徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

考古学講座の現地学習に参加

2021-10-08 17:31:35 | 歴史
 先般、熊本県伝統工芸館の裏にかつてあったという坪井川船着場について、熊本博物館学芸員の中原幹彦先生におたずねしたところ、考古学講座のメンバーで現地調査をやるので参加しませんかとお誘いを受けた。
 その現地調査が今日行われたので参加させていただいた。
 僕自身が興味があったポイントは次の3点。

 1.伝統工芸館裏の石積みの目的とその時代。
 2.古文書に残る殿様の緊急脱出ルートは?「あずき坂」とは?
 3.周辺の地形概要の理解

 中原先生が持参された江戸時代の古地図を参照しながら現地を歩いて回った。ただ、川へ降りる斜面は草木が生い茂り危険でもあるので、先生だけが降りられたが、川にはコンクリートの護岸が施されており、旧船着場の痕跡は見いだせなかったようだ。
 ポイント1の石積みは、積まれた石の状態、特に削岩機の痕があることなどから、明治以降に斜面崩壊を防止するために積まれたようだとの先生の見解だった。
 ポイント2については、不開門から最短距離で船着場へ達するルートがあったと考えられ、現在の伝統工芸館と隣の国税局分室の敷地との間に通路があった痕跡がある。そこを通って斜面をななめに降りて行く坂道があったのではないかと推測される。古文書に見える「あずき坂」というのはその坂のことかもしれないとの見解だった。
 これは僕の個人的な推測だが、大工棟梁・善蔵が語った「あずき坂」というのは江戸初期の話であって、江戸後期の「あずき坂」とは違うのかもしれない。いずれも「あずき谷」へ下る坂なのでそう呼ばれたとも考えられる。
 ポイント3については今回見て回って、おおよその地形が頭に入った。できれば草木が枯れる冬場にもう一度現地を確認して立体的な絵図に起こすことができればと思う。


江戸時代の古地図を参照しながら赤の範囲を調査。


石に残された矢穴のサイズも貴重な判断材料。


石の積み方はもちろん、石の種類や面取り具合などを見て時代を推定する。


削岩機の痕を確認し、明治以降の石積みと判断。


かつては道があったことをうかがわせる狭隘な敷地間。


かつて船着場に向かって斜面をななめに降りる坂があったと推測される。