徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

千葉城のはなし。

2021-05-03 21:49:15 | 熊本
 僕が5、6歳の時通った熊大附属幼稚園は戦前、千葉城幼稚園という名前だった時代があり、年配者は千葉城幼稚園と呼ぶ人が多かった。住所は城東町だったが、千葉城町だった時代があったのだろう。この幼稚園に永年勤務した母は、務めて間もない頃、幼稚園の裏側に旧坪井川の流れがあったことを憶えているという。町名が変わったのは坪井川の流路が変更されたことと関係があるのかもしれない。僕が通っていた頃の幼稚園の前の通りはまだ舗装もされておらず、荷馬車がよく通るのでよく馬糞が落ちていた。それがまた当時の子供たちの笑いのタネだった。その頃はまだ千葉城にNHK熊本局はなかった。NHKは熊本市役所裏の城見町にあり、童謡番組の生放送に行ったことがある。童謡「木の芽草の芽」を歌ったが、スタジオの緊張感がすごかったことを憶えている。NHKが千葉城に移ってきたのは僕が高校3年になった昭和38年のことだった。その後、僕は熊本を離れたが、定年退職して熊本に帰ってからも千葉城の下を通ることは多かった。千葉城は毎春、つつじの季節には斜面がつつじで覆われ、NHKで行われる「つつじ祭り」はよく見に行ったものだ。そういえば、NHK熊本局に初任配置された池田伸子アナや近江友里恵アナ(3月末退職)らが千葉城へ出退勤される姿を見かけたこともあった。NHKが去った跡は観光関連施設が予定されているようだが、またつつじの季節に千葉城に登ることができるようになればいいなと思っている。

▼千葉城について(千葉城登り口の案内板などを参考に)
 千葉城は、室町時代、菊池氏の一族である出田秀信が茶臼山東の小高い丘の上に城を築いたところで、茶臼山周辺では最も古い城跡。加藤清正によって熊本城が築城される120年ほど前のことである。
 肥後細川藩初代忠利公の時代には客分として迎えられた宮本武蔵の屋敷が丘のすそにあったが、その場所は昭和初期、坪井川の直線化によって河道となった。
 千葉城の名の由来は、下を流れる坪井川の船場があったことから「船場(せんば)」が「千葉(せんば)」そして読みも「ちば」に変化したという説を始め諸説あり、よくわからないようだ。


長年親しまれた千葉城のNHK熊本放送局は姿を消した。(千葉城橋の交差点より)


熊大附属幼稚園前の大通り



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