毎週土曜日の楽しみ「JIN -仁-」の再放送を見てからパソコンを開くと、ブログにコメントが寄せられていた。実に8年前の記事「言わなきゃダメ!」へのコメントだった。それはなんと先日の記事「「JIN -仁-」の時代の蘭方医」で紹介した古城医学校で奥山静叔の薫陶を受け、後には教壇にも立った中山至謙の子孫の方からだった。実はこの「言わなきゃダメ!」の記事には6年前に、奥山静叔の子孫の方からもコメントをいただいている。なんだか150年の時が急に近く感じられるようになった。
古城医学校におけるマンスフェルトを取りまく人々について、大阪大学名誉教授の芝哲夫氏による「北里柴三郎の生涯と適塾門下生」の中から抜粋してみた。
オランダ人医学者マンスフェルトが明治4年(1871)に熊本に来て、古城医学校が出発します。柴三郎は親の奨めで、語学を勉強するつもりでこの学校に入りました。実はマンスフェルトは日本語が全然喋れなかったのです。ここにマンスフェルトのオランダ語を通訳し、翻訳して生徒に伝える助教が二人いました。一人は阿蘇の西の日向町出身の高橋正直で、もう一人は山鹿出身の奥山静叔でした。奥山静叔の墓 は熊本市内の池田町の往生院にあります。実はこの奥山静叔が熊本の地で西洋医学を始めた最初の人と言ってよろしいと思います。この奥山静叔と高橋正直の二人が大阪の適塾に入門していて、適塾でオランダ語を勉強してこの熊本へ帰ってきていたのです。マンスフェルトのオランダ語を通訳したのはこの二人でした。奥山静叔は大変よく出来た人で、適塾でも初期の塾頭を勤めたくらいですから緒方洪庵の信頼も厚かったと思います。柴三郎は古城医学校でこの二人にオランダ語をはじめて学びます。柴三郎は後になってドイツ語でも語学的才能を発揮するのですが、既にこの時に適塾生二人に教わったオランダ語を一年くらいで見事にマスターしてしまいました。
【熊本医学校の写真】 中央の外国人がマンスフェルト、向ってその左隣が北里柴三郎、北里の前、
右頬が隠れているのが奥山静叔、その右側、マンスフェルトの前が高橋正直、北里の左下が中山至謙
古城医学校におけるマンスフェルトを取りまく人々について、大阪大学名誉教授の芝哲夫氏による「北里柴三郎の生涯と適塾門下生」の中から抜粋してみた。
オランダ人医学者マンスフェルトが明治4年(1871)に熊本に来て、古城医学校が出発します。柴三郎は親の奨めで、語学を勉強するつもりでこの学校に入りました。実はマンスフェルトは日本語が全然喋れなかったのです。ここにマンスフェルトのオランダ語を通訳し、翻訳して生徒に伝える助教が二人いました。一人は阿蘇の西の日向町出身の高橋正直で、もう一人は山鹿出身の奥山静叔でした。奥山静叔の墓 は熊本市内の池田町の往生院にあります。実はこの奥山静叔が熊本の地で西洋医学を始めた最初の人と言ってよろしいと思います。この奥山静叔と高橋正直の二人が大阪の適塾に入門していて、適塾でオランダ語を勉強してこの熊本へ帰ってきていたのです。マンスフェルトのオランダ語を通訳したのはこの二人でした。奥山静叔は大変よく出来た人で、適塾でも初期の塾頭を勤めたくらいですから緒方洪庵の信頼も厚かったと思います。柴三郎は古城医学校でこの二人にオランダ語をはじめて学びます。柴三郎は後になってドイツ語でも語学的才能を発揮するのですが、既にこの時に適塾生二人に教わったオランダ語を一年くらいで見事にマスターしてしまいました。
【熊本医学校の写真】 中央の外国人がマンスフェルト、向ってその左隣が北里柴三郎、北里の前、
右頬が隠れているのが奥山静叔、その右側、マンスフェルトの前が高橋正直、北里の左下が中山至謙
恩師・奥山静叔氏の左隣で、北里柴三郎氏の左下が曾祖父の中山至謙です。この写真は親族にとって宝物です。
写真のキャプションに追記させていただきました。