徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

ジェーンズ邸の再建

2017-02-13 21:40:21 | 歴史
 熊本地震で倒壊した「ジェーンズ邸」を再建する方向であるという。水前寺成趣園の東側にある「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は、明治4年に建てられた県で最も古い西洋建築物で、もともと古城(現在の第一高敷地内)に建てられていたコロニアル式の洋館で、県の重要文化財に指定されている。また、再建に当たってはできることなら熊本城周辺に戻してもらいたものだ。
 ジェーンズ(Leroy Lancing Janes)とは明治4年、熊本藩が洋学校の開設に伴い招いた米国人教師ジェーンズのことで、ジェーンズが教鞭をとった熊本洋学校からは多くの人材が育った。このジェーンズ邸は、当時ジェーンズ一家が住んでいた家で、ベランダが張り出したコロニアル様式は、映画「風と共に去りぬ」や「大いなる西部」「ジャイアンツ」などを思い出す。また、明治10年の西南戦争をきっかけとして、この建物が日本赤十字社の発祥の地ともなった。なお、映画「ラストサムライ」でトム・クルーズが演じたオルグレン大尉のモデルは、旧幕府軍の軍事顧問だったフランス人のジュール・ブリュネといわれているが、アメリカ人に設定を変えるにあたって、ジェーンズを参考にしたと思われる。実はジェーンズはウェストポイント陸軍士官学校の出身で、南北戦争に北軍の将校として参戦し、大尉にまで昇進したという人物で、トム・クルーズが演じたオルグレン大尉と全く同じ経歴なのである。


ホワイエ薪能

2017-02-11 21:19:53 | 音楽芸能
 今夜の「ホワイエ薪能」番組は

◆喜多流 能「黒塚」
 陸奥国の安達ケ原に伝わる鬼女伝説をもとにした能。
 廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶(ワキ)とその一行は、陸奥国安達ヶ原で、老媼(前ジテ)の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老媼は自らの苦しい身の上を嘆きつつ、求められるまま糸車で糸を繰りながら糸尽くしの歌を謡う。やがて夜も更け、老媼は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。しかし、山伏に仕える能力(アイ)は、寝所の中が気になって仕方がない。山伏の諌めをふりきって、密かに部屋を脱け出し寝所を覗くが、そこには大量の死体が積み上げられていた。

◆他に金春流仕舞「嵐山」、大蔵流狂言「節分」、喜多流仕舞「八島」、観世流仕舞「松風」など


「黒塚」後ジテ:鬼女(狩野了一)

「おてもやん」と「酒田甚句」は姉妹?

2017-02-10 17:45:21 | 音楽芸能
 20年近く前、インターネットの西部劇ファンサイトでさかんに情報交換していた方が、山形県酒田市の方で、時々、酒田の情報をご紹介いただくのが楽しみだった。昨年3月、鹿本農高郷土芸能伝承部の皆さんが、宮城県名取市閖上地区で行われた東日本大震災5年の追悼イベントに参加した様子をリポートしていただいたのも、偶然、酒田市のcakeさんという方のブログ「無題・休題-ハバネロ風味-」だった。そんなわけで酒田とは妙な縁を感じる。
 数年前から端唄などに関していろいろとお教えいただいている江戸端唄の師匠・笹木美きえさんによれば、熊本県の代表的な民謡「おてもやん」と山形県酒田の民謡「酒田甚句」は、ともに明治中期のはやり歌「金来節」に由来するらしい。笹木さんが運営するサイト「江戸端唄・俗曲の試聴と紹介」の中の「金来節」のページには下のような解説がある。笹木さんの唄う「金来節」も合わせてどうぞ。

▼金来節
――囃子言葉が曲名になっている調子の良い俗曲で、明治21年頃、寄席で芝楽という落語家が唄い出してから花柳界でも流行る。熊本県民謡「おてもやん」の原曲とも言われているが定かではない。また、酒田甚句はこの曲の替唄で、囃子言葉「ハァテヤテヤ」を追加して唄われている。――






私の熊本城

2017-02-08 20:11:41 | 熊本
 昨年、NHK熊本放送局のローカル番組で、熊本城の思い出を写真とともに語る「私の熊本城」という企画があった。僕も一応投稿したのだが採用されなかった。
 採用されたのは熊本城天守閣を主体とした観光目線のものが多かったようだ。一方、僕の熊本城の思い出には天守閣がない。天守閣が再建されたのが中学3年の時で、高校時代は部活に明け暮れ、卒業と同時に上京したので、天守閣の思い出がないのである。僕にとっては、幼稚園時代に千葉城町から本丸を通り抜けて帰った通園路としての思い出が一番深いのである。


 昭和25年、櫨方(現在の加藤神社)が駐車場となっていた大型観光バスとバスガイド。観光ブームの始まり。向うに見えるは宇土櫓。当時は熊本城と言えば宇土櫓のこと。幼稚園からの帰り道は、本丸を抜けて頬当御門からこの櫨方の前を通って帰っていた。



 昭和35年頃、熊本国体に備え、バレーボールコートとなった奉行丸。テニスコートとしても使われた。



 東十八間櫓を見上げながら、厩橋際から本丸へ登るのが、毎日の幼稚園の帰り道だった。この東十八間櫓も残念ながら熊本地震で倒壊した。


老舗料亭の廃業

2017-02-07 13:30:26 | 熊本
 今朝の熊日紙に、2016年の県内企業の休廃業・解散件数が、集計を始めた2000年以降最多だったという記事が載っていた。後継者難や業績不振に加え、熊本地震の影響で事業の展望が描けなくなり、事業継続を断念する企業が多かったのではと分析している。
 僕にとって象徴的な出来事は、やはり料亭菊本さんの廃業だ。わが家の法事で使わせていただいていたこともあり、熊本地震なかりせばと残念でならない。同じく新町の新茶屋さんも廃業され、花街文化を支えていた老舗料亭が次々と姿を消して行く。
 「おてもやん」「田原坂」「ハイヤ節」「よへほ節」「ポンポコニャ」「キンキラキン」等々、熊本の俚謡・民謡はいずれも花街文化によって生れ、育てられてきた。芸どころ熊本を支えてきた料亭たちにあらためて感謝!

◆料亭菊本の華やかな歴史の1ページ


2015年12月23日 「花童あやの卒業公演」祝宴(舞踊団花童)


2009年11月9日 囃子方中村流家元・中村寿誠「伝統芸術邦楽囃子鑑賞会」祝宴(上七軒の芸舞妓)※くまもと経済誌より

2010年3月28日 「坪井川大園遊会・老舗料亭体験」(福島竹峰社中・中村花誠社中)

NHKアーカイブス 「赤ひげ」

2017-02-05 20:03:10 | テレビ
 今日、NHKアーカイブスでドラマ「赤ひげ」が放送された。1972年から始まった連続ドラマだが、今日放送されたのは1973年3月に放送された第19回「ひとり」。この回は「医師は患者にどこまで尽くすべきなのか」という医療の本質に迫る、シリーズ中の白眉の一本。この物語の原作は山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」。そしてこの回の脚本は倉本聰さんが担当。
 本放送当時も見ていたはずなのだが、44年も経った今、見直してみると、ドラマ作りが実に真面目で真正面から取り組んでいる印象が強い。最近のドラマにありがちな奇をてらう表現など一切ない。見ていて胸にスーッと入って来て実に心地よい。
 ちなみに黒澤明版の映画「赤ひげ」も見ているが、ドラマとしては一話一話を丹念に描いている分、テレビ版の方が味わいが深い。

▼原作 山本周五郎
▼脚本 倉本聰
▼出演 新出去定(赤ひげ)/小林桂樹 保本登/あおい輝彦 おせん/浜木綿子 冬吉/黒沢年男    
    森半太夫/有川博 きぬ/仁科明子 ほか


赤ひげ役の小林桂樹。もともと好きな俳優さんなのだが、映画版の三船敏郎より人間性が奥深く感じられる。


保本登役のあおい輝彦。何といっても元祖ジャニーズ。こんないい男は今のジャニーズには見当たらない。

「中村屋ファミリー初舞台スペシャル」の反響でアクセス急増!

2017-02-04 14:39:15 | テレビ
 インフルエンザで寝込んで今日で3日目。テレビ各局のワイドショーでは、中村勘九郎の長男と次男が初舞台を踏んだとか、市川海老蔵の家族が成田山新勝寺で節分会の豆まきをしたとか、歌舞伎関連の話題が多かった。夜に入るとフジ系列では中村勘九郎の中村ファミリーを取り上げたドキュメンタリー「祝!中村屋ファミリー 独占密着!泣いて笑って稽古して・・・5歳と3歳兄弟の初舞台SP」が放送された。番組を見ていると、昨夏、歌舞伎座の八月納涼歌舞伎で演じられた新作歌舞伎「廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)」も紹介していた。この芝居創作のもととなったタモリと鶴瓶が楽屋訪問する様子も映し出された。
 それを見ながら僕は「これきっと来るな!」と思った。何が来るかというと、番組を見た視聴者がネットで「山名屋浦里」を検索するはずだ。そうすると必ず僕のブログの「山名屋浦里」関連の記事がヒットするだろうと思ったわけだ。同じようなケースは過去にも何度かあった。昨年5月引退した祇園の人気舞妓まめ藤さんを取り上げた番組の後にも、僕のまめ藤さん関連記事へのアクセスが急増した。パソコンをチェックすると案の定、僕のブログでは普段ありえない凄いスピードでアクセスが増えていく。そしてその余波は今日もまだ続いている。テレビの影響の大きさをあらためて感じさせられた。


2月は着物で水前寺 ~ 水前寺成趣園きもの月間 ~

2017-02-01 20:51:48 | イベント


 2月は、毎年恒例「水前寺成趣園きもの月間」です。
 着物に関連した様々なイベントが行われます。

 着物は今日のような姿になるまで、3回の大変身を遂げているそうです。
 平安時代後期から、広袖の下に着る下着だった小袖を表着に変えたのが戦国時代のファッションリーダー、織田信長だといわれています。その小袖に何色もの糸を織り込んだりして華美なものに変えて行きました。

 江戸時代中期、第5代将軍徳川綱吉の時代になると、町人生活の奢侈を取り締まるため、金糸や鹿の子絞りなどが御法度となります。そこで登場したのが友禅染です。扇絵師の宮崎友禅は、着物を、より繊細で色鮮やかに大変身させました。

 19世紀半ば、イギリスで化学染料が発明されます。明治の初め、友禅染の名人・広瀬治助が、この化学染料を使い、試行錯誤を繰り返しながら、ついに新たな友禅染を生み出し、安価な着物が作られるようになりました。
「歴史秘話ヒストリア ~きもの 千年のトキメキ~」(NHK総合)より

        
 下のプログラムをご覧いただき、ぜひ、お誘いあわせの上、水前寺成趣園へ足をお運びください。

※クリック拡大してご覧ください