徒然なか話

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今日はなんの日? お国が江戸城で踊った日

2017-02-20 18:19:33 | 音楽芸能
 歌舞伎は、慶長8年(1603)、京の都で、出雲出身の国と名のる女芸能者による「かぶき踊り」がその始まりとされています。大衆の熱狂的な支持を得た「お国かぶき」は、4年後の慶長12年(1607)の2月20日、ついに江戸に招かれ、江戸城本丸・西の丸にある能舞台で興業を行ないます。能舞台では、その1週間前から観世・金春の勧進能が行なわれていましたが、お国は能の太夫たちと同等の待遇を受けたと伝えられています。これが江戸歌舞伎の始まりで、その後、お国の模倣者たちが続々と江戸へ下りました。


お国の「念仏踊り」の様子。黒塗笠を被り、千早を身にまとい、手に鉦を持つ(國女歌舞伎絵詞より)
「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。」
「はかなしや 鈎にかけても何かせん 心にかけよ彌陀の名号 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。」

 お国が江戸城で踊ってから17年後の寛永元年(1624)2月15日、山城から江戸へ出た猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中橋に猿若座(後の中村座)を開設。江戸歌舞伎が本格的に始まりました。
 上の「お国かぶき」と下の「猿若狂言」の絵には大きな違いがあります。それは地方の三味線です。「お国かぶき」にはまだ三味線が使われていません。室町時代の終わり頃には、中国から琉球を経て日本に三味線が入っていましたが、日本人向けに改良が加えられている時代で、庶民に普及するまでには至っていませんでした。しかし、「猿若狂言」の時代になると三味線は歌舞伎音楽の主役に躍り出ます。今日では歌舞伎に三味線は欠かせません。
 それからわずか5年後の寛永6年(1629年)、江戸幕府は女歌舞伎を「風紀上よろしくない」との理由で御法度にしてしまいました。


猿若狂言之古図(江戸名所図会より)