
「立田山のはなし。」
「たつた」の由来は、平安時代の寛和2年(986年)79歳の清原元輔(清少納言の父)が肥後国司として赴任したとき、濃い緑に覆われ「黒髪山」と呼ばれていた山を見て、ふるさと大和の龍田山をしのんで「龍田山」と名を改めたと伝えられる。それがなぜ「立田山」となったのか。著名な歌人でもあった元輔が、大和国の歌枕である「龍田山」が掛詞となった次のような歌を思い浮かべたからかもしれない。
風吹けばおきつしら浪立田山夜半にや君がひとりこゆらん(よみ人知らず)
この歌は伊勢物語の二十三段「筒井筒」「古今和歌集」「大和物語」などに収録されている歌だが、元輔が肥後守として赴任した時にはすでに「伊勢物語」「古今和歌集」「大和物語」いずれも成立しているので、当然知っていたと考えられる。
また、万葉集に収められた次の歌なども思い浮かべたかもしれない。
海の底沖つ白波立田山いつか越えなむ妹があたり見む(長田王:をさだのおほきみ)
いずれも、「風吹けばおきつしら浪」や「海の底沖つ白波」が序詞となり、「立田山」が掛詞となっている。肥後の「黒髪山」が「龍田山」となり、「立田山」と表記されるようになったのは歌人元輔の想いが込められているのかもしれない。
旧字の「龍」とくずし字の「竜」は旧大和国(奈良県)でもあまりこだわらずに併用されているようで、熊本も同様であり、違いを気にするほどのことではないと思われる。ちなみに奈良県では「たつた」、熊本県では「たつだ」と読むのが一般的なようだ。
※右の絵は秋の女神「竜田姫」
>古い地名というのは音が先にあって、後の世の人々が適当に漢字を当てている場合が多い
勉強したわけではないですが、そのような雰囲気はあちこちで目にしますね。
地名の表記文字がいくつも変わっていくような記述を・・・。
テーマからは外れますが、平安時代の79歳の清原元輔も驚異的な気がしますがウイキペディアによると82歳まで生きたような、これまたおったまげます(笑)
現代医学の元でお金に不自由していない有名人でもどんどん亡くなっていくというのに。
元輔が肥後守として赴任しただけでも現代的にいうなら左遷だと思いますが、「伊勢物語」「古今和歌集」「大和物語」を知っていたとすれば大変な文化の発達に思えます。
印刷技術(書き写しでしょうか?)、流通文化も含めて・・・。
勅撰和歌集撰集の命により、元輔は撰和歌所寄人に任ぜられ、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓読作業や『後撰和歌集』の編纂に当たったともありますね。
これは、きっと肥後守として赴任の前でしょう。
>肥後の「黒髪山」が「龍田山」となり、「立田山」と表記されるようになったのは歌人元輔の想いが込められているのかもしれない。
ひぇー!ですね(汗)
まるで歴史家ほかが集って談義する、「英雄たちの選択」並みな気がしてきました。
>奈良県では「たつた」、熊本県では「たつだ」
ですか!
私の昨日の朝歩きでは、ため池の干された所を歩いている人がいたので、言葉に戸惑いつつ「『いぼり』ませんでしたか?」と尋ねたら、質問の意味は通じたようでしたが即、歩きながら、『いぼる』と検索しましたら博多弁と出てきました。(「いぼる」は「はまる、埋まる」ことぬかるみに足を取られた時などに使います)
帰宅して生粋の関西人の家内で尋ねると、はじめて聞く言葉だと言われました。
クダクダとピントの外れたコメントですみません。
有難うございました。
平安時代中期に80歳前後で現役というのは凄いですね!
肥後国は延喜式では九州唯一の大国で、全国で14しかない大国の国司をめぐって貴族たちが競っていたらしいので、左遷というわけではないようです。
清原元輔は当時はトップクラスの文化人だったのでしょうから、地名の変更など彼のひと声で「ハハーッ!」てな感じだったのでしょうね!(^^)!
「いぼる」ってブラタモリのどこかの回でタモリさんが言ってませんでしたか?