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」は、旧約聖書に記されている天の父のことばがすべて御子イエスによって話されたことばであることを示しています。なぜならヨハネ8:28にあるように御子イエスは「わたしはある」であり、「父と一つ」(ヨハネ10:30)の存在だからです。

 それゆえ、創世記1章の天地創造の時の神のことばの

創世記1:3 「光、あれ。」

6 「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」

9 「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」

などは、すべて御子イエスのことばであったことになります。そしてヨハネの福音書1章の

ヨハネ1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

も、天地創造時のことばが天の父と共にいた御子イエスから発せられたことばであることを裏付けています。

 それはすなわち、旧約聖書に記されている「神」とは、天の父と一つの存在である「御子イエス」のことでもあることを示しています。すると、ヨハネの福音書のイエスの下記のことばにも納得できます。

ヨハネ 5:39 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」

 「最後の晩餐」での下記のイエスの有名なことばも、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>を意識するなら理解がさらに深まります。

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

ヨハネ15:5 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 さらに言えば、「最後の晩餐」以前のイエスの「わたしは~です」のことば、

ヨハネ6:48 「わたしはいのちのパンです。」

ヨハネ8:12 「わたしは世の光です。」

ヨハネ10:9 「わたしは門です。」

ヨハネ10:14 「わたしは良い牧者です。」

ヨハネ11:25 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

 これらのことばへの理解もまた、<イエス・キリスト=聖書の神のことば>を意識するなら理解が深まるでしょう。(つづく)

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