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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

観音坂のはなし。

2020-05-16 18:30:07 | 歴史
 毎週土曜日の楽しみ「JIN -仁-」今日の再放送は第6話と第7話だった。ドラマの中に勝海舟や坂本龍馬が登場するのを見ながら、今から156年前、僕がいつも散歩をする観音坂を彼らが通ったことを思い出した。文久4年(1864)2月、勝海舟は坂本龍馬らを引き連れて熊本城下を訪れたことが「海舟日記」の中に記されている。海舟は幕府の全権を受け、長州攻撃を目論む米・英・仏・蘭の4ヶ国との交渉のため鶴崎から豊後街道を通って長崎へ向かう途中、熊本城下へ入った。観音坂は豊後街道の一部であり、必ずここを通ることになる。彼らはこの後、新堀御門から城内に入り、二の丸を通り抜け、新一丁目御門を通って新町の御客屋に入った。
 その4年前、万延元年(1860)10月には肥後細川藩11代の韶邦(よしくに)公が初入部しており、その様子を描いた大分県鶴崎剣八幡所蔵の行列絵図が有名だ。その中には観音坂を上る様子も描かれている。散歩しながら、歴史上の人物たちは何を見、何を思いながらこの坂を上って行ったのだろうという思いがわいてくる。


京町から内坪井へ下る急坂・観音坂


昔、上り口に観音堂があったことからその名が付いた。


万延元年十月韶邦公初御入部御行列画図・観音坂下の図(大分県鶴崎剣八幡所蔵)



大名行列の様子を唄った「肥後の殿様」

千人灯籠おどりの中止

2020-05-15 21:19:06 | イベント
 予想はしていたものの、今年の山鹿灯籠まつりの目玉、千人灯籠おどりが新型コロナウイルス感染防止のため中止されることが決定した。やむを得ないことではあるが、熊本の代表的なまつりで国内外に人気があるまつりなので残念だ。なお、町衆の奉納灯籠や神事は規模を縮小して行われるという。
 昨年、テレビ東京で放送された「Youは何しに日本へ? 2時間スペシャル」でオーストラリアのクーマからやって来た山鹿市との交換留学生たちが、インタビュアーに「ランタンフェスティバル(山鹿灯籠まつり)が楽しみ」と答え、千人灯籠おどりの風景が紹介されたが、その時使用されたのが下の映像。2011年の千人灯籠おどりの様子だ。
 山鹿灯籠まつりといえば、毎年作成される鶴田一郎さんのポスターが欠かせないが、今年はどうなるのだろう。
 右は昨年度のポスター。


一生に一度は善光寺詣り

2020-05-14 22:16:41 | 日本文化
 昨夜、BS朝日の「ザ!モノシリスト」という番組を見た。この番組は5名の出演者が自分の雑学知識をクイズ形式で出し、その後解説を加えるというバラエティ番組。昨日の話題の中で一番興味深かったのは、出演者の一人、青江覚峰というお坊さんが出した「真っ暗な状態になった時、人は最初にどんな動作をするか?」という話だ。青江さんは座頭市の例などを引きながら、人間はまず上を見上げると説明していた。人間は真っ暗な状態になるとまず光を探すのだが、光は上からさすものだとDNAに刷り込まれており、上の方に光を求めるのだという。そんな状況におかれた経験が無いのでその説が正しいのかどうかわからない。それに近い経験と言えば、番組の中でも話題になった信濃の善光寺のお戒壇巡りである。一度だけ行ったことがあるが、本来ならば死出の旅路の装束で「南無阿弥陀仏」と唱えながら巡るものらしいが、レジャーランドのお化け屋敷さながら、連れとキャーキャー言いながら巡ったような有様で、何かを悟るようなディープな体験にはほど遠かった。
 ところで熊本にもかつて善光寺があったことは今ほとんど知られていない。善光寺は仏の功徳随一ということで全国に勧請され、肥後国にも建武(14世紀)の時代に創建されていたらしい。今の熊本市中央区琴平本町にある琴平神社の所が善光寺の跡だ。琴平神社は善光寺の別所として江戸時代から存在していた。明治初期の廃仏毀釈によって善光寺は廃寺となり、琴平神社だけが残った。
 下の熊本民謡「ポンポコニャ」は江戸時代末期に作られたといわれるが、歌詞の中に「善光寺」が出て来るので、当時は広く知られた存在だったことがわかる。


信濃の善光寺


合併10年 植木町は今

2020-05-13 20:38:06 | 熊本
 熊本市北部の植木町が熊本市と合併して今年で10年。合併によって住民の皆さんの幸福度は増したのだろうか。植木文化センター前の広場に「植木町閉町」を記念する植樹がある。じっと眺めていると、市町村合併というのは、やっぱり一つの町が消えることなんだという寂しさを実感する。かつて文化センター横の芝生広場で行われ、植木町の夏の風物詩だった「はってん祭」も姿を消した。
 日本一のスイカの名産地として知られる植木町は、西南戦争最大の激戦地・田原坂、種田山頭火ゆかりの味取観音、植木温泉など、いろんな魅力に富んだ町である。
 この町を象徴する唄が民謡「田原坂」。民謡三味線の本條秀美さんは、この唄の保存会活動を進めながら、一方で、どうしても重たく暗いイメージのこの唄のほかに、「明るく楽しい田原坂のイメージを歌にしたい」という願いを込め、2011年に作られたのが「田原坂花音頭」。合併後も植木町の振興に奮闘した人々の努力は報われたのだろうか。


2011.8.7 植木町植木文化センター芝生広場の「はってん祭」で初めて披露された「田原坂花音頭」


2012.5.18 熊本城本丸御殿 春の宴
本條秀美 作詞・作曲
立方:少女舞踊団ザ・わらべ
地方:本條秀美と秀美社中・中村花誠と花と誠の会

祇園さんと疫神社

2020-05-12 20:12:44 | 日本文化
 日本国内での新型コロナウイルス感染者が3ケタに届くかどうかという3月中旬、京都の八坂神社では早くも疫病退散の祈りを込めた茅の輪くぐりが設えられた。八坂神社は、疫病よけ祈願に千年以上の歴史がある神社。御祭神であるスサノオノミコトが伊勢の地を旅した時、蘇民将来(そみんしょうらい)からもてなされたお礼に「世に疫病流行すれば、蘇民将来の子孫に茅の輪をつけておれば免れさせる」と約束した、という言い伝えがある。蘇民将来は境内の「疫神社」の祭神としてまつられており、祇園祭は、貞観11年(869)に、京都に流行した疫病退散を願って始まったもの。その祭の締めくくりとなるのが、茅の輪をくぐる「夏越祭」である。
 その八坂神社(祇園社)の御分霊を、承平四年(934)凶徒の叛乱と疫病の流行を鎮めるため肥後国に勧請したのが現在の北岡神社である。さらに寛政12年(1800)には「疫神社」も勧請している。
 北岡神社拝殿の西側に鎮座する「疫神社」も合わせて新型コロナウイルスの早期終息を祈願してみてはいかが。
(p.s.)
 現在、舞殿の再建が進められており7月中には完成予定だが、8月の祇園まつりははたして…


疫神社


北岡神社祇園まつり

アマビエ と 新作能「沖宮」

2020-05-11 19:43:26 | 世相
 NHK夕方のニュース番組「シブ5時」で「アマビエ」の話題を取り上げていた。アマビエとは江戸時代後期の肥後国の海中から現れた、疫病退散のご利益があるという伝説の妖怪のことだが、昨今のコロナ禍に際して急にクローズアップされている。アマビエを象ったお守りやいろんな商品が作られて販売されているようだ。先行き不透明な中、人々の心の支えになればいいと思う。
 このアマビエの絵を初めてみた時、僕が直感的に思い浮かべたのは「これは人身御供になった人の変異した姿ではないのか」ということだった。実際、江戸時代などには疫病退散を目的とした人身御供が行われていたことは、江戸時代後期の旅行家、菅江真澄の紀行文にも見えるし、埼玉県秩父地方にはそんな風習も残っていたと何かで読んだことがある。
 そう考えると、僕は昨年9月、熊日本社で行われた石牟礼道子さんの遺作である新作能「沖宮」上映会のことを思わずにはいられなかった。人柱となる少女あやが流されて行く後姿が目に浮かび、いたたまれない気持になった。

【新作能「沖宮」あらすじ】
 新作能「沖宮」は石牟礼の育った天草を舞台に、戦に散った天草四郎と生き残った幼い少女あや、そして、人々の死と再生の物語。
 干ばつに苦しむ村のために、雨の神である龍神への人柱として亡き天草四郎の乳兄妹であるあやが選ばれる。緋(ひ)の衣を纏ったあやは、舟に乗せられ一人沖へ流されていく。やがて稲光とともに雷鳴が轟き、あやは、天青の衣を纏い現れた天草四郎に導かれ妣(はは)なる國である“沖宮”への道行きが始まる。


雨乞いの人柱となる少女あや

がらしゃ

2020-05-10 21:14:10 | ドラマ
 大河ドラマ「麒麟がくる」は「見るともなく見る」状態で、なんとなくあらすじは理解している。
 いまだに「がらしゃ(たま)」を主役とするドラマにならなかったことを根に持つ私である。(^_^.)
 新型コロナウイルス騒動のおかげで、立田自然公園(泰勝寺跡)の休館が続いており、四つ御廟への定期的なお参りもできなくなっているが、終息のあかつきにはいつにも増してねんごろなお参りをするつもりだ。


熊本市観光ガイド「garasha」より


ガラシャが幽閉された味土野


オペラ「勇敢な婦人 細川ガラシャ」より

「JIN -仁-」の時代の蘭方医(その2)

2020-05-09 17:30:38 | 歴史
 毎週土曜日の楽しみ「JIN -仁-」の再放送を見てからパソコンを開くと、ブログにコメントが寄せられていた。実に8年前の記事「言わなきゃダメ!」へのコメントだった。それはなんと先日の記事「「JIN -仁-」の時代の蘭方医」で紹介した古城医学校で奥山静叔の薫陶を受け、後には教壇にも立った中山至謙の子孫の方からだった。実はこの「言わなきゃダメ!」の記事には6年前に、奥山静叔の子孫の方からもコメントをいただいている。なんだか150年の時が急に近く感じられるようになった。
 古城医学校におけるマンスフェルトを取りまく人々について、大阪大学名誉教授の芝哲夫氏による「北里柴三郎の生涯と適塾門下生」の中から抜粋してみた。

 オランダ人医学者マンスフェルトが明治4年(1871)に熊本に来て、古城医学校が出発します。柴三郎は親の奨めで、語学を勉強するつもりでこの学校に入りました。実はマンスフェルトは日本語が全然喋れなかったのです。ここにマンスフェルトのオランダ語を通訳し、翻訳して生徒に伝える助教が二人いました。一人は阿蘇の西の日向町出身の高橋正直で、もう一人は山鹿出身の奥山静叔でした。奥山静叔の墓 は熊本市内の池田町の往生院にあります。実はこの奥山静叔が熊本の地で西洋医学を始めた最初の人と言ってよろしいと思います。この奥山静叔と高橋正直の二人が大阪の適塾に入門していて、適塾でオランダ語を勉強してこの熊本へ帰ってきていたのです。マンスフェルトのオランダ語を通訳したのはこの二人でした。奥山静叔は大変よく出来た人で、適塾でも初期の塾頭を勤めたくらいですから緒方洪庵の信頼も厚かったと思います。柴三郎は古城医学校でこの二人にオランダ語をはじめて学びます。柴三郎は後になってドイツ語でも語学的才能を発揮するのですが、既にこの時に適塾生二人に教わったオランダ語を一年くらいで見事にマスターしてしまいました。


【熊本医学校の写真】 中央の外国人がマンスフェルト、向ってその左隣が北里柴三郎、北里の前、
右頬が隠れているのが奥山静叔、その右側、マンスフェルトの前が高橋正直、北里の左下が中山至謙

藤崎八旛宮例大祭 神幸行列の中止

2020-05-08 19:12:21 | イベント
 熊本県最大の秋の祭りである藤崎八旛宮秋季例大祭は9月13日から始まるが、20日に行われる予定だった祭り最大の呼び物「神幸行列」が新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止されることが決まった。神事は予定どおり行われるという。
 千年以上の歴史を有するこの祭りの神幸行列が中止されるのは、祭りそのものが行われなかった終戦直後以来のことだという。
 コロナウイルスが一日も早く終息し、また来年秋に盛大な神幸行列が行われることを期待しよう。




思い出のサウンド

2020-05-07 18:50:22 | 音楽芸能
 ヒマにまかせてブログの古い記事をチェックしていると、時代や自分の年齢に応じて好みの音楽が少しづつ変化して来たことがわかって面白い。今から12年ほど前、2008年頃によく聞いていた音楽のうちの代表的な曲が下の二つだ。
 竹内まりやの「元気を出して」は90年代の曲だから、当時すでに20年くらい経っていたのだが、インターネットでこの曲のPVをよく見ていて、映像に登場するみつきちゃん(高畑充希)が可愛くて繰り返し繰り返し見ていたことを思い出す。
 パフ・ジョンソンの「Forever More」もリリースから10年以上経っていたと思うが、当時ラジオでよくかかかっていた。R/Bの中では最も好きなタイプの曲でパフ・ジョンソンは第2のマライア・キャリーと期待されていたが数年前に病気で早世し残念だ。


「元気を出して」 竹内まりや

"Forever More" パフ・ジョンソン

白洲正子 & 狩野琇鵬

2020-05-06 22:37:26 | 伝統芸能
 喜多流能楽師の大島衣恵さんがご自分のFacebookで図書「白洲正子著 明恵上人」と、明恵上人が登場する能「春日龍神」を合わせて紹介しておられた。
 白洲正子の著書は僕の愛読書で、これまで「近江山河抄」「かくれ里」「老木の花」「お能の見方」などを読んだ。「明恵上人」は未読なのでぜひ読んでみたい。
 一方、能「春日龍神」は、2016年4月6日に健軍神社で行われた「花の薪能」で観たが、この8日後に熊本地震が発生、また生前の狩野琇鵬先生のお姿を拝見した最後の演能でもあり、忘れられない思い出となった。
 能「春日龍神」は、明恵上人(みようえしようにん)が仏跡を訪ねて天竺に渡ろうと、春日神社にいとまごいのために参詣すると、龍神が現れて奇瑞を見せ思いとどまらせる、というシンプルなストーリー。


2016.4.6 健軍神社「花の薪能」より喜多流能「春日龍神」前場(シテ 狩野了一さん)

外嶋宮 年紀祭の延期

2020-05-05 16:36:19 | 歴史
 今朝の熊日新聞に、5月開催予定の玉名市大浜町の外嶋宮住吉神社年紀祭が新型コロナウイルス感染拡大防止のため1年延期されたという記事が載っていた。大浜町は母のふるさとで、先日実家から祭が延期になったことは聞いていたが、実は10年ごとに行われるこの祭を僕はナマで見たことがなく、今年は僕が見ることのできる最後のチャンスと思っていただけに残念。来年こそなんとか!


▼大浜外嶋宮住吉神社年紀祭について
 延久元年(1069)後三条天皇が住吉大神の御神像をつくらせ、小舟に乗せて浪速の浦に流したところ、肥後國大浜に漂着したという。その御神像を乗せた小舟を海士頭(あまがしら)の𦿸父(たんぷ)八郎が発見、村人たちと持ち帰り、村に祀った。その後、村では大浜外嶋宮住吉神社を創建し、約一千年の間大浜町の産土神として人々の尊宗を集めてきた。この神社に伝わる年紀祭は10〜20年毎に実施され、米引き行事、御神幸行事などが盛大に行われる。江戸中後期、大坂へ肥後米を積み出す高瀬港の外港として栄えた大浜町の往時を偲ばせる。
 ところで、外嶋宮住吉神社の発端となった𦿸父八郎の子孫の方は今も大浜町に在住しておられるが、僕の会社時代の同期に大浜町の𦿸父さんがおられた。とても珍しい名前なのでよく憶えている。


メモリーズ・オブ・ゴールデンウィーク

2020-05-04 16:35:01 | 
 巣ごもり状態でゴールデンウィークも終盤。こんなに行楽とは縁のないGWは初めての経験だ。
 そこで過去7年間のGWを写真で振り返ってみた。熊本地震直後の2016年だけはさすがに大人しくしていたようだが、毎年の楽しかった思い出がよみがえってくる。


2013.5.4 代継宮の曲水の宴


2014.5.3 水前寺成趣園能楽殿の水前寺をどり


2015.5.2 水前寺成趣園古今伝授の間


2017.5.3 熊本城・城彩苑での花魁道中


2018.4.29 立田山湿性植物苑のカキツバタ


2019.5.2 熊本城・城彩苑での坪井川大園遊会

テイカカズラか 離れがたやの・・・

2020-05-03 20:46:58 | 伝統芸能
 今年もわが家近くの新坂の法面に、テイカカズラが可憐な白い花びらの上に朝方の雨露を残し、甘い香りを辺りに漂わせている。思わず「〽 テイカカズラか 離れがたやの 離れがたやの…」と、狂言小謡「七つ子」の一節が口をついて出る。
 今日も不気味なほど車も人の姿も少ない。いったいいつまで続くのやら。



   ▼人間国宝の狂言師・山本東次郎さんの狂言小舞「七つになる子」


   ▼長唄舞踊「歌舞伎踊(七つになる子)」

6年前の出来事

2020-05-02 20:38:07 | 友人・知人
 仕事に出かける息子を朝夕車で送迎するのと、たまに散歩に出るくらいで、後は家の中でゴロゴロ。ヒマでしょうがないので、過去のブログ投稿記事をチェックし始める。特に5月を見ていくと目を引いたのはちょうど6年前の今日、従姪のかずえがテレビに出ていた。
 その年の4月6日、NHKホール(東京都渋谷区)で行われた「2014 全日本きもの装いコンテスト世界大会」で、かずえが所属する必由館高校・和装文化部が学校対抗の部で見事1位の栄冠に輝いた。その活動の様子を熊本朝日放送「新発見伝くまもと」が紹介してくれたのだった。彼女たちも既に社会人になっているが、6年というのはあっという間だ。