徒然なか話

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島の千歳(せんざい)あれこれ

2014-05-05 11:54:54 | 音楽芸能
 昨日、フードパル熊本での花童公演終了後、顔見知りのおばちゃんが帰り際にひと言、「昨日より今日のほうが良かった!」。昨日というのは水前寺成趣園で行われた「水前寺をどり」のことだ。そりゃあそうでしょう、必ずしも花童の舞踊を見に来た人ばかりとは限らないフードパルのホールと、前日の水前寺の能楽殿とでは客層が違いますから。中村花誠先生もそれは承知の上、誰もが食いつきやすい曲目を選ばれたのでしょう。
 それはさておき、「水前寺をどり」では、最初に「松の緑」「島の千歳」「松の寿」と3曲続けて祝儀曲だった。中でもザ・わらべの二人が舞う「島の千歳」を見るのは二回目だが、今、最も興味深い演目の一つである。
 「島の千歳」とは「平家物語」に出てくる白拍子の起源といわれる女性のことだ。「平家物語」の巻第一「祇王」の段には

「そもそも我朝に、白拍子の始まりけることは、昔、鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前とて、これら二人が舞ひだしたりけるなり。初めは水干に、立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中ごろより、烏帽子、刀をのけられて、水干ばかりを用いたり。さてこそ白拍子とは名付けけれ。」

と書かれている。白拍子というのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種で、それを演じる芸人のことも白拍子といったらしい。後にはもっぱら白拍子を演じる遊女のことを指すようになったようだ。
 こんな由緒のある「島の千歳」という名前なのだが、この曲が出来たのは意外と新しく明治37年。小鼓の名手として名高い七世望月太左衛門が襲名披露の時発表されたという。大槻如電作詞、五世杵屋勘五郎作曲。太左衛門自ら作調した。当初は鼓と謡だけの、いわゆる「一調」で演じられていたらしい。ちなみに白拍子の祖の名前は正しくは「島の千歳(しまのちとせ)」だが、能の「翁」に登場する「翁(おきな)・千歳(せんざい)・三番叟(さんばそう」の読み方にあやかって曲名を「しまのせんざい」としたらしい。
 前半の祝儀曲らしい重厚な部分と後半の軽快な部分と、曲調に変化があるところが面白く、また能の「道成寺」のような、小鼓と舞の掛け合いによる「乱拍子」の足使いも見逃せない。さしずめ、中村くるみさんが「島の千歳」、上村文乃さんが「和歌の前」といったところか。できることなら一度、小鼓と謡の「一調」での舞も見てみたいものだ。

▼初めて映像を公開します


【歌詞】
丹頂緑毛の色姿朝日うつろう和田津海
蓬莱が島の千才がうたう昔の今様も
変わらぬ御代の御宝鼓腹の声腹の声打よする
四方のしき波立つか返るかくるか立か
返す袂や立烏帽子 水のすぐれて覚ゆるは
西天竺のはくらう池 しんせうきよゆうに澄渡る
こんめいちの水の色行末久しく澄とかや
賢人の釣を垂しは げんりょうらいの川の水
月影流もるなる山田のかけいの水とかや
芦の下葉おとづるは三島入江の
氷水春立つ空の若水は
汲むとも汲むともつきもせじつきもせじ