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熊本城は “やりすぎ城” !?

2016-03-07 19:25:11 | 歴史
 昭和10年(1935)に国内外から約106万人(当時の熊本市人口の5倍)を集めた「新興熊本大博覧会」が水前寺公園北郊で開催されてから今年で81年。博覧会の公式ガイドブック「くまもと」にも、熊本市最大の観光地として熊本城が紹介されている。文章を読むと、いかにも戦前という時代がかった表現もあるが、3月19日(土)に放送される「ブラタモリ 熊本編」では、81年の時の流れを経て説明がどう変わったのか、あるいは変わらないのか、それも見どころの一つである。

▼熊本城の特質(昭和10年博覧会ガイドブックより)
 熊本城が天下の名城として推称されるのは無論、雄大豪壮の築城によるところ言うまでもないが、城内の一木一石、一塊の土にいたるまで加藤清正の霊がこもっていることである。
 城の特質として、何よりも一番目につくのは幾重畳とも知れぬ巨大なる石垣の要害である。春風秋雨三百三十有余年、数度の大地震、猛き風雨にも微動だにせず、盤石の固きを保っている。殊に城の西南方には、花岡山、段山、藤崎台などの丘陵が連なっているので、同方面の防御策として坪井川、井芹川の合流点の付近に、多くの寺院を集め、「いざ合戦」という場合には、この寺の墓石を川に埋めて氾濫せしめる方法を講じたことである。清正公が如何に敵襲来にそなえていたかがわかる。
 また城内から八方に通じた凹道は、兵糧運搬のため用いる軍道で、また城中の石垣が右に左に、曲がり曲がった道は、攻めるに難く、防ぐに容易な、いわゆる二段がまえの戦法によって構築され、あるいはまた城中に井戸百二十余個を掘って用水の便を計るかと思えば、楠、榎を植えて籠城の日の薪炭に備え、刀の目釘には良質の竹を移植したり、特に一旦緩急の場合を慮り、城内屋内の畳の中に芋殻(ずいき)を敷き込み、銀杏樹を植えてその実を暗室に貯蔵するなど、実に至れり盡せりの築城技術は、今なお古今東西研究家の嘆賞するところである。
 その大計深慮は、かの西南の役において充分発揮され、籠城約二ヶ月、勇敢決死の薩軍を、ものの見事に食い止めし戦史によってもわかる。蓋し難攻不落の金城として、天下に号令するも決して偶然ではない。
 軍略家としての清正公は、また如何に偉大なる築城家であったかが、これによっても知られるではないか。