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坪井川歴史ロマン

2018-01-22 21:09:42 | 熊本
 城下町熊本を象徴する川、坪井川。幼い頃から慣れ親しんだ川の姿は大きく変容したが、今でも「母なる川」であることに変わりはない。
 その坪井川を河口から遡りながら、主な船着場の歴史を振り返ってみた。

▼百貫港

 百貫港は、熊本市の都心部より西方約10kmの坪井川河口にあり、歴史は古く加藤清正が入国後築いたといわれ、細川藩時代から明治の初め(三角西港が開港するまで)にかけては、熊本の外港として賑わっていた。また、大正5年から昭和19年までは熊本市田崎町から同港まで電車が走り、鮮魚介・木材雑貨、その他の交易上の重要な港となっていた。

▼高橋

 古くから高橋の津と呼ばれた港町であり、加藤清正が入国してから本格的な河口港として整備された。加藤氏の後に入国した細川忠利は肥後五ヶ町制度を設け、高橋をその一つとした。高橋は城下と海路を結ぶ河口港として、城下の日用消費物資の大半を積み降ろし発展した。高橋港は島原、筑後、柳川、天草、八代、芦北などや大坂、鹿児島、長崎からも荷船が入った。貨物の主なものは天草、芦北の薪炭、天草の海産物、鹿児島の泡盛、焼酎、砂糖、三池の石炭、長崎の舶来品、その他陶磁器、瓦、石灰、塩などで、熊本から肥後米、雑穀などが移出された。町には問屋が軒を並べて繁栄し、これらの貨物は、高橋平田船で坪井川を上り下りした。港は明治以降、鉄道の開通で舟運の時代が終わり、急速に衰えた。

▼船場

 この一帯は古くは湿地だったが、加藤清正は坪井川を付け替える時、この湿地帯を利用して水路とし、両側に船着場を設けて高橋港から舟が上がれるようにした。船場の名の由来である。大正の初めまでここには高橋舟が上り、さまざまな物資が運ばれ、城下町の需要を満たし、新町や古町の繁栄をもたらした。

▼厩橋

 加藤清正が熊本城を築城する頃まで、白川が大蛇行しており、今の長塀前の辺りを白川が流れていた。清正はこの河運を利用して、築城に必要な石材、木材ほか必要な物資を運んだといわれる。その後、白川を直線化して坪井川と分離し、坪井川は城下町物流の大動脈となった。厩橋から竹の丸辺りにかけては船着場や船溜まりが造られた。

▼新堀

 明治7年に錦山神社(加藤神社)が城内から新堀に遷座し、下を流れる坪井川の船着場には、天草、島原を始め九州各地から錦山神社の参拝客が次々と港付けし、錦坂を登ったのである。そして、京町の本通りには公許の遊郭が出来、西南戦争が起きる明治10年までのわずか3年余の間、京町・新堀は港町、門前町、商業の町、そして遊郭の町として栄えたのである。

▼舟場

 坪井川を高橋の津から上る舟の終着場であった名残りの舟場。かつては坪井川の支流が奥まで入り込み、帆をたたんだ三十俵積みの平田舟が、竿さしながら荷を運んだ。今では支流も姿を消し、沼沢地が広がっており、バス停名にのみ名残りを残す。

※参考文献 熊本県大百科事典(熊日新聞社)、ふるさと―史跡と風土をたずねて(熊本県文化協会)


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