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「JIN -仁-」の時代の蘭方医(特別編)

2024-06-29 21:27:00 | 歴史
 破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎をデザインした新千円札の発行が4日後に迫った。そこであらためて4年前のブログ記事「JIN -仁- の時代の蘭方医(その2)」を読み直してみた。これは大阪大学名誉教授の芝哲夫氏が著した文章「北里柴三郎の生涯と適塾門下生」の中から抜粋したものである。

—―オランダ人医学者マンスフェルトが明治4年(1871)に熊本に来て、古城医学校が出発します。柴三郎は親の奨めで、語学を勉強するつもりでこの学校に入りました。実はマンスフェルトは日本語が全然喋れなかったのです。ここにマンスフェルトのオランダ語を通訳し、翻訳して生徒に伝える助教が二人いました。一人は阿蘇の西の日向町出身の高橋正直で、もう一人は山鹿出身の奥山静叔でした。奥山静叔の墓 は熊本市内の池田町の往生院にあります。実はこの奥山静叔が熊本の地で西洋医学を始めた最初の人と言ってよろしいと思います。この奥山静叔と高橋正直の二人が大阪の適塾に入門していて、適塾でオランダ語を勉強してこの熊本へ帰ってきていたのです。マンスフェルトのオランダ語を通訳したのはこの二人でした。奥山静叔は大変よく出来た人で、適塾でも初期の塾頭を勤めたくらいですから緒方洪庵の信頼も厚かったと思います。柴三郎は古城医学校でこの二人にオランダ語をはじめて学びます。柴三郎は後になってドイツ語でも語学的才能を発揮するのですが、既にこの時に適塾生二人に教わったオランダ語を一年くらいで見事にマスターしてしまいました。――


【熊本医学校の写真】中央の外国人がマンスフェルト、向ってその左隣が北里柴三郎、北里の前、
右頬が隠れているのが奥山静叔、その右側、マンスフェルトの前が高橋正直、北里の左下が中山至謙



適塾の塾頭を務めた奥山静叔の墓(熊本市西区池田・往生院)

 折しも、動画配信サービスの「Tver」でTBSドラマ「JIN -仁-」が期間限定無料配信されており、奥山静叔らが学んだ適塾もドラマの舞台の一つとなっている。


TBSドラマ「JIN -仁-」



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2 コメント

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Unknown (小父さん)
2024-06-29 21:52:51
>この奥山静叔と高橋正直の二人が大阪の適塾に入門していて、適塾でオランダ語を勉強してこの熊本へ帰ってきていたのです。

へ~っ、そんな時代にオランダ語を学び、よく通訳まで出来たものですね。

信長み家康のテレビでよく外国人から学ぶシーンが出てきますが、いつも思うのが、よく通訳が出来る人間がいたものだと、不思議に思っています。

>明治4年(1871)に熊本に来て、古城医学校が出発します。

学ぶ若者たちの方も、余程に意欲があったんでしょうね。

マンスフェルトさんは叱ることも不自由しなかったんですかね?(笑)

有難うございました。
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Re:小父さん様 (FUSA)
2024-06-30 06:31:45
幕末ともなればオランダとの交易の歴史は長いので何かツール(辞書のような)があったのかもしれませんね。

おっしゃるように16世紀の織豊時代はどうやって通訳していたのだろうと不思議ですね。ひょっとしたら何もツールがないほうが人間は、相手の言葉の意味を読み取る能力が研ぎすまされるのかもしれません。

おそらく明治維新前後の若者は今とは比べものにならないくらい志が高かったのではないかと思います。
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