今年の山鹿灯籠まつりもいよいよ来週に迫った。久しぶりに見に行こうと思っていたのだが、白内障の術後1ヶ月ほどは人混みを避けるようにとの医師の指示で残念ながら断念することにした。
さて、この祭りが全国区の祭りとなり、今日の隆盛を見るに至った裏に、「影のプロデューサー」の存在があったことはあまり知られていない。その人の名は「木村祐章(きむらゆうしょう)」。戦後昭和に民俗学研究家として、また放送作家として活躍した人である。
木村は、山鹿灯籠祭りを民俗学的な側面から、単に灯籠奉納行事としてだけでなく、盆踊りの一形式としてプロデュースし復活させる役割を果した。また、NHK番組等を通じた山鹿灯籠踊りの全国への宣伝でも与って力があった。
大正8年、山鹿の商家に生まれた木村は、昭和12年に鹿本中学を卒業後、東京の國學院大学に進んだ。ここで日本民俗学の巨人であり、歌人でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)との運命的な出会いがあった。折口を顧問とする「青衿派」(せいきんは)の同人となり、その編集にも携わり、終生折口を師と仰いだ。戦後、東京へ出ることを夢見ていたが、師折口の指示に従い、故郷山鹿に住みついて民俗学の研究に励んだ。昭和27年からはNHKの契約作家としてラジオ放送の脚本も書き始め、昭和40年、45歳の若さで世を去るまで民話の発掘、民俗芸能や民謡の振興、地元放送業界の発展等、熊本の地方文化に貢献した。
僕が木村祐章のことを知ったのは、12年前に少女舞踊団ザ・わらべが踊る「愛の南十字星」を初めて見て、この曲の原作が昭和38年6月にNHK第2「ラジオ小劇場」で全国放送されたドラマ「ぬれわらじ」であることを知った時である。木村が書いたこのドラマは「からゆきさん」を題材にしている。実はちょうどその頃、僕の父が書き遺した備忘録の中に上天草の「からゆきさん」の話があり、いろいろ資料を調べたりしていた。なんとかこのドラマの脚本を見たいと探したが見つからず、ダメもとで問い合わせた山鹿市教育委員会から、元山鹿市立博物館館長でもあるご子息木村理郎氏を紹介していただき、理郎氏にお願いして埋もれていた脚本を探し出していただいた。そんなご縁もあって理郎氏の著書を通じて山鹿灯籠まつりの歴史や灯籠踊りの起源などについて知ることとなった。
▼ラジオドラマ「ぬれわらじ」より「愛の南十字星」
原作:木村祐章 作曲:今藤珠美 作調:藤舎千穂 舞踊:舞踊団花童/花喜楽
さて、この祭りが全国区の祭りとなり、今日の隆盛を見るに至った裏に、「影のプロデューサー」の存在があったことはあまり知られていない。その人の名は「木村祐章(きむらゆうしょう)」。戦後昭和に民俗学研究家として、また放送作家として活躍した人である。
木村は、山鹿灯籠祭りを民俗学的な側面から、単に灯籠奉納行事としてだけでなく、盆踊りの一形式としてプロデュースし復活させる役割を果した。また、NHK番組等を通じた山鹿灯籠踊りの全国への宣伝でも与って力があった。
大正8年、山鹿の商家に生まれた木村は、昭和12年に鹿本中学を卒業後、東京の國學院大学に進んだ。ここで日本民俗学の巨人であり、歌人でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)との運命的な出会いがあった。折口を顧問とする「青衿派」(せいきんは)の同人となり、その編集にも携わり、終生折口を師と仰いだ。戦後、東京へ出ることを夢見ていたが、師折口の指示に従い、故郷山鹿に住みついて民俗学の研究に励んだ。昭和27年からはNHKの契約作家としてラジオ放送の脚本も書き始め、昭和40年、45歳の若さで世を去るまで民話の発掘、民俗芸能や民謡の振興、地元放送業界の発展等、熊本の地方文化に貢献した。
僕が木村祐章のことを知ったのは、12年前に少女舞踊団ザ・わらべが踊る「愛の南十字星」を初めて見て、この曲の原作が昭和38年6月にNHK第2「ラジオ小劇場」で全国放送されたドラマ「ぬれわらじ」であることを知った時である。木村が書いたこのドラマは「からゆきさん」を題材にしている。実はちょうどその頃、僕の父が書き遺した備忘録の中に上天草の「からゆきさん」の話があり、いろいろ資料を調べたりしていた。なんとかこのドラマの脚本を見たいと探したが見つからず、ダメもとで問い合わせた山鹿市教育委員会から、元山鹿市立博物館館長でもあるご子息木村理郎氏を紹介していただき、理郎氏にお願いして埋もれていた脚本を探し出していただいた。そんなご縁もあって理郎氏の著書を通じて山鹿灯籠まつりの歴史や灯籠踊りの起源などについて知ることとなった。
▼ラジオドラマ「ぬれわらじ」より「愛の南十字星」
原作:木村祐章 作曲:今藤珠美 作調:藤舎千穂 舞踊:舞踊団花童/花喜楽
先ごろはご心配かけましたね。ヘルニアの手術から一か月以上経ち、自在に歩けるしあわせを感じています。
それは残念なことですね。
片目でしたかね?私は両眼一度にやったのでしばらくは何もできませんでした。
>・・・「影のプロデューサー」の存在があったことはあまり知られていない。その人の名は「木村祐章(きむらゆうしょう)」。戦後昭和に民俗学研究家として、また放送作家として活躍した人である。
そうでしたか。
>師折口の指示に従い、故郷山鹿に住みついて民俗学の研究に励んだ。
そのような師がいて打ち込むことが出来たことは羨ましくもありますね。
>昭和40年、45歳の若さで世を去るまで民話の発掘、民俗芸能や民謡の振興、地元放送業界の発展等、熊本の地方文化に貢献した。
うわっ、息子の1歳上の年でとことん燃え尽きとは素晴らしくもあり残念なことでしたね。
すみませんふと、天才たちをググったら、三島由紀夫(45歳)、太宰治(38歳)、芥川龍之介(35歳没)でした。
私みたいに何もしないでどんどん歳をとるものもいれば、若くして名を残した先人たちもたくさん居るんですね。
話がそれました。
>12年前に少女舞踊団ザ・わらべが踊る「愛の南十字星」を初めて見て、この曲の原作が昭和38年6月にNHK第2「ラジオ小劇場」で全国放送されたドラマ「ぬれわらじ」であることを知った時である。
いいですね~。
>ダメもとで問い合わせた山鹿市教育委員会から、元山鹿市立博物館館長でもあるご子息木村理郎氏を紹介していただき、理郎氏にお願いして埋もれていた脚本を探し出していただいた。
うわっ、FUSAさんは多方面をとことん探求されるのですね。
いや、ブログに書かれるだけではもったいない気がします。
動画を拝見しました。
いやいや、何か新しい書物にでも接した気分になりました。
有難うございました。
ヘルニアの手術から順調に快復されているようで何よりです。まだしばらくは猛暑が続きそうですのでくれぐれもご自愛ください。
木村祐章は結局45歳までしか生きられなかったわけですが、師折口の指示に従ったからこそ様々な業績を残せたような気がします。
偉人たちの短い生涯を考えますと、いかに自分が馬齢を重ねているかといやになります。(笑)
「ぬれわらじ」が放送されて10年後に山崎朋子のノンフィクション「サンダカン八番娼館」が発表されるわけです。
私は若い頃から結構アポなし突撃みたいなことをやるクセみたいなものがありました(笑)