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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

歌会始

2017-01-13 17:52:11 | ニュース
 新春恒例の「歌会始」が、今日、皇居で行われた。
 今年の「歌会始」のお題は「野」だったが、天皇陛下を始め、皇族では皇太子妃雅子様と常陸宮妃華子様のお三方の歌に「那須野」が詠われていた。やはり那須御用邸でのご静養が印象深いのだろう。

★天皇陛下
 「邯鄲の 鳴く音聞かむと 那須の野に 集ひし夜を なつかしみ思ふ」

★皇太子妃雅子様
 「那須の野を 親子三人で 歩みつつ 吾子に教ふる 秋の花の名」

★常陸宮妃華子様
 「野を越えて 山道のぼり 見はるかす 那須野ヶ原に 霞たなびく」


 1983年3月から3年余り、僕は黒磯(現在の那須塩原市)に勤務したが、那須湯本の会社保養所管理も仕事の一つで、多い時は週3の頻度で那須湯本へ登った。那須御用邸は会社保養所からほど近い所にあり、もちろん入ることなどはできないが、とても身近に感じていた。保養所管理人の話では、昭和天皇はすぐそばまで散策して来られたことがあるという。
 今の季節はだいぶ雪も降り、那須街道も上の方はチェーン規制が行なわれていると思われるが、在勤時は湯本から少し登ったところにあったスキー場でスキーを楽しんだものだ。歌会始のニュースをテレビで見ながら、そんなことを懐かしく思い出していた。


那須御用邸(天皇陛下のお歌の季節はこんな感じ)


今の季節、那須山は雪に覆われている




熊本城本丸御殿を地震後初公開!

2016-10-12 20:10:42 | ニュース
 熊本地震発生からまもなく半年になるのを前に、地震で大きな被害を受けて立ち入りが禁止されている本丸御殿の内部が地震後初めて報道陣に公開された。

 本丸御殿は外観には大きな被害は見受けられないものの、最も格式が高い「昭君之間」では床が西側に4センチほど沈んでいる。土台となっている石垣内部の栗石や土が地震の揺れで沈下したためではないかという。また「若松之間」の障壁画の一部がゆがんだり、茶室の障子がたわんだり、壁に大きな亀裂が入っているのが確認された。
 一方、天守閣の方では、内部に大きな石垣が崩れ落ちていたり、建物と土台の石垣との間にすき間ができているのが確認できた。



昭君の間の框(かまち)が傾いている


廊下でビー玉を置くと自然に転がって行く


若松の間の障壁画は大きくゆがんだ部分が見られる


茶室の障子や壁の損傷がひどい


大天守の入口は石垣が崩れている


天守閣の土台が沈下し、建物と石垣との間にすき間が



▼本丸御殿で「春の宴」や「秋夜の宴」が行われる日は再びやってくるのだろうか・・・

ロンドン漱石館の閉鎖

2016-09-29 15:30:21 | ニュース
 夏目漱石の英国留学時代の資料を集めたロンドンの「ロンドン漱石記念館」が惜しまれつつ28日で閉館したというニュースが流れていた。私財を投じて記念館を運営して来られた恒松郁生教授は現在、崇城大学(熊本市西区池田)で教鞭をとっておられるし、漱石は国費留学だが、帰国するまでは熊本の第五高等学校に在籍したままだったという縁もある。「ロンドン漱石記念館」の閉館は残念ではあるけれど、展示されていた貴重な資料を熊本で見る機会を作っていただけるならばこんな嬉しいことはないのだが。



 ロンドン留学中の明治35年(1902)に初めて体験した自転車について、漱石は「自転車日記」というエッセイを書いている。下宿の婆さんから、なかば強制的に自転車を練習させられ悪戦苦闘するが、後には結構遠出もできるようになったらしい。しかし、漱石は帰国後、いっさい自転車には乗らなかったという。
 当時のヨーロッパでは自転車が大流行していた。日本でも明治のなかばには国産車も作られ、輸入も行なわれていたが、まだまだ自転車は一般庶民には高嶺の花。そこで自転車の時間貸しという商売が生まれ、借料は高価だったにもかかわらず大流行した。明治40年代に入り、こんなハイカラ風俗を皮肉って演歌師・神長瞭月(かみながりょうげつ)がバイオリン演歌「ハイカラ節」として歌ったところこれが大ヒット。熊本にも伝わり、お座敷唄の「熊本自転車節」となった。
 ちなみに「坊っちゃん」に登場する端唄「さのさ」も自転車ブームのハイカラ風俗を風刺した歌詞が紹介されている。



今日の話は昨日の続き・・・

2016-07-22 21:04:02 | ニュース
「今日の話は昨日の続き、今日の続きはまた明日」

 これは、7月12日に他界された大橋巨泉さんが、1960年代にラジオ関東で放送していた「昨日の続き」という番組の決まり文句として作ったそうである。
 この番組は、巨泉さんが前田武彦さん(2011年没)、冨田恵子さんとともにやっていたトーク番組だが、実は1964年に僕が大学進学して上京した時、最初に馴染んだラジオ番組で、毎晩これを聞いてから寝るのが日課となっていた。巨泉さんの名前を知ったのもこの番組だった。
 この当時はただ聞き流していたが、この「今日の話は昨日の続き・・・」という文句はとても深いなぁと思う。今、世の中で起こっているあらゆることが、数年前、数十年前、数百年前の人々が行なったことの結果として起こっているのである。今日起きたことが今日完結することはない。われわれの子孫が悲惨な目に遭うことがないように、今を生きるわれわれの責任として、誤った判断をするわけにはいかない。今日の話は明日へ、明後日へ、数十年後へと未来永劫に続いてゆくのである。


1964年、広島の原爆ドーム前、広島平和記念公園を走る聖火リレー

プログラミング教育ブーム

2016-06-14 20:06:24 | ニュース
 今、プログラミング教育がブームらしい。パソコン黎明期の、80年代初頭にプログラミングに七転八倒した僕には、懐かしさと同時に苦い思い出がよみがえる。しかし、昨今のブームは、僕らの頃のビジネスOA化とはちょっと違うようだ。家庭に入った女性が、家事や育児の合間に在宅ワークとしてプログラミング業務を請け負うのがトレンドだという。使う言語もJavaScript、Ruby、Perl、Python、PHP等々、聞き慣れない言語名が並ぶ。僕らの頃はもっぱら、COBOL、BASIC、FORTRANなどだった。僕は事務処理系だったのでCOBOLとBASICを使っていた。当時の一般的な事務処理は割と単純な繰り返し作業のプログラムが多かった。だから、表計算ソフトが登場すると、すぐにとって代わられた。最近のプログラミングはインターネットに関わるものだったり、ゲームだったりして複雑な処理をこなさないといけないと思われるので、僕が今から挑戦してもおそらくついていけないだろう。

永遠のヒーロー モハメド・アリ

2016-06-05 14:56:46 | ニュース
 20世紀の最も偉大なスポーツマンの一人、モハメド・アリさんが亡くなった。僕らの学生時代は彼の全盛期だったので、まさにスーパーヒーローだった。彼を初めてテレビで見たのが、1964年2月のソニー・リストンとの世界ヘビー級タイトルマッチだった。まだ、カシアス・クレイと名乗っていた。下馬評は圧倒的にリストン優勢。実際、試合が始まると、クレイはリストンのくりだすパンチを、スウェーバックやステップバックでかわす場面が多く、いつリストンがつかまえるかに注目していた。しかし、これがなかなかつかまらない。クレイの軽やかなステップはますます冴えてくる。そのうち追い疲れてきたリストンに、クレイの放つジャブやストレートが決まり出した。そしてとうとう6ラウンド終了すると疲れ切ったリストンは戦闘意欲をなくし棄権した。翌年、両者のリターンマッチが行われたが、今度はモハメド・アリと改名していたクレイがわずか1ラウンドでKO、返り討ちにした。
 こうして彼は世界チャンピオンとしてその名を全世界に轟かせたわけだが、彼が僕らの世代でヒーローとなったのはそれだけが理由ではなかった。世界タイトル剥奪も恐れず、ベトナム反戦や公民権運動などでエスタブリッシュメントと戦った。その頃の学生は皆、アンチ・エスタブリッシュメントだったから僕らの心をとらえた。
 1971年に世界チャンピオンに復帰した「キンシャサの奇跡」や1976年のプロレス猪木との異種格闘技戦などもあったが、僕にとっては、モハメド・アリの歴史の中では付録みたいなものだ。
 彼と同じ時代に生まれたことを幸せに思う。


両陛下 被災地へ!

2016-05-19 20:00:20 | ニュース
 天皇、皇后両陛下は今日午後、熊本地震の被災者を見舞うため、特別機で来熊された。
 両陛下は、自衛隊のヘリコプターで上空から被災地を視察した後、南阿蘇村と益城町で避難所を訪ね、被災者を見舞われた。


避難所で女の子から歓迎の花束をお受けになる天皇陛下



日帰りの強行日程でお二人ともお疲れになったことだろう


2013年10月、「全国豊かな海づくり大会」にご臨席のため来熊された時、提灯奉迎の列が続いた熊本城の不開門や北および東十八間櫓も崩壊してしまった。

明八橋が消える!?

2016-05-16 23:03:04 | ニュース
 今日の衆議院予算委員会で松野頼久議員の質問の中にとても心配な話があった。質問の大意は、熊本地震の被災に対する政府の支援の姿勢を問うものだったが、その中で松野議員は新町の坪井川に架かる明八橋を例にあげ、個人所有の歴史的建造物についても、歴史的景観を守るという観点から、その補修に政府の支援をお願いしたいという趣旨だったと思う。震災発生以降、新町方面へ行っていないので、被災状況はわからないが、議員の質問から推察するとおそらく個人では補修できないほどの被災状況なのだろう。同じ新町では、吉田松花堂も危ないという話も聞くし、ランドマークともいうべき建造物が消えてしまうのは忍びない。なんとか次の世代まで残してほしいものだ。

▼東京の「日本橋」や皇居の「二重橋」を架設した明治時代の名石工・橋本勘五郎が、熊本へ帰郷後、明治8年に架設した石橋


市松模様のエンブレム

2016-04-25 15:22:18 | ニュース
 2020年東京五輪・パラリンピックの公式エンブレムが、最終候補4作品から「市松模様」のA案に決定した。
 やや色味が寂しい面は否めないが、なんとなく最終的にはこれに落ち着くのではないかという気がした。

 昨年12月5日にこのブログに載せた「歌舞伎から生まれた言葉」の一部を再掲したい。

「市松模様(いちまつもよう)」
色違いの正方形を互い違いに組み合わせた紋様。石畳模様。寛保元年(1741)若衆方(のちに女方)の初代佐野川市松がこの模様の衣装を着たことから、-般の女性たちも競ってこの模様を使ったため大流行し、市松模様と呼ばれた。



鹿島大明神と中央構造線

2016-04-15 18:00:01 | ニュース
 昨夜来、メール、電話、ブログ、Facebookなどで多くの皆様にお見舞いをいただき心よりお礼申しあげます。今のところ、家族全員無事で、本当にありがたく思っております。余震はいまだ続いていますが、徐々に間隔があき、弱くなりつつあるような気がします。まだまだ油断はできませんが、このまま終息に向かうことを祈るばかりです。

 江戸後期の安政2年(1855)10月、江戸を襲った「安政の大地震」。家屋の全壊と焼失は一万四千戸以上、死者は七千人以上と伝えられています。江戸時代、地震は地下で大鯰が大暴れすることによって発生すると考えられていました。「安政の大地震」をきっかけに、大地震を起こしたという鯰や、それを押さえつける鹿島大明神など、鯰を題材とした多色摺りの「鯰絵」が発売され大ブームを呼びました。鯰を擬人化し、社会を風刺した「鯰絵」は、大災害に遭いながらもそれを洒落のめす、江戸庶民の「諧謔(かいぎゃく)」趣味にあふれています。
 東日本大震災の頃から「中央構造線断層」という言葉をよく見たり聞いたりするようになりましたが、実は、大鯰を押さえつけるという鹿島大明神のある茨城県の鹿島あたりを東端とする「中央構造線断層」の西端に位置するのが、今回の「平成28年熊本地震」の原因と言われる「布田川断層帯日奈久断層帯」なのです。古の人々は、経験的に鹿島大明神の位置的な意味に気づいていたのかもしれません。

万感胸に迫るラストラン!

2016-02-14 18:02:57 | ニュース
 52年前の2月某日、僕は上京して大学水泳部の合宿所に入った。先輩たちは東大の温水プールへ練習をしに行っていていなかった。この年は東京オリンピックの年で、例年よりも早くシーズンインしていたのだった。渋谷のとある喫茶店まで出て来るようにと、先輩の伝言が残されていた。僕はさっそく合宿所の最寄りの駅、東横線元住吉駅から電車に乗って渋谷へ向かった。それが青ガエルとの付き合いの始まりだった。以来4年間、青ガエルに乗って通学した。
 そんな昔のことを思い出しながら僕は、最後のお勤めをする青ガエルを見送った。万感胸に迫るものがあった。長い間お疲れさん!そしてありがとう!






最後の青ガエル ついに引退日が決定!

2016-01-08 18:53:43 | ニュース
 「青ガエル」の愛称で約60年にわたって走り続けた元・東急5000系電車、最後の1両がついに引退することを、今日、熊本電鉄が発表しました。引退日は2月14日(日)です。
 僕にとっては、1964年に東急東横線での通学に利用し始めてから、実に52年間なじんだ車両とのお別れがついにやってきました。言葉に出来ないくらいの寂しさが込みあげてきます。2月14日までの間、乗車したり、沿線から眺めたりして名残りを惜しみたいと思います。


女子に三角関数教えて何になる

2015-08-29 21:32:06 | ニュース
 「高校教育で女子にサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」という鹿児島県・伊藤祐一郎知事の発言が物議をかもしている。どういう経歴をお持ちの方かは存じ上げないが、女性の仕事の実態はご存じないらしい。三角関数そのものを取り扱う仕事なんて男女に関係なく、教師か数学者くらいしかいないだろう。ところが三角関数に限らず、数学はあらゆる仕事の中で使われている。
 僕がこれまでお手伝いした女性の仕事は、保健師、看護師、検査技師、管理栄養士など医療関係がほとんど。これらの人々の仕事は医師と連携して患者と接し、医療サービスを提供するだけが仕事ではない。医療の質を高めるため、いろんなデータを取り、それを統計分析したり、研究発表したりする仕事が必ず付いてまわる。今日ではパソコンの性能が向上し、ほとんどパソコンで処理できるようになった。しかし、そういった処理ソフトには必ず数学が使われている。統計解析した結果の説明をする時、その算法の説明を求められることも実際にあった。三角関数だってちゃんと教わっておくに越したことはないのだ。

30年目の日

2015-08-12 17:01:58 | ニュース
 今日は雨の予報もあったので、降り出す前にと早朝6時から家内と墓掃除に出かけた。何組かの家族もやって来た。
 今日は、520人の犠牲者を出した日航ジャンボ機の墜落事故から30年になる。あの事故はいまだに強烈な印象が残る。当時、栃木県の黒磯(現那須塩原)に住んでいて、夏休みには、まだ小学生や幼稚園児だった息子たちをジュニア・パイロット(ANAの子供のひとり旅)を利用して熊本まで帰省させていた。その年も事故の前日に帰したばかりで、事故の第一報を聞いた時、全身に悪寒が走ったことを思い出す。
 今日もご先祖様と、御巣鷹山に眠る事故の犠牲者の供養を合わせて手を合わせた。


千体地蔵(蓮台寺)

世界人気ナンバーワン都市“京都” あれこれ

2015-07-08 18:57:25 | ニュース
 昨日テレビで、アメリカの大手旅行誌「トラベル・アンド・レジャー」が行う「世界人気都市ランキング」で、京都市が2年連続1位になったというニュースが流れていた。
 さすがである。お隣の滋賀県に住んだこともあり、京都には公私にわたり何度も行ったことがあるが、当然の結果だろうと思う。

▼原風景
 その京都の風景写真の中で一番好きな写真がこれ。平家物語ゆかりの嵯峨野の祇王寺。苔のじゅうたんと青もみじが彩る緑の世界が幻想的である。僕はここに行ったことはない。なのになぜこの風景が僕の心をとらえて放さないかというと、実は幼い時に見た父の生家の風景にそっくりだからである。父の生家は立田山の麓、泰勝寺南側の鬱蒼とした木立の中にあった。いわば僕の原風景なのである。今日ではコンクリートのアパートが立ち並び、昔の面影はどこにもない。父がもし、生前この写真を見たらいったい何と言っただろうか。




▼京の街を彩るもの
 京都に長く住んでおられた舞踊団花童理事長の中村花誠さんがよく「京都の街づくりは神社と伝統芸能を中心とした花街が絶妙に融合し、京の風情を彩っている。この街づくりのシステムを熊本でも活用できないだろうか」とおっしゃる。
 たしかに京都には多くの素晴らしい神社仏閣が遺産として残っている。しかし、花街の文化や伝統芸能が残っていなければ、はたしてこれほどの人気を得ただろうか。僕はいつもそう思う。