ブラタモリ熊本編は、加藤清正公による熊本城築城の話が前半の主要な部分になるようだ。
そこで、以前、「津々堂のたわごと日録」さんが紹介された「大工善蔵より聞覚控」という古文書の一部を、僕なりに現代文に訳した文章を再掲してみた。
大工善蔵とは熊本城築城に携わった高瀬(現玉名市)の大工棟梁・善蔵(ぜんぞう)のことで、玉名地方のかなりキツイ方言で語った思い出話を彼の息子が記録したものと伝えられる。加藤清正公の傍で築城に関わった者しか知り得ない話はとても興味深い。
▼「大工善蔵より聞覚控」より
清正公は初め、築城候補地として杉島(加勢川と緑川に挟まれた中洲)に目をつけられた。しかし、そこは摂津守(小西行長)の領地とあって残念ながら取りやめられた。私はその頃からお供をして回ったが、結局最後の場所が茶臼山だった。お城が建つとなれば当然、町も合わせて創らなければならないので、さてお城の建て方の吟味ということになった。そうなると築城の考え方が重要。安土と大坂などのお城の組み合わせの見積もりをしなくてはならない。清正公から申し付けられたので、私の父を連れて各地の視察に出立した。
高麗の御陣(文禄・慶長の役)の時には随分と苦しい目に遭ったけれど、この、よそのお城をいくつも見て回った時も並大抵の苦労ではなかった。図引き(設計)は父がすることになったが、熊本へ戻ってからいよいよ茶臼山の図引きということになった時、岩野の御武家・宗久隆様がこの役に就かれた。
町は下津棒庵様が図引きの役、お城の図引きが出来上がった後に、それを清正公が飯田覚兵衛様、森本儀太夫様たちと知恵を出し合いながら長い議論をされたことを憶えている。お城が茶臼山手に決まってから、まず山の地ならしである。これが大事で、その次に材木と石の詮議。これはとても骨が折れた。この他、瓦焼きは江戸より下された飯田山の下で焼かせられた。材木は阿蘇、菊池、茶臼山周辺、権現山などから切り出しになり、石は六甲山、祇園山、岡見岳、津浦あたりからも取り寄せられた。木馬道から木と石を運んだが、車があったからこそ出来たのである。男山と女山の境目を断ち切って元の地形から茶臼山を引き直された大仕掛けは初めの城(隈本城)より壮大な普請であった。
栗石の細かいものや大きな裏石などを入れ込む時には、天気の具合と潮時を御殿様はようく見ておった。水呑場台やら角石などの置き方と縄張りの時、やり方がまずいと何べんも何べんも据え方をやり直したり、また自分で手を下しておられた。今時の人の出来る事じゃじゃない。あの御殿様は凡人じゃなかった。珍しいお慈悲の深いお方で、あの御殿様のことなら骨身を惜しまずに働く気になったものだ。御国におられる時は梅雨から盆過ぎ頃まで白川・球磨川・菊池川などへ折々お馬やお徒ちで見廻りになっておられたが、清正公の後を継いだ忠広公の時代になると家来衆の中に邪な人がいたのでお見廻りなさることは少なかった。水縄お引きの時とワンドをお敷きの時は自ら縄を引き召されて、ご家来衆も感じ入るばかりのお見測りには、お供していた自分たちも驚くことが多かったものだ。
そこで、以前、「津々堂のたわごと日録」さんが紹介された「大工善蔵より聞覚控」という古文書の一部を、僕なりに現代文に訳した文章を再掲してみた。
大工善蔵とは熊本城築城に携わった高瀬(現玉名市)の大工棟梁・善蔵(ぜんぞう)のことで、玉名地方のかなりキツイ方言で語った思い出話を彼の息子が記録したものと伝えられる。加藤清正公の傍で築城に関わった者しか知り得ない話はとても興味深い。
▼「大工善蔵より聞覚控」より
清正公は初め、築城候補地として杉島(加勢川と緑川に挟まれた中洲)に目をつけられた。しかし、そこは摂津守(小西行長)の領地とあって残念ながら取りやめられた。私はその頃からお供をして回ったが、結局最後の場所が茶臼山だった。お城が建つとなれば当然、町も合わせて創らなければならないので、さてお城の建て方の吟味ということになった。そうなると築城の考え方が重要。安土と大坂などのお城の組み合わせの見積もりをしなくてはならない。清正公から申し付けられたので、私の父を連れて各地の視察に出立した。
高麗の御陣(文禄・慶長の役)の時には随分と苦しい目に遭ったけれど、この、よそのお城をいくつも見て回った時も並大抵の苦労ではなかった。図引き(設計)は父がすることになったが、熊本へ戻ってからいよいよ茶臼山の図引きということになった時、岩野の御武家・宗久隆様がこの役に就かれた。
町は下津棒庵様が図引きの役、お城の図引きが出来上がった後に、それを清正公が飯田覚兵衛様、森本儀太夫様たちと知恵を出し合いながら長い議論をされたことを憶えている。お城が茶臼山手に決まってから、まず山の地ならしである。これが大事で、その次に材木と石の詮議。これはとても骨が折れた。この他、瓦焼きは江戸より下された飯田山の下で焼かせられた。材木は阿蘇、菊池、茶臼山周辺、権現山などから切り出しになり、石は六甲山、祇園山、岡見岳、津浦あたりからも取り寄せられた。木馬道から木と石を運んだが、車があったからこそ出来たのである。男山と女山の境目を断ち切って元の地形から茶臼山を引き直された大仕掛けは初めの城(隈本城)より壮大な普請であった。
栗石の細かいものや大きな裏石などを入れ込む時には、天気の具合と潮時を御殿様はようく見ておった。水呑場台やら角石などの置き方と縄張りの時、やり方がまずいと何べんも何べんも据え方をやり直したり、また自分で手を下しておられた。今時の人の出来る事じゃじゃない。あの御殿様は凡人じゃなかった。珍しいお慈悲の深いお方で、あの御殿様のことなら骨身を惜しまずに働く気になったものだ。御国におられる時は梅雨から盆過ぎ頃まで白川・球磨川・菊池川などへ折々お馬やお徒ちで見廻りになっておられたが、清正公の後を継いだ忠広公の時代になると家来衆の中に邪な人がいたのでお見廻りなさることは少なかった。水縄お引きの時とワンドをお敷きの時は自ら縄を引き召されて、ご家来衆も感じ入るばかりのお見測りには、お供していた自分たちも驚くことが多かったものだ。