徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「淀殿の書」 からの・・・

2016-03-06 20:39:43 | 歴史
 今日、「開運 なんでも鑑定団」を見ていたら、豊臣秀吉の側室・淀殿の書という色紙が出てきた。鑑定の結果、淀殿の書ではなく、当時、淀殿の側にいたと考えられる才女の誉れ高かった「小野お通」の筆跡と一致するということでお通の書であるとして、25万円の値がついた。書かれているのは、平安末期から鎌倉時代の僧で歌人でもある慈円の、新古今和歌集に収められた歌。

「やよしぐれ物思ふ袖のなかりせば 木の葉の後に何を染めまし」

 「小野お通」については、以前このブログで取り上げたことがあるが、柳田國男の「妹の力」によれば、「5歳で歌を詠み、7歳で機を織り、技芸典籍何一つとして暗からぬ才媛であった・・・」とある。しかし、柳田國男も述べているように、この人の出自や経歴には謎が多いという。また、「小野お通」は永い間、「浄瑠璃」の開祖と信じられてきたが、時代の違いなどから今日では否定されている。また、吉川英治が小説「宮本武蔵」の中で創造したお通というキャラクターのモデルだともいわれている。大河ドラマ「真田丸」にははたして登場するだろうか。
 さて、淀殿は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂城が落城すると、秀頼とともに自害して果てるわけだが、実はその時、秀頼は大坂城を脱出していたという民間伝承をもとにした小説「秀頼、西へ」(岡田秀文著・光文社)を最近読んだ。脱出後の成行きを期待したのだが・・・
 次回のブラタモリではいよいよ熊本城が登場する。2007年に復元された本丸御殿も話題になるだろう。なかでも加藤清正が秀頼にもしもの時にはと用意したと伝えられる「昭君(将軍)之間」の絢爛豪華さは目を引くだろう。残念ながら、清正は大坂の陣の4年前に没し、秀頼もこの「昭君之間」に入ることはなかった。

▼熊本城本丸御殿・昭君之間」