ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

プロモーションだったのに…2

2020-04-20 12:05:00 | メディア
「甲斐バンド『裏切りの街角』を語ろう」の続きです…
「この鼎談の前に、甲斐さん本人に『裏切りの街角』を録り直した理由を聞いて来たんだけど
『ブラック(黒人音楽風)で泥臭く、デンジャラスな匂いのする感じにしたかった』とのこと

デビュー曲の『バス通り』のイメージを覆したいということだったみたいですね
『バス通り』の主人公は福岡商業(甲斐よしひろの母校)時代の甲斐さん本人ですからね」と松藤さん

甲斐さんご自身も、デビューアルバム「らいむらいと」には
「様々なテイストの曲を収めたにも関わらず
シングルカットされた『バス通り』1曲だけで
今後のバンドの方向性を決められてしまう」ことを良しとなさらず

「自分でバンドのパブリック・イメージを決めようと思った」ことや
甲斐バンド後期にクローズアップされた「ハードボイルドテイスト」も
「実は(『裏切りの街角』が収録された)『英雄と悪漢』からずっと引き継がれている」ことを話されてます

米田さんが「この曲は有線で火がついて、じわじわと売れて行ったんですよね」とおっしゃると
松藤さんは「うん。発売は6月5日なのに
オリコンでベスト10に入ったのは9月になってから。最高位の7位になるのは10月末です
発売まで時間がかかった曲だけど、ヒットするまでも時間がかかった」とお答えになり 

「それで75年の日本有線大賞の優秀新人賞を受賞するんですよね」という亀和田さんの言葉に
「当時は、曲が売れるかどうかは有線放送の影響が大きかったですね
地方の人に知って貰えないと、曲ってヒットに繋がらないんですよ
だから地方を回る時は、地元の放送局と有線の支店には必ず挨拶に行っていた
そうすると必ず有線でかけてくれるんです」と返されてますが

歌謡曲全盛期のヒットチャートに名を連ねるためには
演歌・歌謡曲の歌手の皆さんと同じような草の根プロモーションが必須だったんでしょうし
奥さんみたいな少女たちは、ラジオから流れる甲斐さんの声に魅せられ(笑)
アダルトな夜のお姉さま方(笑)は、有線をお聴きになって
絶大な支持を寄せられたんですよね?(笑)

更に、米田さんが「有線大賞だけでなく
(第17回)日本レコード大賞の新人賞にもノミネートされているんだよね?」とお訊ねになると
松藤さんは「受賞したのは片平なぎさちゃんだった
彼女が名前を呼ばれて壇上に移動するでしょ
その時、僕の席の真ん前を通ったんだけど
目の前を通り過ぎたヒップしか覚えてない(笑)」とお答えになっていて(笑)
ある意味、そのご記憶の方がレアなんじゃないかと…?(笑)

「曲が売れて生活は変わりました?」という亀和田さんの質問に
「移動がグリーン車になったのは覚えてる」と松藤さん
米田さんが「え、もう?」と驚かれると
「一応、オリコン7位と有線大賞の新人賞ですから」とおっしゃってますが

甲斐さんは、ここ数年、それなりに名前の売れた若手ミュージシャンやバンドの方々が
ライブの打ち上げに居酒屋へ行かれたり、コンビニで買ったビール等で
部屋飲みなさっていることをお知りになって
当時の甲斐バンドへの待遇との違いに驚かれてましたよね?(笑)

松藤さんが、その他の変化として…「あの頃はまだワンマンコンサートが出来なくて
海援隊とかバンバンとか、2マンで地方を回ったりしていたんだけど
それがワンマンで出来るようになった
あとは、それまではメンバー4人の共同生活だったのが
それぞれが1人暮らし出来るようになったくらいかな」と挙げられると
「『裏切り』がロックバンドとしての甲斐バンドを決定づけたことに変わりないよね」と米田さん

すると亀和田さんが「『HERO』で誰もが知る甲斐バンドになったけど
『俺はHEROより前から甲斐バンドを聴いていたぜ』というのが
初期から聴き続けているファンの誇りなんだよね
だから『裏切りの街角』に思い入れがあるファンは多い」と反応なさっているんですが

我が家の「初期から聴き続けているファン」(笑)は
「『HERO』の前と後で線引きするのは、圧倒的に男性ファンが多い(笑)」と分析(笑)
そういえば「ちちんぷいぷい」の料理人の方も
前回この「熱討スタジアム」に参加されていた船越英一郎さんも
「『HERO』より前からのファン」だと強調なさっていたような気が…(笑)

ともあれ…松藤さんが「大森さんが体調を崩して
バンドを解散することになった86年のコンサートでも『裏切りの街角』を演奏しました
この曲は甲斐バンドにとっても大切で、思い入れのある曲の1つです」と話されている通り

甲斐さんも昨年の45周年ツアーで、この曲を歌われる際には必ず
「光を当ててくれた曲」「世に出るきっかけになった曲」とおっしゃっていたそうだし
奥さんが、これまでのアニバーサリーツアーよりも、一層この曲が「沁みる」と言ったのも
当時の甲斐バンドのステージの様子が、まざまざと甦ったからじゃないかと…

「(甲斐さんは)飲んでいる時も詞とメロディを考えている
良いフレーズを思いつくとコースターの裏に書くのが癖みたいになってるし」と松藤さん
米田さんが「ある曲の制作のために箱根で合宿を張った時だったかな
(休みの日の)朝、食事を終えたら、甲斐さんが窓際の席で外の風景をずっと見てたんです

また詞のことを考えているなと思って声をかけずに食堂を出て
夜に夕食を食べに行ったら、同じ席で、同じ格好でまだ外を見ていた」と振り返られると
「そういうことはしょっちゅうだった
入り込んじゃうんだよね」と話されてますが
年間100本以上のライブをこなされていた頃は
ツアー先のホテルや移動中の車内で曲を書かれるのが「日常」になっていらしたんですもんね?

松藤さんが「サビの『しとしと五月雨』というフレーズは、実は甲斐さんのアマチュア時代の曲に
『長崎ラプソディ』というのがあって、その一節なんですよ
曲は未完成だったんだけど、甲斐さんはその言葉の響きが気に入っていて
いつか使おうと思っていたんだって」と明かされてますが

甲斐さんご自身も「アマチュア時代に長岡の家に遊びに行った時に作ってた
『長崎ラプソディ』という曲の『シトシト五月雨、わだかまり』
…っていうフレーズが気に入ってたんで、それを入れて作った」とおっしゃってました

ただ、メロディの方はかなりの難産でいらしたらしく
あの「オリエンタルなメロディ」は「幼い頃からのかすかな記憶」…
当時のご実家で夜な夜な繰り広げられていた宴(笑)で
「ワイ歌から軍歌、戦前から戦後に至る歌謡曲まで様々」な歌が歌われていたため
「その全ては、僕の体に自然吸収され血となり肉となっている」…から発露されたり
「インスパイアされて『紫のタンゴ』のメロディをインターメロに拝借」なさったみたいですけど…(笑)
コメント
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