徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

新堀鳥町入口

2021-10-28 21:13:38 | 歴史
 夕方、二の丸広場周辺を散歩しての帰り道、裏京町への入り口に差し掛かると、学生と思しき女子の一団と一緒になった。彼女らは観音坂の方からやって来たので、おそらく壺溪塾(進学予備校)の生徒たちだろうと思いながら少し後ろから歩いていくと、案の定、壺溪塾の寮の中に入って行った。親元を離れて寮生活をしながら受験勉強をしている女子も案外多いんだなと思った。
 それはさておき、ちょうど彼女らと出会った地点はかつて「新堀鳥町入口」と呼ばれたところで、大分県鶴崎の剣八幡宮が所蔵する万延元年(1860)10月の肥後細川家十三代当主細川韶邦(ほそかわよしくに)公の初御入部を描いた「御入国御行列之図」の中には「新堀鳥町入口」に差し掛かった様子が描かれている。古い文献には、京町本通り(旧国道3号線・豊前街道)のひとつ西側の平行した通りを「鳥町」と呼んでいたことが書かれている。そして、「新堀鳥町入口」では藤崎宮や祇園宮の神職らの出迎えを受けるのが恒例となっていたようだ。
 明治に入った一時期、この辺りは花街となって栄えたが、西南戦争で焼失してしまった。父の教員仲間だったI先生がまだ熊本師範の学生だった昭和10年に、町の長老たちの話などをまとめた「京町の研究」レポートが残っている。それによれば、明治以降、国道として重要な交通路となった京町本通りは素通りするようになり、また、上熊本駅から京町台へ登らずとも熊本市中心部へ行ける道ができたので、京町は衰退し始めた。一方、裏京町は、京町台西側に居住者が多かったこともあって多くの商店ができた。昭和10年の調査時点での店舗数は京町本通りの12に対し、裏京町は38と、実に3倍以上の数となっている。今ではその裏京町もすっかり寂れてしまい、かつての繁栄の面影は見出せない。その裏京町の一角に鳥町があったことを今では知る人もいない。


前方右側が鳥町入口


細川公の御行列が新堀鳥町入口に差し掛かる。御銀櫃を担いだ山鹿屋の人足たち。


新堀鳥町入口では藤崎宮や祇園宮の神職らの出迎えを受けるのが恒例だったようだ。